気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

法の射程と限界(2) 「被害者なき犯罪」は処罰しなければならないのか?

平野・亀本・服部『法哲学』(10)

服部は、「自由への正当な干渉」の第2候補として、リーガル・モラリズムを挙げている。

第2に、売春や猥褻文書頒布などの道徳犯罪に関して、法による道徳の強制、すなわちリーガル・モラリズムの是非が問われる。

リーガル・モラリズムとは、「法による道徳の強制」のことである。それゆえ、

不道徳な行為を不道徳だというだけで法的処罰の対象にしたり、私法上の不利益を課したりする。

ことになる。これにはかなりの人が、ちょっとおかしいのではないかと思うだろう。「確かにその行為は不道徳かもしれないが、他人に迷惑をかけなければ、法的処罰の対象にするほどのこともなかろう。それに何が不道徳かは簡単に決められるものではない。」というわけである。(危害原理については、前回記事 法の射程と限界(1)他人に迷惑をかけなければ、何をしようと自由なのか? 参照)

リベラリズム*1は、リーガル・モラリズム=法による道徳の強制に反対する。

人がどのような生き方を選択するかは、その人自身の決定に委ねられるべきだとするリベラリズムの考え方に依拠するならば、共同体のメンバーの中で共通に善いとされる生き方を個人に強要することは、個人の自由の故なき侵害である。不道徳な行為を不道徳だというだけで法的処罰の対象にしたり、私法上の不利益を課したりするリーガル・モラリズムは、リベラリズムの観点からは正当化されないであろう。

こういうふうに抽象的に言われると、強要→良くない、自由の侵害→良くない、というイメージがあるものだから、「道徳を法により強制すべきではない」というリベラリズムの主張を支持する、ということになる。これを次のように言い換えてみたらどうなるか。「共同体のメンバーの中で共通に善いとされる生き方を、共同体のルールとして採用することは、野放図な自由を制限するだけであり、個人の自由を否定するものではない。」

服部は、次のように述べている。

とはいえ、他者に迷惑をかけなければ何をしても良いという意味でリベラリズムが理解されてよいわけではない。我が国において一夫一婦制が制度化されていることや、公序良俗に反する法律行為が無効とされることにも示されているように、社会の中で支持されている道徳的な秩序が制度化され、あるいは規範生成過程に組み込まれることはしばしばあるし、正当だと考えられている

また、猥褻文書や売春などの「被害者なき犯罪」と呼ばれる刑法上の犯罪類型においても、それらが法的規制の対象とされる根拠には、社会道徳の維持という要素が重要なものとして含まれている。こうした法的規制を自明と考える人々もいる一方、多数者が支持する社会道徳を少数者に強要するものだとして、これを問題視する見方も当然ありうるだろう。例えば、わが国では法的な規制対象にされていないが、諸外国では同性愛行為が刑罰賦課の対象とされた例が数多くあり、その正当性をめぐって激しい議論が繰り広げられた。

ここでは、猥褻文書や売春が「被害者なき犯罪」とされているが、他にどういうものがあるのだろうか。

被害者なき犯罪とは、1965年にアメリカのエドウィン・シャーおよびヒューゴ・ベドーにより提案された「被害者のいない(ように見える)犯罪」を指す刑事法学上の概念。売春、賭博、違法薬物、堕胎、ポルノ(猥褻図画頒布、公然猥褻)、自殺、不法移民、武器所持、不倫(姦通罪)などが典型例として挙げられる。談合、脱税、贈収賄、選挙違反も入ることがある。(Wikipedia)

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http://thepoliticalscienceclub.com/wp-content/uploads/2014/12/Prostitution-pic.png

 

これでかなり具体的なイメージを持つことができる(「自殺」が含まれているのは、「安楽死」「自殺幇助」の問題だろうか)。猥褻文書や売春、同性愛だけを問題にしているのではない、ということを押えておこう。

服部は、法と道徳の関係について、次のように考えている。

法による道徳の強制の是非というこうした問題については、社会秩序の維持という目標に配慮を払いながらも、リベラリズムの根源にある「かけがえのない個人」または「個人の尊重」というより根本的な個人主義の価値を基礎に、かかる法的規制の正当性と限界について慎重に考えていくべきであろう。そしてその際には、諸個人がそれぞれに追求・実行する多様でかつ独自の生のあり方を最大限に尊重するということを基本にしながら、そうした多様な生のあり方の共存を可能にするための最小限の規制のみが許されるという観点から、道徳的秩序が法により強制されうる限界を厳しく画定するという姿勢を基本とすべきだろう。

売春、賭博、違法薬物、堕胎、ポルノ(猥褻図画頒布、公然猥褻)、自殺、不法移民、武器所持、不倫(姦通罪)、談合、脱税、贈収賄、選挙違反などを、規制(ルール化)すべきかどうかについては、それぞれ個別に考えなければならない。法的規制をすべきか否か。既に法律化されていればその正当性は何かという問題である。

視点は何か。「被害者の有無」、「社会秩序の維持」「かけがえのない個人/個人の尊重」、他に考慮すべき点はないか。

社会秩序の維持というのはわかる。では、「かけがえのない個人/個人の尊重」とは何か。当然のようにも思えるが、必ずしも明確ではない。私は「安楽死」問題が大きな問題であると考えているが、別途検討することにしたい。

服部は「諸個人がそれぞれに追求・実行する多様でかつ独自の生のあり方を最大限に尊重するということを基本に…」と言っているが、ちょっとひっかかるものがある。何かと言うと、「諸個人は、多様でかつ独自の生のあり方を追求・実行することができない。」という現実があるということである。尊重しようにも、そのような「独自の生のあり方」が存在しない人がいるということである。自由人ばかりではないのである。むしろ、こちらのほうが問題のような気もする。

ここで「被害者なき犯罪」とされるもののいくつかを論じたいところであるが、服部が次に述べている「パターナリズム」や「ケアの倫理」をみてからにしよう。

 

*1:リベラリズムは多義的な言葉であるが、これを詮索することはしない。私のこの「読書ノート」の方針は、できるだけ当該著作の記述に従い(できるだけ他の著作や論文を参照することなく)自分の頭で考えてみようというものである。Wikipediaコトバンクを参照することはあるが。