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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

探究と創造 教育を語る(ノーム・チョムスキー)

吉成真由美『知の逆転』(4)

テストをするために教育をするという傾向は、本当に有害だ。ついこの間、小学校6年生を教えている先生と話をしましたが、生徒の1人がやってきて、その日クラスで習ったことについて、さらにその先を調べてみてもよいかと聞いた。でもその先生は、来週の試験のために勉強しないといけないから、だめだと言わなければならなかったと――。先生の給料や出世が、生徒の試験の成績で決まってくるので、強制的なのです。ブッシュ時代よりもオバマ時代になってからのほうがひどくなった。

言い古されたことではあるが、試験で良い成績をとる→良い高校に入る→試験で良い成績をとる→良い大学に入る→試験で良い成績をとる→(A)良い会社に入る(国家公務員になる、医者・弁護士等になる)→高い給料(報酬)を得る→贅沢なくらしをする→幸せだ。(B)良い大学院に入る→良い論文を書く→博士の資格を得る→大学教授になる(高級官僚になる)→金・地位・名誉を得る→幸せだ。大まかには、こんなところだろう。そして、この流れを奇異に感じない人びとが、このシステムを維持する。この流れをもっと単純化して言えば、<試験で良い成績をとる→金・地位・名誉を得る→幸せだ>となる。この流れに与しない者は、XX(ex.さまざまな言説や流行に押し流されず、冷静な目で物事の本質を問うことのできる人)と呼ばれるだろう。

子供たちの自然な好奇心をはぐくみ、内面から出てくる興味に根ざした教育をすべきだという教育哲学は、18世紀の啓蒙思想までさかのぼることができます。学校をバケツに水を注ぐような教育組織と考えず、むしろ筋道を作ってやり、それに沿って生徒たちが自分のやり方で探検していくようなものと考えたほうが良いというわけです。生徒たちがドキドキして自ら知りたいと思うように励ますような教育システムであるべきだと。…18世紀の洞察は基本的に正しいでしょう。探求と創造を教育の柱にするということです。

何のための教育か? 企業奴隷を生産するための教育? そうではないだろう。「探究と創造」を教育の柱にすべきだろう。「生徒たちがドキドキして自ら知りたいと思うように励ますような教育システム」であるべきだろう。18世紀の啓蒙思想を学ばなければならない。

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自分たちの経験から言っても、あまり興味のないことや外から押し付けられたことを勉強して試験で良い点を取っても、それから2週間もすればそんなことはすっかり忘れてしまう。もし、知りたい、作りたいという要求が自己の内部から出てきた場合、教育がそれらの興味を伸ばすための枠組みとサポートを提供することで、本人はさらに先へと進んで、新しい発見に結びつくわけです。

「興味のないこと」や「知りたいと思わないこと」でも、「試験で良い点を取ること」が良いことだ、と親や教師や「世間」に植え付けられれば、それに向かって邁進する。「何のため?」と考えない。一瞬考えたとしても、雲をつかむような話なので、答えが得られるはずもなく、その問いは閉じ込められてしまう。

チョムスキーは、「知りたい、作りたいという要求が、自己の内部から出てきた場合」と言っているが、問題は、そのような要求がどのようにして「自己の内部から」出てくるかである。私は、そのような要求が自己の内部から出てくるように手助けするのも教育ではないかと思う。教育以外に、家庭やテレビや世界の動向や友達との会話やその他もろもろのことが、「知りたい、作りたいという要求が、自己の内部から出てくる」ことに寄与するのだが、「教育」がかなりの影響力を持つことは間違いないところだろう。しかし、自己の内部から出てくる要求内容が、「お化け」の可能性もあるわけで、それをどう扱うかは難しいところである。先ほどの「ドキドキして自ら知りたいと思う」ものについても同様なことが言える。

「知識」を切り売りするのが教育ではない。「知りたい、作りたいという要求」を引出し、手助けする、それが教育だろう。私には、今も昔も、小学校から大学にいたるまで、ごく一部の例外を除いて、「教師」とは「知識の切売り商人」にとどまっているように思われる(誤解であれば良いのだが)。

理想とする教育とは、子どもたちが持っている創造性(creativity)と創作力(inventiveness)を伸ばし、自由社会で機能する市民となって、仕事や人生においても創造的で創作的であり、独立した存在になるように手助けすることです。

MITのような世界的に優れたエンジニアリングとサイエンスの大学では、授業に出てノートを取り、それを試験で再確認するようなことは一切期待されていない。むしろ例えば教授の言っていることに見事に挑戦できること、あるいは、他の人たちと協力して、独自の創造的な仕事をすることが期待されている。本当に重大な仕事は、たいて他の人との協力の下に行われるからです。

人々を訓練して労働者にすることはできる。しかしそれでは企業にとって短期の利益は得られても、人間の発展や経済の発展にはつながっていかない。

先ほど、「生徒たちがドキドキして自ら知りたいと思うように励ますような教育システム」という話があった。私は、「教育」を「学校」だけに限定して考えるのはおかしいと思っているので、「生徒たち」に限る必要はない。学校を卒業して社会に出ても、「教育」はある。会社に入れば「社員教育」やOJTがある。一人前の職人になるには、先輩から多くのことを学ばなければならない。スポーツ選手もコーチからいろいろ学ぶ。生け花や舞踊その他諸々みなおなじである。強制されて、いやいや学んでいても、一人前になれない。日々いろんなことを経験しながら生きていくのも同様である。「仕事や人生においても、創造的で創作的であること」。そしてまた私たちは、一人では生きていけない。「他の人たちと協力して、独自の創造的な仕事をすること」。

いまアメリカでは驚くようなことが起こっているのです。カリフォルニア州を例にとってみましょうか。おそらく世界中で、一、二を争う富裕な場所でしょう。非常に高いレベルの公教育システムがありましたが、崩壊しつつある。バークレーカリフォルニア大学バークレー校)やUCLA(同ロサンゼルス校)などの主要大学は、おそらく私立に移行するでしょう。既に他の私立大学同様、授業料が高くて高い資産を持つ大学に変ってきていますから、特権階級のための私立大学に変っていって、他の大学は職業学校のような形に移行してしまうのではないか。これが世界一裕福な場所で起こっていることなのです。…世界でも有数の富裕な場所であるカリフォルニア州が、進んだ公教育制度を壊そうとしているわけで、これは全く経済的理由からではなく、単に社会的な選択なのです。

このインタビューは2010年に行われたが、未だ私立大学に移行せず、州立大学のままである。特権階級のための私立大学に移行することなく、高い授業料で特権階級のための州立大学に移行しつつあるのか、そうでないのか実態はしらない。

ただチョムスキーが述べているように、「進んだ公教育制度を壊そうとする力」が存在するだろうということ、そしてそれが現実化するかどうかは、「社会的な選択」であるということは自覚しておくべきだろう。