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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

親密圏/公共圏(2) 愛の共同体(2)

読書ノート 私たち

齋藤純一『公共性』(16)

前回は、「親密圏」という言葉を、「家族」と言う名の「愛の共同体」の意味に理解しておいた。今回は、親密圏と家族と愛の共同体は、意味合いが異なるという話である。その前に、「公共圏」との違いについて、

公共圏と親密圏を分析的に区別する規準として適切と思われるのは、公共圏が人びとの〈間〉にある共通の問題への関心によって成立するのに対して、親密圏は具体的な他者の生/生命への配慮・関心によって形成・維持されるということである。「具体的」というのは二重の意味においてである。第1に、親密圏の他者は見知らぬ一般的な他者、抽象的な他者ではない。親密圏の関係性は間-人格的(inter-personal)であり、そうした人称性を欠いた空間は親密圏とは呼ばれない。第2に、親密圏の他者は身体性を備えた他者である。親密圏においては、濃淡の違いはあるにしても、他者の生命・身体への配慮が人びとを繋ぐメディアである。

公共圏の他者が、「見知らぬ他者」、「抽象的な他者」であることにより「親密さ」を感じられない。人称性を欠き、身体性を備えていないので、生/生命への配慮・関心がない。例えば「ソマリア難民」と聞いても、どこで、どんな生活をしているのか具体的なイメージがわかない。私たちの「親密圏」には存在しない。

他方、親密圏と家族は、分析的にどのように区別しうるだろうか。親密圏においては愛という感情が人びとを結びつけることもあるが、それがすべてではない。親密圏と小家族と「愛の共同体」とを同一視する捉え方は、いくつかの問題性を含んでいる。問題はまず、家族と「愛の共同体」との等値にある。家族と愛を結合する「家族愛」については、そのイデオロギー性をあらためて問うには及ばないだろう。それは、ある成員にのみ一方向的な奉仕と献身を要求する装置として働いてきた。さらに、いわれる「愛」がもっぱら異性愛を指すとすれば、そうした「家族愛」イデオロギーは、同時にヘテロセクシズムを再生産し強化する装置でもある。それは、異性愛の両親、愛情に発するケアといったモデルに適合しない家庭――同性愛者の「家族」、単親の「家族」等々――を「異常」なものとして表象させる効果を持つ。

家族と「愛の共同体」の等値とは、家族を「気まぐれではない愛情をメディアとする愛の共同体」と考えることである(親密圏/公共圏(1)愛の共同体 参照)。しかし、そのような「愛の共同体」はどれほどの現実存在であり得ただろうか。現実は家父長制(家長たる男性が権力を独占し,父系によって財産の継受と親族関係が組織化される家族形態にもとづく社会的制度-百科事典マイペディア)が支配的であったろう。

ヘテロセクシズム(異性愛主義)とは、聞きなれない言葉だが、

ヘテロセクシズムは、「セクシズム(性差別主義)」から展開したもので、異性愛を特権化して、他のセクシュアリティを傷つけ排斥するショービニズム(※極端なナショナリズムや性差別主義。ここでは異性愛の優越に固執する偏向を指すか)を非難して言う言葉である。…竹村和子は、異性愛主義であるとともに性差別主義である社会の仕組みのことを、「(ヘテロ)セクシズム」と名づけている。ここでは、異性愛/同性愛の二項対立的なカテゴリが、男性/女性という二項対立的なカテゴリと関連づけられて、組織化されている。http://queeringme.g.hatena.ne.jp/Ry0TA/20090429/p1

「家族愛」イデオロギーが、「ヘテロセクシズムを再生産し強化する」とは、「性差別主義」を再生産し強化するという意味である。…私は、「少数者」を排除しようとは思わないが、それでも「同性愛」を積極的に承認するのは躊躇する。ある社会単位としては認められるが、「異性愛」と対置して「同性愛」を考えることは、やはり「反生命」であり、「生命否定」の観念を含むものであり、「異性愛」を偏向であると非難するのはおかしいと思う。…なお「ケア」というのは、異性愛/同性愛とは別次元の話だろう。

 

これに対して近年提起されてきている別様のアプローチに、「家族の多元化」がある。これは、さまざまなライフ・スタイルをとる同居の形態、例えば友人同士が老後の生活を共にすべく同居する。障碍を抱えた人々が共同の生活を営むといった形の「グループ・ホーム」なども家族として積極的に再定義しようとするものである。このアプローチは、「正常」とされてきた従来の家族像を問題化し、愛情を必ずしも家族の固有のメディアとは考えないという点で確かに大きなメリットを持っている。しかし、家族の定義を無限に拡張していくことが適切かどうかには疑問の余地も残る。家族は、様々な権利・義務・責任を発生させる法的なユニットでもあり、その定義の拡張には限界があるからである。

家族は、様々な権利・義務・責任を発生させる法的なユニットである。その際、ある権利・義務・責任を発生させるユニットとして「家族」が適切かどうか(例えば、グループ・ホームを含めるかどうか)を検討すればよいのであって、「家族」の定義を拡張する必要はない。目的適合的に適切に組織単位を定義すれば良い。家族の多元化などという必要性はないと思われる。

 

第二に、親密圏は家族という形態(血縁/同居/家計の共有)には還元されえない。親密圏は、具体的な他者の生/生命への配慮・関心をメディアとするという観点からすれば、例えば「セルフヘルプ・グループ」は明らかに親密圏の一つの形である

セルフヘルプ・グループとは、

同じような生の困難を抱えている人びと、同じような否定的な経験に曝されやすい人びとが、孤立のうちに困難を抱えつづけねばならないという苦境を打開するために形成する集団である(アルコール・薬物依存、心身の障碍・疾患、犯罪被害や非虐待の経験、不登校、被解雇など、同じような生/生命の困難はさまざまである)。

セルフヘルプ・グループは、情報や意見の交換を通じて直面する問題への認識を深め、外に向かって問題を提起していくという公共圏の側面をあわせもつこともあるが、その場合でも、互いの生の具体的な困難に注目を寄せるという側面はやはり不可欠である。

 ここで重要なことは、「セルフヘルプ・グループ」云々というより、親密圏が「具体的な他者の生/生命への配慮・関心」を持つ集団として、例えば、「セルフヘルプ・グループ」が考えられるということであろう。

 

親密圏の定義には、これよりももっと緩やかな結びつき、折に触れて訪ねあう友人たちの関係や議論・雑談を楽しむための「サロン」的な関係も含まれる。具体的な他者の生/生命に一定の配慮や関心があるということが、親密圏のミニマルな条件である。したがって、現実の家族のすべてが親密圏であるとはかぎらない。生きられる空間の「分断」は家族のなかに生じることもある。互いに背を向けながら生きる家族はもはや珍しい現象ではない。

何度でも書くが、「具体的な他者の生/生命への配慮・関心」が、親密圏の定義と考えたい。こう考えれば、「家族」とかなりの部分重なり合うが、異なる部分もあるということは、経験的に納得できるところだろう。…私は、この親密圏を、さまざまなレベルのコミュニティにおける中心理念として定礎したいと思う。これを情緒的な表現にすれば、「愛の共同体」となるだろう。…これは、私のこのブログのテーマである。(念のため、付言しておけば、「他者」は「自己」があっての「他者」なので、自己の生/生命への探求を当然に含む。)

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http://www.tuttartpitturasculturapoesiamusica.com/2013_06_01_archive.html

 

プライバシーの境界は家族の空間とは一致しない。それは家族の内部、つまりパートナーの間、親と子の間にもある。この間の家庭内の暴力(性的暴力、幼児虐待、被介護者への虐待等)への着目は、家族と言う閉鎖的空間が最も凄惨な暴力の空間にもなりうるという認識をもたらしてきた。それは、家族内部の暴力は私的に解決されるべき個人の不幸ではなく、公共的対応を必要とする不正義であるという問題の捉え返しを可能にしてきた。また在宅介護の現場から、家族介護は介護者を閉ざされた関係性に封じ込め、介護者から自ら自身を維持するために必要な時間・空間を奪いがちであり、それが虐待を生む遠因にもなるという問題提起もなされてきた。

プライバシーは、個人が自らの身体、自らの生/生命のリズム、自らについての情報(病歴・「買い物歴」を含む)、自らが深い愛着を持つ物などを他者の恣意的なアクセスから守る空間、他者が本人の同意なしにはアクセスできない領域としてとらえ直されるべきだろう。見られないこと、聞かれないこと、触れられないこと……つまり「私的」であることは、この場合には、「剥奪」ではなく個人によって能動的に選択される事柄である。

プライバシーの問題は、「私」に関する事柄をどう扱うかという問題であり、詳細に個別問題を検討しないことには一般論として論ずることはできない。