浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

功利主義(7) 「自由な選択」は何を意味するか?

加藤尚武『現代倫理学入門』(7)

これまで功利主義を、

 第1に、ある行為が、社会的に望ましいか否かを、「幸福」によって、決定する。[行為功利主義

 第2に、ある制度(法、規則)が、社会的に望ましいか否かを、「幸福」によって、決定する。[規則功利主義

という考え方であると理解してきた。

そして、「社会的な望ましさ」を考えるには、個々人の幸福を集計しなければならないが、そんなことは可能だろうかという疑問が提起された。

功利=効用=幸福は、主観的な価値(質的なもの)であるから、数えたり、大小を決めたりすることなどが不可能なことは自明なことではないか?

ここで「行為」を、「選択(選好)」という視点から把握して議論がすすめられる。Aという行為をすることは、他の可能なBやCという行為をせずに、Aという行為を選択することである。私たちの行為というものは、いかなる行為であれ、そういうものである。とすれば、「質的に異なる」ものを「何らかの基準」で比較し、選択しているということである。Aという行為を選択したということは、BやCよりも「より価値がある」とみなしたということであり、主観的な価値に大小関係をつけたということである。

強い意味での量化可能性の立場は、「すべての価値は本質的に量的であり、その量は推移律を充足する」と表現することができるだろう。ここで推移律とは、「A>Bで、なおかつB>Cであるなら、A>C」と表現される代数の公理である。

量化不可能性の立場は、「すべての価値は本質的に量的ではなく、推移律を充足しない」と述べることができる。一見、量的な比較によって、快の最大と苦痛の最小という尺度に一致するように見える選好でも、その本質は量的ではないという主張になる。

 私は、すべての価値は「本質的に量的」ではなく、「本質的に質的」であると思っている。しかし、質的であるからといって選択が不可能なわけではない。何らかの(非合理的なまたは合理的な)基準によって、選択が可能である(選択せざるを得ない)と思う。

 

なお、量化可能か否かいう問いをたてると、どうしても「中間」があるだろうという議論になる。

この二つの立場に対して、量化可能な価値と量化不可能な価値の両方が存在すると考えるさまざまな中間形態が存在する。例えば、「個人の世俗的・幸福主義的な価値を帰結主義的に評価する長期的で平均的な選好の場合には量化可能性は成り立つが、正義・当為・人格の尊厳・宗教的な価値など、比較不可能なある意味で絶対的な、またほぼ同じ意味で無限の価値や尊厳を持つ、内在的な価値の領域では、不合理な根源的な決断、心情主義的先行判断、先存在論的存在了解、内面的な良心が選好を決定し、量化可能性が成り立たない」と主張する立場もある。

この中間派は何を議論しようとしているのか、これだけではよく分からない。ただ単に、「量化可能な価値」と「量化不可能な価値」があることを指摘しようというのではあるまい。冒頭に示した「ある行為/規則が、社会的に望ましいか否か」をいかにして決めるか、を問題意識として持っているのかどうか。…「個人の世俗的・幸福主義的な価値を帰結主義的に評価する長期的で平均的な選好」これは難しい言い回しだ。これだけでは、何とも言い難い。また「正義・当為・人格の尊厳・宗教的な価値」を、一括りに「無限の価値や尊厳を持つ、内在的な価値」としているのはあまりに乱暴である。

「不合理な根源的な決断、心情主義的先行判断、先存在論的存在了解、内面的な良心」というのは、私が先に「非合理的なまたは合理的な基準」といったものと同じである。まあ、簡単に言えば「わけのわからない基準」による選択ということである。

 

さて話を元に戻して、ある「行為」を、「選択(選好)」という観点から捉えなおし、A>B>Cというように、効用(幸福)を順序付けることができるならば、効用が何ポイントと決められなくても、大きな効用(幸福)のほうが望ましいとして、経済理論が構築される。

(消費者選択理論は)商品間の完全代替可能性の仮定に同等な、欲求の完全還元可能性の思想を核として瞠目すべき数学的兵器廠を築き上げた。兵器廠の最終生産物の特徴を大いに強調しておく必要がある。即ち、近代効用理論は、ありとあらゆる欲求を、「効用」と呼ばれる、ただ一つの一般的かつ抽象的な欲求へと還元してしまうのである。こうした還元に従えば、われわれは、「これらの人々はもっと多くの靴を必要としている」と言う必要はなく、その代わりに、「これらの人々はもっと多くの効用を必要としている」とだけ言えばよいのである」(ジョルジェスク=レージェン)

この文章を正確に理解するには、経済学を学ばなければならない。しかし、ミクロ経済学の入門書を読んでも、「兵器廠」とか、「これらの人々はもっと多くの靴を必要としている」という言葉は出てこない。

ここで、「兵器廠」について、ちょっと考えてみよう。偏微分などを使って説明されると、いかにも高等な議論をしているかのように錯覚するが、私はこれは「砂上の楼閣」ではないかと感じている。レージェンはこれを「数学的兵器廠」と言った。高等数学で幻惑されられた大衆は、それをありがたく崇拝する。それは一部の富裕層にとっては、素晴らしい武器(理論武装)である。…こんなイメージだろうか。ただし、これはイメージであって、これを説得力あるものとするには、多言を「要する」。

 

加藤は述べている。

新古典主義経済学者の認める「自由な市場経済」では、自由な選好によって決定される価格が支配的になる。限界効用が価格の決定方式となるためには、その社会は、「無意味なもの、悪趣味なもの、そして過剰な贅沢」の選択を許すほどまでに豊かでなくてはならない。しかし、自由な選択が、その社会の多くの住民にとって餓死や奴隷的な状態を意味するなら、自由な選好のシステムに代わって、武力の支配が登場するだろう

f:id:shoyo3:20160328172812j:plain

http://i2.cdn.turner.com/cnn/2011/images/04/06/freedom.number.t1larg.3.ok.jpg

 

「個人の自由を尊重せよ」、「政府は、自由市場に介入するな」等々、「自由」を「絶対的な価値」の如く主張しながら、実際には「無意味なもの、悪趣味なもの」にうつつを抜かし、過剰に贅沢な暮らしをする一方で、「餓死や奴隷的に生きる人びとの存在」には目をつむる。この現実に反抗するものは、武力で威圧し排除する。こうした歴史認識はあながち的外れでもないだろう。とするならば、<功利主義自由主義>の論理のどこかがおかしいはずだ。

 

このような可能性を前にして、今夜のディナーはチキンにするかフォアグラにするかという選好と、生き残るために食料を選ぶか医薬品を選ぶかという選好を区別することの出来ないという特質に存在理由を持つ経済学が耐えうるのかどうか。…この経済学は、曲がりなりにも最低生活の保証が維持できている自由市場世界でしか使えないだろう

ミクロ経済学で「消費者選好」の理論を学んだ人は、「今夜のディナーはチキンにするかフォアグラにするかという選好と、生き残るために食料を選ぶか医薬品を選ぶかという選好、を区別することができるか?」という問いに答えられるか?

経済学者は、あらゆる専門職業人のなかで最もオポチュニストである。…経済学者たちが過去百年間にもわたってある一つの特殊な観念、すなわち新古典派の創始者達の思考方向を支配した機械論的な認識に、頑固なまでに執着してきたというのは奇妙なことなのである。経済学者みずからが誇らしげに認めるところによれば、これら先駆者達の大望は、力学のモデルにならって、W.スタンレー・ジェボンズの言葉によれば「効用と利己心の力学」として経済学を打ち立てることであった。(ジョルジェスク=レージェン)

経済学の入門書を開けば、いまでも「新古典派経済学」が主流のようだが、私は、アマルティア・センにつながる「厚生経済学」や「社会選択理論」に興味がある。いずれこのブログでとりあげたい。