気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

他我問題 「他人の心はわからない」ものなのか?

金杉武司『心の哲学入門』(15)

今回から、第5章「心の認識」に入る。他我問題がテーマである。

我々は他人がどのような心の状態にあるかを知ることができるように思われる(これを「他人の心の認識可能性」と呼ぶことにしよう)。だからこそ他人とさまざまなコミュニケーションをとり、ともに行動することができるのである。…我々は、ときに、他人がどのような心の状態にあるかを認識し誤ることがある。だからこそ、他人とうまくコミュニケーションを取れなかったり、あるいは他人を騙せたりする。…たいていは他人とうまくコミュニケーションを取れているということは、我々が大抵は他人の心の状態を正しく認識できているということを示している。…この他人の心の認識可能性は、二元論を否定する一つの大きな根拠になる。なぜなら、二元論が正しいとしたら、他人がどのような心の状態にあるのかを我々はいかにして知ることができるのかが不可解なことになってしまう。さらに言えば、そもそも他人に心があるということをいかにして知ることができるのかさえ不可解になってしまう。なぜなら、二元論によれば心とは非物理的存在であるが、我々が他人に関して直接認識できるのは、他人の身体や脳など物理的存在だけだからである。他人の身体や脳をいくら詳しく観察しても、非物理的な他人の心は姿を現さない。それゆえ、我々が他人の心の状態を、さらには他人の心の存在そのものを認識することは不可能であることになってしまう。こうして二元論の下では、「他人の心の状態、さらには他人の心の存在そのものをいかにして知ることができるのか」という問題が生じる。この問題はしばしば他我問題と呼ばれる。

「他人がどのような心の状態にあるかを知ることができる」と、なぜ二元論を否定することになるのか? 「二元論によれば、心とは非物理的存在であるが、我々が他人に関して直接認識できるのは、他人の身体や脳など物理的存在だけであり、他人の身体や脳をいくら詳しく観察しても、非物理的な他人の心は姿を現さない。」からであるという。脳をいくら詳しく観察しても、「心」が目に見えてこないから、「心」の状態を知ることができない、「心」が存在するとは言えない、というのだろうか。また、間接的に認識できても、直接的には認識できないから、「心」の状態を知ることができない、「心」が存在するとは言えない、というのだろうか。そんな単純な話なのか。

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それはともかく、他我問題とは「他人の心の状態、さらには他人の心の存在そのものをいかにして知ることができるのか」という問題であるとして、先に進もう。

金杉によると、二元論他我問題に対して、次のような回答を用意するかもしれないという。

自分の心の状態と自分の行動の間にはある相関関係がある。例えば、タクシーを止めたいと思っている時には、タクシーの前では手を挙げるという行動が生じる。このような相関関係は、どの人にも同じように成立しているはずである。それゆえ、他人がタクシーの前で手を挙げているのだとしたら、自分の心の状態についての知識に基づいて、他人はタクシーを止めたいと思っているのだと類推することができる。このように間接的ではあるが、他人の心の状態を認識することは可能なのである。

他人の心の認識可能性についての以上の説明は、しばしば「類推説」と呼ばれる。

 金杉は、この類推説を検討して次のように言う。

二元論の下では、心と行動の相関関係を直接確かめることができるのは自分の場合だけである。したがって、類推説が、「自分に成立しているのと同じ相関関係がどの人にも成立している」と言うために訴えることの出来る証拠は、この相関関係が自分には成立しているという事実だけである。

 

この説明には2つの疑問がある。(1) 確かに、心と行動の相関関係を直接確かめることができるのは自分の場合だけかもしれないが、私以外に、AさんもBさんも、「タクシーを止めたいと思って、手を挙げる」と言明しているならば、他人も「心と行動の相関関係を直接確かめている」ということになるのではないか。従って、証拠は「この相関関係が自分には成立しているという事実だけ」ではないだろう。(2) より根本的な疑問であるが、自分の場合であっても、「心と行動の相関関係を直接確かめることができる」と言えるのかどうか。「非物理的存在」である「心」と「行動」の相関関係とは何か? その「相関関係」なるものがどういうものかよく分からないままに「直接」確かめることができると言えるのだろうか。

いずれにせよ、金杉は上記理由により、類推説により他我問題を解決することはできないという。しかし、私は、(2)を置いておけば、(1)により類推説は有力な説であると思う(素人的には、あたりまえのことである)。「他人がタクシーの前で手を挙げている」のは、「彼がタクシーを止め、タクシーに乗りたいと思っている(そういう心の状態にある)からだ」と主張するのは誤りであるとは思われない。

 

他人の心の認識可能性について、類推説ではなく、「行動主義」と呼ばれる考え方がある。

「行動主義」と呼ばれる立場によれば、心にとって行動との結びつきは本質的なものである。…それぞれの心の状態は、行動の原因となるような現に成立している状態ではなく、ある条件が成立するならば特定の行動が生じるという、行動への傾向性なのである。例えば、タクシーを止めたいという欲求は、タクシーが前にきたら手を挙げるという行動傾向であるし、雨が降っているという信念は、外に出たら傘をさすといった行動傾向に他ならない。

「心を、観察可能な行動で理解しよう」と言うなら理解できるが、「心の状態は、ある条件が成立するならば特定の行動が生じる、という行動への傾向性である」などと言われると、はあ?となる。

行動主義の下では、他我問題は生じない。他人の心の状態すなわち行動傾向は、他人の行動を観察することを通して客観的に正しく認識できると考えられるからである。例えば、タクシーが前にきたら手を挙げると言う行動傾向があるかどうかは、実際にタクシーが前に来たときにどうするかを観察すればわかるし、外に出たら傘をさすという行動傾向も、実際に外に出たらどうするかを観察すればわかる。それゆえ、行動主義では、他我問題は生じないのである。

わけのわからない行動主義で、他我問題は生じないと言われても、わけがわからない。「他人の心の状態すなわち行動傾向は、他人の行動を観察することを通して客観的に正しく認識できる」のではなく、「他人の心の状態は、他人の行動を観察することを通して推測できる」というのが常識的な考え方であろう。

 

金杉は、行動主義について次のように述べている。

行動主義は、個々の心の状態を単独で特定の行動に対応づける。例えば、タクシーを止めたいという欲求は、それ単独で、タクシーが前にきたら手を挙げるといった行動と対応づけられる。しかし実際には、心の状態はそのように単独で行動と結びついているわけではなく、複数の心の状態が全体として行動と結びついている。例えば、タクシーが前に来た時に手を挙げるのは、タクシーを止めたいと欲しているだけではなく、タクシーの前で手を挙げればタクシーは止まると信じてもいるからだろう。…さらに言えば、その人はタクシーがどのようなものかに関する知識も持っていなければならない。このような特徴はしばしば「心の全体論的性格」と呼ばれる。…個々の心の状態を単独で特定の行動に対応づける行動主義は、この心の全体論的性格をうまく捉えることができないという点で不適切である。

「心の全体論的性格」などという大仰な言葉を使わなくても、ごく常識的なことである。ここに何か新しい知見があるのだろうか。行動主義が上記の意味ならば、常識以前であるように思われる。

さまざまな心の状態の全体をまとめて、ある行動への傾向性としてとらえる全体論的な行動主義…。解釈主義は、この全体論的行動主義としてとらえ直すことができる。…解釈主義では他我問題は生じない。それは、このような行為の解釈を通して、他人の心の状態は認識されると考えられるからである。

前回説明のあった解釈主義(心の状態の本質は行為との間の合理的関係にある)を全体論的行動主義としてとらえ直したとしても、残念ながら解釈主義が何を言わんとしているのかよく分からない。

私は常識に固執するつもりは更々ないが、これまでの議論が常識を論駁する議論になっているのかどうか疑問に思っている。