気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

芸術と時代(1) 階段を下りる女

大岡信抽象絵画への招待』(18)

芸術作品とそれが産み出されてくる社会との関係は、いうまでもなく極めて密接である。自分が生きている時代と社会から完全に絶縁した孤立状態で作品を作った芸術家は、人類史のどの時点をとってみても一人も存在しない。…[孤立を願望しても]そのような願望自体は、時代と社会に対する強い拒絶の意思のあらわれであるわけだから、そこには裏返しの形で時代・社会への強い関わり方がある。

芸術作品に限らず、全く「個人的なこと」、「内面的なこと」のようにみえる事柄であっても、「時代」と「社会」に密接に関わることはいうまでもない。

文芸・音楽・舞踏その他の世界でも共通に言えることだが、芸術的行為というものは、いったんそれが成立した時には、すでにその内部に、個人的才能の達成をはるかに超えた体系、長い過去の時を通じて貯えられ、築き上げられてきたところの独自な芸術体系を包み込んでいるのである。芸術諸ジャンルそれぞれに固有の、文法や修辞法や慣用語法、流行の盛衰の歴史が、現在の一瞬に成立したばかりの新しい芸術作品の中にも生きて働いているのである。

これまた「芸術的行為」にかぎらず、ほとんどすべての「行為」というものは、「その内部に、長い過去の時を通じて貯えられ、築き上げられてきたところの独自な体系を包み込んでいる」とみなして良いだろう。そこには「それぞれに固有の、文法や修辞法や慣用語法」が存在する。これは私には当然のことのように思えるのだが、彼/彼女が一人で成し遂げたことのように評価する(高い価格をつける)ことが多いように見受けられる。これは価格論(分配論)として詳細検討されるべき事柄かもしれない。

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トキワススキと階段を下りる中国人女性(胖胖豬)

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アクション・ペインティング、抽象表現主義、アメリカ型絵画等々の名でよばれる一つの傾向は、決してひとつの運動としてとらえるべきものではない。たとえば未来派とか立体派、シュルレアリスムなどがそれぞれ「運動体」として明確な組織と理念をもっていたのとは異なり、アメリカの新しい絵画には、ひとりのマリネッティ(未来派)もアポリネール(立体派)もブルトンシュルレアリスム)もいなかったし、宣言もなかった。…ここには一つのっ明確な意思と計画を持った「運動」はなく、ある批評家の言葉を借りれば、「契機」だけがあったのである。

いまは、未来派とか立体派、シュルレアリスムがどういうものであったかを見ていくつもりはない。

大岡が、「アメリカの新しい絵画には…「運動」はなく、「契機」だけがあった」というとき、それはどういうものであり、その契機とはどういうものであったのかは興味深い。

デ・クーニングはそれを、「ポロックが氷を割った」と印象的に表現した。たしかに、アメリカの新しい絵画は、新しい理論の氷を張りつめることではなく、逆に、既に張っていた固く厚い氷をぶち破ることによって、自己表現の道を見出した。それは解放の絵画であり、したがって、一切の集団的教義に反対し、アクション・ペインティングとか抽象表現主義とかの一括名称にはとりわけ強く反発する絵画なのである。それは既成の絵画観、既存の造形概念からの解放という動機においてのみ一致する、孤独な画家たちの集団から生まれた絵画だった。

「既成の絵画観、既存の造形概念という固く厚い氷」という言い方をすると、それは打ち破るべきもの、そこから解放されるべきものというイメージを描いてしまう。だけどそれは、破壊してはならない「普遍的で、中核部分を構成するもの」であるかもしれない。したがって彼らが何を「固く厚い氷」とみなし、それを打ち破ろうとしたのかを見極めなければ、彼らを理解したことにはならないだろう。

 

第2次大戦が勃発するまでのアメリカ絵画は、一口に言って、ヨーロッパに追随することに汲々とする近代主義と、美術のモンロー主義ともいうべき頑固な地方主義との二つの流れで占められていた。…1930年代のアメリカ絵画は、いわば1913年の「兵器庫展覧会」(アーモリ・ショウ Armory Show)が、この新大陸にもたらした激しいショックから、まだ立ち直っていなかったと言える。「アーモリ・ショウ」とは、ニューヨークの六九連隊の兵器庫を使って開かれたためこの名のある大規模な国際近代美術展で、セザンヌゴッホ、立体派、フォーヴィズムカンディンスキーブランクーシらの作品がアメリカ現代作家の作品とともに展示され、大きな衝撃と影響を与えた。デュシャンの有名な「階段を降りる裸体」も出品されたが、理解されず、嘲笑のまとになった。「現代美術」の「公衆」はどこにもいなかったのである。いや、公衆はいることはいたが、彼らはみな19世紀ヨーロッパの方を向いていた。画家自身、ヨーロッパを、しかしこちらは20世紀ヨーロッパの方を向いていたのである。

アーモリ・ショウ(Armory Show)については、wikipediaに次のような記述がある。

展示された作品は、1200点以上にも上り、ヨーロッパ作家によるものとアメリカ作家によるものとで半々であったが、ヨーロッパ側は、当時のさまざまな前衛的な美術動向を含んだものであったこともあり、そのエネルギーや作品の質において、アメリカ作家の、穏健な、洗練されてもおらず、前衛的ともいえない作品をはるかにしのいでいた。…本展について言えば、特に、マルセル・デュシャンの「階段を降りる裸体」(1912年)は、賛否両論を巻き起こし、デュシャンが渡米する大きなきっかけとなった。その結果、ニューヨーク・ダダへとつながっていくことにもなる。(Wikipedia)

「階段を降りる裸体」は、次のような絵であるが、20世紀初頭の時代を反映したものであろう。21世紀初頭を生きる私には、「階段を下りる中国人女性」のほうがピッタリくる。

 

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http://www.ggccaatt.net/2013/11/09/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AB-%E3%83%87%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3-%E9%9A%8E%E6%AE%B5%E3%82%92%E9%99%8D%E3%82%8A%E3%82%8B%E8%A3%B8%E4%BD%93-no-2/