気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

水俣病(4) 官僚「山内豊徳」の死

1990年12月5日、水俣病裁判の国側の責任者として、和解拒否の弁明を続けていた環境庁企画調整局長(山内豊徳)が自殺した。53歳であった。

山内豊徳とは、

陸軍軍人であった山内豊麿の子として福岡市に生まれる。幼くして両親は離婚し、9歳の時に父は出征先の上海で戦病死したため、父方の祖父母に育てられた。15歳の時に骨髄炎に罹り、片足がやや不自由となる。

西南学院中学校福岡県立修猷館高等学校を経て、1959年、東京大学法学部を卒業し、上級国家公務員試験に99人中2番という成績で厚生省に入省。

厚生省では一貫して福祉畑を歩み、公害対策基本法の制定、日本てんかん協会の設立に関わっている。その後、厚生省から環境庁へ転出。1986年9月、官房長、1987年9月、自然保護局長、1990年7月、企画調整局長を歴任し、長良川河口堰問題、石垣島白保空港問題などに取り組んだ。

1990年、水俣病認定訴訟において、国側の担当者となり、被害者側との和解を拒否し続ける立場をとる。人間としての良心と、求められた官僚としての職責の間で悩み、同年12月5日、自宅で自殺を遂げる。(Wikipedia

 私は、山内豊徳のこの死の説明には大いに疑問をもった。いくら葛藤があったとしても、そんな簡単に死ぬことはできないだろう。

 

是枝裕和(映画監督、テレビディレクター)は、『雲は答えなかった-高級官僚 その生と死』(2014/3)なるノンフィクションで、山内豊徳の生と死を追求している(本書は、『しかし…ある福祉高級官僚 死への軌跡』(1992/12)を改題した『官僚はなぜ死を選んだのか 現実と理想の間で』(2001/6)をもとに加筆・修正したものである)。

ここで、山内豊徳の死に関して、私が気になった2つのエピソードをとりあげよう。(本書の内容を詳しく紹介することはしない。)

 

その1 美術館めぐり

この頃[1986-87年、49-50歳頃?]、山内夫婦は比較的穏やかな日常を送っていた。娘たちにも手がかからなくなり、休日にはふたりで絵や絵画を観に出かけることも多かった。

ある日ふたりで新宿の伊勢丹美術館に行った。展示はピカソセザンヌなどで、『印象派後期印象派絵画展』と銘打たれていた。

いつもは会場の中に入ると別々に絵を観て回り、出口のところで待ち合わせていたけれども、この時知子はひとつのアイデアを思いついた。ひと通り絵を観て出口のところにやって来た夫に、知子はいたずらっぽくこう言った。

「あなたの一番気に入った絵の前へ連れて行ってちょうだい」

夫は絵を観ても本を読んでも、好きだとかおもしろいとかはっきりと口に出して言うことはほとんどなかった。それは知子もよく知っていた。しかしこの時ばかりは知子も粘った。

渋っていた夫はやがて人の流れに逆らって再び入り口に向かって歩き始めた、知子はドキドキしながら夫についていった。

やがて夫は1枚の絵の前で立ち止まった。

(ああ、今日はここへ来て良かった)

知子はその絵を観て、そう思った。夫が立ち止ったその絵は、知子も今日観たたくさんの絵の中で、一番気に入っていた絵だったからである。

それはクロード・モネの『チャリング・クロス橋 霧のテームズ』という絵だった。

モネは冬のロンドンを愛した。そして何よりもロンドンの霧が彼を惹きつけたようである。60歳を迎えたモネは1900年から1903年にかけて繰返しロンドンを訪れ、霧の風景を描いている。この絵は1903年に描かれたもので、薄紫の霧につつまれたテームズ川と彼が愛し続けた1本の橋が描かれている。

この頃、ふたりは足繁く絵の展覧会に通っているが、特に印象派の絵が好きだった。山内は一度海外出張でパリへ行ったついでに、オルセー美術館へ立ち寄ったことがあった。印象派の絵画が数多く所蔵されているこの美術館を山内はとても気に入った。定年を迎えたら一緒にオルセー美術館へ行こう。それが晩年を迎えつつあった一組の夫婦のささやかな夢だった。

山内夫婦が観たモネの絵は次のようなものである。

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Charing Cross Bridge, Fog On The Themes

http://www.wikiart.org/en/claude-monet/charing-cross-bridge-fog-on-the-themes?utm_source=returned&utm_medium=referral&utm_campaign=referral

 

ロンドンの霧は有名だが、それは全くの自然現象というわけではない。

ロンドンは冬に濃い霧が発生する事で知られているが、19世紀以降の産業革命と石炭燃料の利用により、石炭を燃やした後の煙やすすが霧に混じって地表に滞留し、スモッグと呼ばれる現象を起こして呼吸器疾患など多くの健康被害を出していた。1950年代までの100年間にも10回ほどの大きなスモッグがあったが、その中でもっとも健康被害が大きくなったのが1952年である。…この濃いスモッグは、前方が見えず運転ができないほどのものだった。特にロンドン東部の工業地帯・港湾地帯では自分の足元も見えないほどの濃さだった。建物内にまでスモッグが侵入し、コンサート会場や映画館では「舞台やスクリーンが見えない」との理由で上演や上映が中止された。同様に多くの家にもスモッグは侵入していた。人々は目が痛み、のどや鼻を痛め咳が止まらなくなった。大スモッグの次の週までに、病院では気管支炎、気管支肺炎、心臓病などの重い患者が次々に運び込まれ、普段の冬より4,000人も多くの人が死んだことが明らかになった。その多くは老人や子供や慢性疾患の患者であった。その後の数週間でさらに8,000人が死亡し、合計死者数は12,000人を超える大惨事となった。(wikipedia)

山内は、1966年、29歳のとき公害課課長補佐を併任し、「公害対策基本法」作りに取り組んだ。ロンドンの冬の霧が公害であることを知らなかったはずがない。山内がどういう思いで、モネのこの絵を観たかは分からない。「薄紫の霧」の「美しさ」をも同時に観ていたのではなかろうか。その美しさは、産業革命-経済成長につながる論理の肯定を意味する。同時に、テームズ川にかかるチャリング・クロス橋を覆い隠す。大切なものを覆い隠す。

たった1枚の絵で心情を推し量ることはできないが、自死に至った背景の一部を説明しているように思われる。

 

その2 映画『かくも長き不在』

映画は大抵知子の方から誘ったが、ある日珍しく夫の方から「映画に行かないか」と声をかけてきた。滅多にないことなのでおかしいなと思ったが、悪い気がするわけもなく、新宿の中村屋で待ち合わせをすることにした。

仕事を終えてやってきた夫は、既に観る映画も劇場も決めていた。劇場は新宿歌舞伎町にあるシアターアプルだった。そこでは5日間だけ、『かくも長き不在』という映画をリバイバル上映していた。

「この映画、若い頃に観てから、今日で5回目なんだ……」

夫は感慨深そうにそう呟いた。

普段はあまり好き嫌いをはっきり言わない夫がこんなに思い入れを込めて語るのを見て、知子はこの1本の映画に強く興味を持って、わくわくしながら開映までの時を過ごした。

これがどういう内容の映画なのかは、例えば、http://www.geocities.jp/nachtsflug/sub.cinema.long_absence.html に詳しい。

ここでは、是枝の紹介による。

『かくも長き不在』は、1964年に日本で公開されたモノクロのフランス映画である。

舞台はパリ。季節は夏。テレーズは郊外でカフェを営む中年女性。ある日、一人の男が鼻歌を唄いながら店の前を通り過ぎる。テレーズはその男の顔を見て驚いた、男は16年前にゲシュタボに連行されたまま行方不明になっていた夫アルベールにそっくりだったからである。男は過去の記憶をすべて失っていた。川のほとりにバラックを立て、古雑誌などを集めて暮らしていたその男を、テレーズは自分の夫だと確信した。男は首からハサミを下げ、拾ってきた雑誌の写真などを切り抜いて、大事そうに箱に保管していた。

テレーズは男をカフェに招待し食事を共にして、なんとか記憶を蘇らせようとする。食後に2人はジュークボックスの曲でダンスを踊った。テレーズは男の後頭部に大きな傷跡があるのを発見する。

夜、店を出て帰ろうとする男のうしろ姿にテレーズは夫の名を叫んだ。男は立ち止まり、ゆっくりと両手を上げた。彼の中で蘇ったのは戦争中のナチの記憶だけだったようである。

ひとり残されたテレーズは、それでも冬になれば、また夫は戻ってくるかもしれないと、かすかな希望を胸に抱くのであった……。

是枝は山内がこの映画をいつ観たのか書いていないが、この映画の公開が1964年、山内の結婚が1968年、つまり、結婚前の27-31歳の間に、この映画を4回観ていたと推定される。何がこれほど山内を惹きつけたのだろうか。幼くして両親が離婚し、9歳の時に父は出征先の上海で戦病死したこと、父方の祖父母に育てられたこと。これらの生育環境が影響しているだろうことは予想されるが、既に厚生省に入省し、官僚の道を歩み始めているのである。私は生活保護行政に携わっていた頃に集中的に観たのではないかと想像する。生活保護を申請してくる人たちの苦難の人生。戦争の影を引きずっている人たち、そして経済成長の恩恵を受けることができず底辺で呻いている人たち。父の戦死という個人的な事情とともに、当時のこの客観的な事実を、『かくも長き不在』のなかに見ていたのではなかろうか。

そして50歳前後になって、もう一度、今度は妻の知子とともに観ようというのである。20数年の歳月を経て、この映画に回帰してくる山内の胸の内に去来するものは何であったか。山内は、アルベールのうちに自分をみていたのではなかろうか。…30年近くにおよぶ官僚の経験は、ナチスによる脳手術(ロボトミー手術?)の結果としての仕事ではなかったか、被害者から加害者への転換、それはつまり記憶喪失を意味する。

「ねえ……、なんでこの映画5回も観たの」

映画館を出た知子は新宿の街を歩きながら、繰り返し聞いた。しかし、夫は笑うだけで最後までわけは言わなかった。

山内は、言いたくても言えなかったであろう。それは妻への思いやりであった。

 

それからおよそ3年後、水俣病の和解勧告、北川長官の水俣視察に関わるなかで、山内は自ら命を絶った。テレーズを残し、アルベールになった。それは、「人間としての良心と、求められた官僚としての職責の間で悩み」命を絶ったという単純な一文で片づけられるようなものではなく、百万言を費やしても言い尽くせない事態であるだろう。

 

夫に先立たれ、知子は苦しんだ。

私はどれだけ夫を理解していただろう……。

20年以上連れ添ってきて、私はあの人のことを実はほとんどわかっていなかったのではなかったか……。

死の直後、知子は夫を理解できなかったことに苦しめられ続けた。そして自分を責め続けた。

(私はあなたの隣にいて幸せだったと、確かにあの人に伝えられただろうか……)

その自信が知子にはなかった。

なぜ死んだのかはやはり全くわかりません。けれども、ここまで帰ってくる途中でいくらでも死ぬことはできたのに、あの人は家へ戻ってきて、私の顔を見てから死にたかったんだ……。そう思っています。それがあの人の私に対する最後の甘えだったんです。

あの人は私のもとで安心して死んだんだ……。そう思いたいですね……。