気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

音楽を読む

岡田暁生『音楽の聴き方』(7)

今回から、第3章「音楽を読む-言語としての音楽」である。(第2章は、「音楽を語る言葉を探す-神学修辞から「わざ言語」へ であった)。「音楽を読む」とは、面白い表現である。岡田は「言語」にこだわっているので、何となくわかる表現ではあるのだが、どういうことを言っているのだろうか。

気分だとか運動感覚だとか質感といった要素は、間違いなく音楽の中で最も「感じやすい=分かりやすい」側面だろう。だが音楽とは矛盾に満ちた存在であって、最も感じることが容易な要素ほど、語るのはとても難しい。さまざまな比喩を駆使して、間接的に指し示す以外にない。そして逆に、誤解の余地なく言葉に置き換えられる部分ほど、それを聴いて明確に把握するには経験と知識が要る。専門的な耳が必要になってくるのである。感じて分かることは言葉にし難く、言葉に出来ることは感じるのが難しい――ここに音楽理解の独特の手強さがある。

確かに、ある曲を聴いてそれを言葉で表現しようとするのは難しい。誰かがある曲について語っているのを聞いてもその曲を感じることは難しい。だが今は音楽を「語る」話ではなく、「読む」話である。「読む」とは、どういう意味か?

この矛盾は、サウンドであると同時に言語でもあるという、音楽の二重性に起因している。ハンスリックは「素人は音楽においてもっとも多く「感じ」、教育ある芸術家はもっとも少なく「感ずる」」と言っていた。そして感じやすいけれども言葉では表現しにくいのが「サウンドとしての音楽」であり、言葉で明確に指摘できるが予備知識なしに感じるのは難しいのが「言語としての音楽」にほかならない。音楽は感じるものであるだけではない。それ自体が言語的な構造を持っており、つまり読むものでもあるのだ

「読む」とは、そういうことだったのか。音楽は、言語的な構造を持つ。なるほど。

かつて知人の作曲家に、「演奏家に最も強く望みたいことは何ですか?」と尋ねたことがある。私は「自分の曲はせめて音を間違えたりせず正確に弾いて欲しい」とか「出来れば少しでも見栄えよく仕上げて欲しい」とか「私が表現しようとした内容を理解して弾いて欲しい」といった答えを期待していた。ところが彼は、わたしにとって全く予想外の、しかし言われてみればまことにもっともな希望を口にした。つまり「音楽をきちんと言葉として読んでほしい」と言ったのである、音楽は決して単なるサウンドではなく、言葉と同じように分節構造や文法のロジックや意味内容をもった、一つの言葉でもある――このことを私は初めてリアルに理解した。

分節という言葉が出てきたので、辞典を見ておこう。(大辞林

  1. 一続きになっている全体をいくつかの部分に分けること。また,その分けられた部分。
  2. ゲシュタルト心理学で,それ自体の要素的分析ではなく,全体との関連のなかでのみ問題になり得る,全体のなかの構成部分。例えば,身体における各肢の機能など。
  3. 〔articulation〕 言語が音素や語などの単位に分割されること。

音楽が言語的な構造を持つとは、一曲全体が部分から成り立っていること、その部分は一定の規則で構成されているということを意味するものであろう。岡田の知人の作曲家は「演奏家」に向かって「音楽を言葉として読んで欲しい」と言っているのであり、聴く者に対して言っているのではないのだが、聴く者が他者と話をするときには、やはりこういう言語的な構造があることを踏まえた上で、話をすれば話が弾むだろう。

次のようなことを考えれば、音楽もまた一つの言語であることは、更に明らかになるだろう。それは分節/文節の問題である。例えば「僕は学校に行く」と言う文章は、「僕は/学校に/行く」と言う具合に、3つの文節に分割される。周知のように文節とは、それだけ取り出してもきちんと意味の通る、文章の最小構成単位だ。…音楽でも実は、全く同じことが当てはまるのである。例えばベートーヴェンの《運命》冒頭の「ダダダダーン」は、意味ある一つのまとまりとして感じられる。つまり文節である。しかし単なる「ダ」では何のことか意味不明だろう。それが偶然切り取られた音楽の一部なのか、それとも単にコントラバス奏者が誤って音を出しただけなのか、区別はつくまい。「ダ」は意味を持たない単なる音節なのであって、このように音節と文節の区別があるという意味でもまた、音楽は言語なのだ

f:id:shoyo3:20160223214801j:plain

http://onotomoko.jp/wp-content/uploads/2015/10/e76eba2ad8eff90b2ea9246a32c24a1c_s.jpg

 

岡田は「音楽もまた一つの言語である」と言っているが、ちょっと言い過ぎではないかと思う。「言語的な構造」を持つと言っておけばそれで十分ではないか。音節と文節がある。規則により全体が構成されている。これでいいのではないか。私には「規則により全体が構成されている」という点で、一つ理解が深まったような気がしている。言われてみれば当たり前だが…。

ズルツァーやカントといった(音楽については門外漢の)哲学者たちは音楽を「快適な物音」に過ぎないと考えていたわけだが、専門家たちは音楽の言語性を強く意識していた。

哲学者たちの美学(芸術論)が、すべて音楽を「快適な物音」と考えたか疑問があるが、ここでは詮索しないでおこう。

ウィーン古典派時代の演奏美学を代表するテュルクは、…次のような文章を挙げる。

Er verlor sein Leben nicht,  nur sein Vermögen (彼は命を失わなかった。単に財産をなくしただけだった。)

Er verlor sein Leben,  nicht nur sein Vermögen (彼は命をなくした。財産を失っただけではなかった。)

テュルクに言わせれば、ある楽想を間違って区切る人は、文章の途中で止まって息をする演説家と同じことをしている。音楽家たるもの、意味内容(内容)および分節構造(形式)の両面から、音楽をセンテンスとして読まなければならない。大切なのは美麗な響きでも圧倒的な技術でもない、まずは文法(分節と句読点)をきちんと守り、はっきり聴き手に伝わる明瞭な発音で、内容にふさわしい感情をもって発音することなのだ。少なくともこの時代、音楽は感性である以前に、まず一つの「言葉」と考えられていたことが分かるはずである。

 

次回は、音楽の分節規則の具体的な話になる。