前回記事の最後の方で、
2009年7月:水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法(通称:水俣病救済特別措置法)が成立。その前文において「国及び熊本県が長期間にわたって適切な対応をなすことができず、水俣病の被害の拡大を防止できなかったことについて、政府としてその責任を認めおわびするとともに、公健法[公害健康被害補償法]に基づく判断条件を満たさないものの救済を必要とする方々を水俣病被害者として受け止め、その救済を図る」ことが定められた。
というのがありました。この法律は、
水俣病問題の最終解決を目指して制定された法律。未認定患者に一時金・療養手当等を支給することや、原因となった事業者(チッソ)の分社化等について定めた。(デジタル大辞泉)
のですが、2012年7月末に救済申請の受付が締め切られ、多くの未救済の被害者が取り残されました。
次のビデオは、NHKが2012年7月25日に放送したものです。対象地域や年齢による線引きが批判されています。
水俣市立水俣病資料館が編集発行の「戻らぬ命」という詩集があります。
水俣病詩集「戻らぬ命」は、水俣病公式確認から半世紀を迎えるにあたり、これまであまり表に出ることもなくひっそりと暮らし、亡くなっていった多くの患者とその家族の苦しみや悲しみの声を、人間の煩悩の数になぞらえ108の詩集としてまとめたものです。
http://www.minamata195651.jp/list.html
この中から、いくつかを紹介します。おもいっきり感情移入して、一つ一つ、ゆっくりと読んでみてください。
親が(自分が)介護を要するようになったら、現代のストレス社会に耐えられず「うつ」になったら……。ここに描かれたのと似たような情景が、(公害に起因する病気ではないとしても)現代でも起こりうるのだということを認識しておく必要があるでしょう。
「父ちゃんの酒のサカナにする」と浜に出て、よくカキを取っていた娘は、
わずか五歳で「目が見えんよう」と狂いながら死にました。
奇病解明のために、無理やりに解剖された遺体を、人目をさけて線路づたいに背負って帰りました…。
―――――
娘は体をエビのように折り曲げられると、脊髄から液を採られました。
全身に震えが走り、地獄のような泣き声を上げ、
「モロロイ、モロロイ(家に戻ろう、戻ろう)」と泣き叫んどりました。
何もわからず、ただ原因究明のための検査で…。
―――――
娘は生まれて三ヶ月たっても目も見えず、首もすわらなかったので、心配になり病院に連れて行きました。
お医者さんは、子供の体をよく見もしないで、
「駄目ですね。一生当たり前の姿にはならないでしょう」と冷たくはねました…。
―――――
娘には鼻から管を入れ、流動食を作って朝、昼、晩、針のない注射器で鼻から入れてやっていました。
生きてさえおれば、そのうち原因がわかって、良い薬や注射もできて、
きっと治ると思っていましたが…。
―――――
ケイレン、発熱、目が見えず小便を漏らしたりしました。
全身を卵の黄身より黄色いと思うほど変色させて…・
血便が続いた末に死にました。
父の肝臓と胆のうは腐っていました…。
―――――
狂死。
昼夜の区別なく、約一分間隔で顔をゆがめ、叫び、一方では全身が意思とは逆に激しく動きまわっていました。
最初に手足のしびれを感じてわずか五十二日目のこと…。
のたうちまわりながら亡くなりました。
―――――
狂いまわり、背中から腐って死んでいきました。
死んだとき、布団も、ベッドも、たたみも、指先半分くらい入る背中の穴から出るウミで腐っていました…。
―――――
カミソリで両手首を切って自殺しようとしたこともありました。
その後も手足をばたつかせて暴れ、奇声を発し、食事も受けつけませんでした。
衰弱、狂死…。
―――――
具合が悪くなったけん、栄養をつけさせようと新鮮な魚をどんどん食べさせたったいなぁ…。
毒の入っとる魚とは知らずに…。
―――――
「うちが死ねば、誰が娘を看病してくれるとやろ。かわいそか可哀想か」
と言いつづけて母は死にました…。
わたしが、奇病にさえかからんば…。
―――――
実の娘でも、もがき苦しむ父の姿は恐ろしかった。
そしてのたうち回りながら狂い死にした兄。
「もういやだ」と家を出て行った弟。
水俣病の体で夫を看病し、苦労だけを背負って亡くなった母。
そして自らも水俣病に…。
「あわれなもんでした。水俣病ちゅうやつは、本当に…。」
―――――
中学卒業の時、水俣病の症状があるので就職のあっせんをしてもらえませんでした。
結婚しても流産を三回し、子どもが生まれても、めんどうみれず、
子どもに悲しみだけしか与えられませんでした…。
―――――
この先、行くとこは納骨堂しかなか。楽しみはなんもなか…。
―――――
年ごろの娘二人が廃人で、恋愛も結婚も無縁です。
虫のように生きているのが不びんでならんとです…。
―――――
二十歳になった娘は食事も排便もできず、ただ「アーアー」と意味不明の笑いをする。
看護がなくては生きられない。
「この先も一生水俣病ば背負わならん…と」
―――――
私たちは生涯、この子のいるかぎり泣いて暮らすとです。
娘がたった一日でもいいから、私より早く死んでもらえればと…。
そんな汚い心まで持っている親なんです…。
―――――
「一年や二年じゃなか、十五年になったとたい」看病しつづけて…。
でも逝ってしもうた…。
―――――
歩行、言語、知能障害などを持つこの子に青春はない。
愛も恋も知らず、一生を終えると思うと…。
―――――
歩けぬ娘のため七五三の晴れ着を買う親の気持ちが分かりますか…。
―――――
死んで脳を開くまでしても、認められないなんて…。
水俣病の苦しみは本人と家族にしかわからんとですよ。
―――――
二十五歳の時、関西の会社に就職しましたが、
同僚から「あんたも水俣病ではないの」「水俣病はうつるから」とか言われました。
テレビに水俣病のことがでると、みんな笑って見ていました。
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「このままここにいたら、奇病が伝染ってしまうから家出する。」
「死んだと思って、行く先は探さないでくれ!」
そんな書き置きを残して息子は姿を消しました。
―――――
私はこんな体でも働きたくて…。
でも私が水俣病だからという理由で、雇ってくれるとこもありませんでした。
人間の人間としての扱いをしてくれませんでした。
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水俣病は急に起こって、家族の誰か一人がかかれば次々にかかっていくもんで、
やっぱり「伝染病」と思ったたいな。
保健所の人が消毒にきたりして…「伝染病じゃ、伝染病じゃ!」って…。
あそこの子とは遊ぶなっち言うて…。
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水俣病になったら本当にかわいそうかよ。
このまま結婚もできず、死ぬ時は一人じゃが…。
話し相手がほしいと心から思うんです…。
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おばさんは、「自分が水俣病にかかると、人にうつしてしまうから…」と言って、
首を吊って死んでしもうたとです…。
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認定申請して保留の時に、熊大に入院し、「教授は、まちがいなく水俣病だ」と言い、
学生さんの前で私を診察し教えていました。
しかし、国・県は、私を水俣病ではないと棄却しました。
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患者の今の心は判決だけであがなわれるものじゃなか。
ニワトリやブタじゃあるまいし、
チッソに一生、補償金のような金で飼い殺しされるようなザマも見せとうなか。
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裁判で勝って補償金はもらえるようになりましたが、でもすぐ涙が出ました。
死んだ娘を金で売ったような気がして、「すまん、すまん」と思いましてな…。
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昭和三十二年頃から、飼っていたネコが十六匹も、キリキリまって狂い、死んだとです。
もらってきて一ヶ月もすると、やっぱり狂い死にしてしまうとです。
ネコも人間もみな同じ魚や貝を食べて、狂い死にさせられたとです。
いかがでしたでしょうか。
企業や官僚や学者の「論理」は、これらの怒り・苦しみ・悲しみを感得した上でのものなのでしょうか。
(つづく)