浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「魔法のランプ」をこすれば アヒルが ガア、ガア、ガア!

ラマチャンドラン,ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(18)

前回と前々回の「なぜ男性はブロンドを好むのか?」の話は、本書第10章の「笑い死にをした女性」のなかにある話である。この話のあと、ラマチャンドランは、まじめに「笑い」について考察している。

「笑い」について、「理に適った進化的説明」ができるのかどうか。

異星人の行動学者が地球に来て人間を観察したら、笑いは間違いなくリストの上位を占めるだろう。人びとが交流するのを観察している彼は、ときどき私たちがしていることをふいに中断し、幅広いさまざまな状況に反応して顔をゆがめ、反復性の大きな音をたてるのに気づく。この謎めいた行動は、いったいどんな機能を持っているのだろうか。

そういえば、猿はどうか知らないが、犬や猫やミミズやコウモリやゴキブリや鯛やウナギやカブトムシやカマキリが笑っているところを未だ見たことがない。彼らは何故笑わないのだろうか。

笑いの現象の細部は文化によってさまざまであり、育った環境に影響されるが、だから遺伝的に規定された笑いのメカニズム――あらゆるタイプの笑いの根底をなす公分母[深部構造]――がないとは言えない。…ユーモアと笑いの生物学的起源に関する説は古くからあり、ショーペンハウアーとカントという、著しくユーモアに欠けるドイツ人の哲学者にさかのぼる。

ラマチャンドランは、二つのジョークを紹介しているが、ここでは二つ目のジョークを引用しておこう。

茶色の紙袋をもった男がバーにきて酒を注文した。バーテンダーは酒を出したあと、好奇心から「その紙袋に何が入っているんですか?」とたずねた。男は小さく笑って「見たいかね。いいとも、見せてあげよう」と言った。そして袋に手を入れて、高さが20cmもない小さなピアノを取り出した。バーテンダーが「これは何です?」と聞いたが、男は無言でまた袋に手を入れ、今度は身長30cmくらいの小さな男を取り出して、ピアノに向かって座らせた。「ひえー」。バーテンダーは仰天した。「こんなものを見たのは生れて初めてですよ」。小さな男はショパンを弾きはじめた。「あれまあ。いったいどこで手に入れたんですか?」とバーテンダーが聞くと、男はため息をついて言った。「実は魔法のランプを見つけてね、その中に精霊が入っていたんだ。たった一つだけ、何でも望みをかなえてくれるというやつだ」。「ああ、そうでしょうとも。ふざけないでくださいよ」。「信じないのか?」男はむっとしたように言った。そして上着のポケットに手を入れて、持ち手に凝った装飾をほどこした銀のランプを引っ張り出した。「これだ。このランプのなかに精霊がいる。信じられないなら自分でこすってみればいい」。そこでバーテンダーはそのランプをカウンターの自分の側に引き寄せ、男の顔を疑わしそうに見てからこすりはじめた。するとぱっと精霊があらわれて、バーテンダーにお辞儀して言った。「ご主人様、何なりとお申しつけください。望みを一つかなえましょう。一つだけです」。バーテンダーは息を止めたが、すぐに我にかえって言った。「そうか、そうか。では100万ドル(バックス、bucks)くれ!」。精霊が杖をふると、たちまち部屋中におびただしい数のアヒル(ダックス、ducks)があふれて鳴きたてた。そこらじゅうものすごい鳴き声だ。ガア、ガア、ガア! バーテンダーは男をふりかえり、「この精霊は何なんだ! 100万ドルと言ったのに、出てきたのはアヒルが100万羽。あいつは耳が悪いんですか」。男はバーテンダーの顔を見て答えた。「君は本当に私が30cmのピアニストを頼んだと思うかね?」

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茶色の紙袋をもった男は、ピアニストを頼んだのではないとしたら、何を頼んだのだろうか。老いた精霊は、何を聞き間違えたか。あるいは、わざと聞き間違えて、ショパンを弾くピアニストを現出させたか。だとしたら、教養ある文化人に違いない。

(参考:http://pureness.asablo.jp/blog/2006/04/28/345340

ラマチャンドランは、このジョークをクーンに結びつけている。

ジョークや面白い挿話は表面的には多様だが、大半は次のような論理的構成にしたがっている。一般的に聞き手を惑わして間違った予想の方向に誘い、少しずつ緊張を高める。そして最後に、先の情報を根本的に解釈し直さざるを得ない予想外のどんでん返しをする。しかも新しい解釈は、まったく予想外であるにもかかわらず、もともと「予想されていた」解釈と同じくらい、事実全体を「意味」のあるものにする解釈であることが不可欠である。この点でジョークは、「異常」に対する反応が、科学的な独創性と、つまりトマス・クーンが「パラダイム・シフト」と呼んだものとかなり共通する。(非常に独創的な科学者がすばらしいユーモアのセンスを持ち合わせているのは、恐らく単なる偶然ではあるまい。)もちろんジョークにある異常とは伝統的な落ちのことであり、ジョークが「おかしい」のは、まったく別の解釈をすることで同じ一組の事実を異常な結末に組み込む仕組みを聞き手が瞬時に見抜き、落ちをつかんだ時だけである。惑わしの前置きが長くて回りくどいほど、最後の落ちが面白くなる。うまいコメディアンはこの原理を利用して、時間をかけてストーリーの緊張を高める。タイミングの早すぎる落ちほどユーモアを台無しにするものはないからだ。

ラマチャンドランは、このジョークを「科学論」として受けとめたが、私はこれを「人生論」として受けとめることが出来ると思う。すなわち、人生は冗長な句である