浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

功利主義(6) どうすれば幸福の計算ができるのか?

加藤尚武『現代倫理学入門』(6)

もう一度、功利主義とはどういう考え方であったか確認しておこう。この基本のところを押えておかないと、「幸福の計算」の意味合いがわからなくなる。

功利主義は、行為や制度の社会的な望ましさは、その結果として生じる効用(功利、有用性)によって決定されるとする考え方である。…ベンサム功利主義は、古典的功利主義とも呼ばれ、個人の効用を総て足し合わせたものを最大化することを重視するものであり、総和主義とも呼ばれる。「最大多数の最大幸福」と呼ばれることもあるが、正確には「最大幸福」である。この立場は現在でも強い支持があるが、一方で、さまざまな批判的立場もある。(wikipedia)

私が基本として押さえておきたいと思うのは、上記の赤字にした部分である。即ち、①行為と②制度の「社会的な望ましさ」を「効用」(これを「幸福」という言葉に置き換える)によって決定するという考え方である。

第1に、ある行為が、社会的に望ましいか否かを、「幸福」によって、決定する。[行為功利主義

第2に、ある制度(法、規則)が、社会的に望ましいか否かを、「幸福」によって、決定する。[規則功利主義

 

ここで「幸福」とは、「みんなの幸福」である。私は「功利主義」とは、いまのところ

  • みんなが幸福になるよう暮らしていこう。
  • みんなが幸福になるよう、行為し、社会生活のルールを決めていこう。

という考え方であると理解している。したがって、功利主義というより、幸福主義といったほうが適切ではないかと思う。(効用、功利、快楽、満足、幸福など、いろいろな言葉があるが、私は「幸福」がもっとも分かりやすく、適切な言葉ではないかと思う)。

さて、「みんなの幸福」をどう把握すれば良いのか。「幸福」といっても千差万別である。そのような千差万別の幸福をどうしたら測定し集計することができるのか。これが問題である。

加藤は、功利主義(最大幸福原理)の欠点を5つ挙げていたが、第2番目は、幸福加算の不可能性(各人の幸福や多数の人の幸福を加算することができない)であった。(功利主義(4)「幸福」の追求は、望ましいことなのか? 参照)

千差万別の「幸福」を集計するなど出来るはずがない、と一蹴したいところであるが、そのように決めつけないで考えてみよう。

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http://previews.123rf.com/images/otnaydur/otnaydur0909/otnaydur090900293/5557721-Measuring-happiness-concept-using-burnt-paper-with-word-happiness-printed-on-it-and-golden-key-surro-Stock-Photo.jpg

 

では加藤の話を聞いてみよう。

私が1000円で、定食を食べるのを止めてCDを買った時、欲望の思想家は、「より大なる欲望・満足・幸福が存在したからだ」と判断して疑わない。

満足度(幸福)を測定可能だと主張する人(欲望量の思想家)は、例えば、定食の満足度は90ポイントであるが、CDの満足度が120ポイントなので、CDを買うのだと主張する。同じように、いろいろな商品(サービスを含む)に満足度としてのポイントを付与することができる。なおこのポイントは、商品の価格とは関係がない。(商品以外にもポイントを付与することができる。例えば、報酬1万円の仕事と4時間の休息時間の選択が可能だった場合に、休息時間の価値=ポイントを考慮することによって、いずれかを選択する)。

しかし、そのような量的な比較の基準になる単位は存在しない。私が、CDを選好するという自分の判断に、1000円の賭け金を積んだから、「1000円の価値を持つCD」という価値が社会的に発生したのだ。決断が、本来は量ではないものに、金銭の量としての社会的な表現を与えたのだ。

そのCDは1000円の値札が付けられていたとしても、そのCDがその固有の性質として1000円の価値を持っているわけではない。私が1000円を払っても良いと考え、買ったから、そのCDの価値が1000円となったのである。800円にまけてくれたら買うという人がいて、その店の人が実際にまけてくれたら、そのCDの価値は800円となるのである。(主観価値説、効用価値説)…この理解で良いか?

「そのような量的な比較の基準になる単位は存在しない」と言い切って良いのか。満足度(幸福)を測定可能だと主張する人は、主観的な価値評価としての「ポイント」を持ちだした。これは「量的な比較の基準になる単位」ではないか。…私が、上記引用文で引っ掛かるのは、アンダーラインを引いた部分である。「ポイント」と「価値」と「価格」の各概念の混同があるように思う。ここで「ポイント」と言うのは、主観的な価値評価であり、量的な比較の基準となるものである。引用文の「価値」というのは、社会的な価値である。だが、そのような価値は、どこにも見つけることができない。見つけることができるのは、「この店では、この期間に、1000円のCDが、X枚売れた」ということだけである。どうして「価値が社会的に発生した」などと言えるのか分からない。

価値の実体があるから、交換が成り立つのではなく、交換があるから、価値と言う疑似実体が成立する。

この表現には注意を要する。物に何ら価値が無ければ、売買(交換)は成り立たない。物には「使用価値」がある。その物を使用することによって何らかの満足を得られる。それ故、売買(交換)が成り立つ。「交換があるから、価値と言う疑似実体が成立する」というときの価値とは、「交換価値」のことである。「大量」にある「空気」は使用価値があるが、交換価値は無い。…この理解で良いか?

上記引用文も誤解を招き易い表現であると思う。なぜ「価値の実体」とか「価値という疑似実体」などと、「実体」という言葉を使わなければならないのか。物に「使用価値」があるから、売買(交換)が成立する(他の条件もあるが)と言っておけば良いのではないか。(使用価値があるとは、その物を消費/使用することによって、満足(幸福)が得られるということである)。「疑似」とはいえ、「実体が成立する」という言い方は適切とは思えない。

欲望があるから、選好が<より大なる効用>を示すのではなくて、選択が行われるから、まるであたかも<より大なる量>が存在するかのような仮象が生まれる。しかし、この仮象は幻影ではない。立派に社会的な実在を持っている。

仮象、幻影、実在などという言葉を使われると、幻惑させられるが、「定食ではなく、CDを選択したのは、客観的価値が定食より大だからではない。CDが選択されたので、そのようにみえるだけだ。」と言っておけばよいのではないか。衒学的な表現のように感ずる。(「実在を持っている」とは、おかしな表現だ。)

 

話がおかしくなってきた。…「幸福」をどう集計するかという話だった。

Wikipediaの効用の説明をみてみよう。(効用=満足=幸福と理解しておく)

効用とは、ミクロ経済学の消費理論で用いられる用語で、人が財(商品や有料のサービス)を消費することから得られる満足の度合い、あるいは使用価値を表す。

効用を測定する方法としては、基数的効用序数的効用とがある。前者が効用の大きさを数値(あるいは金額)として測定可能(A:10、B:4、C:7)であるとするのに対して、後者は効用を数値として表すことは出来ないが順序付けは可能(A>C>B)であるとする点で異なり、両者の違いは、これは効用の可測性の問題として、効用の概念の発生当初から議論の対象であった。

当初は基数的効用として考えるのが主流であった。効用は測定可能で、各個人の効用を合計すれば社会の効用が計算され、また、異なる個人間で効用を比較したり足し合わせることも可能であると考えられた。

しかし、効用の尺度として客観的なものを見出すことができなかったため、現在では多くの経済学者が、「ある選択肢が、他の選択肢より好ましいかどうか」という個人の選好関係を基に、より好ましい財の組み合わせはより大きな効用をもつ、という意味での序数的効用によって効用を考えている序数的効用は主観的なもので、異なる個人間で比較することも、単純に各個人の効用を足し合わせて社会全体の効用を測定することもできないとされる。(wikipedia)

私が先に「ポイント」と言ったのは、基数的効用の大きさを数値であらわしたものである。1個人に限ってみれば、必ずしも測定不能というわけでもなさそうだ。しかし、異なる個人間で効用を比較したり集計するなどと言うことは、どう考えても可能ではないようにみえる。では「序数的効用」はどうか。

序数的効用とは何か。「順序付けが可能な効用」と考えておこう(上例では、A>C>B)。ミクロ経済学の消費理論では、この序数的効用をベースに理論構築しているようだが、これと「社会全体としての効用」(幸福の集計)はどう関係してくるのか。…上の引用文の最後に、「序数的効用は主観的なもので、…単純に各個人の効用を足し合わせて社会全体の効用を測定することはできない」とある。経済学は、「社会全体の効用」を考えないのか、wikipediaが間違っているのか。

キリが悪いが、今回はここまでにしよう。