気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

法の射程と限界(4) 法は「自由」を脅かすものなのか?

平野・亀本・服部『法哲学』(12)

法の限界

法のそのつどの守備範囲は、①法の基本原理に照らして正当化されうるものか。②法の基本的特質――その内的構造や作動様式による制約――及び規制対象の性質から見て、法の規制になじむものか、と言う観点から絶えず反省的に確定されなければならない。

これまで、「法の基本原理」や「法の基本的特質および規制対象の性質」の説明はなかったようなので、この文章にはコメントできない。(「近代法の基本原理」の説明はあったが、「現代法の基本原理」の説明はなかったと思う)

社会の各領域――経済、教育、宗教、家族など――で起こる諸問題については、それぞれの領域内での自主的対応に委ねることが可能であるならば、そのような対応をとるのが望ましいであろう。法的規制ないし法的処理は、基本的には最終手段としての位置づけをしておき、各社会領域での対応において著しい自由・権利の侵害が見られる場合などに、法が適切なかかわりができる仕組みを社会の中に確立することが肝要であろう。

私は、こういう考え方には大いに疑問を持つ。例えば、「経済で起こる諸問題を、経済の領域内で自主的に対応する」とは、どういうことであるのか。「自由放任」の経済が「可能」ならば、いかなる不平等があろうと、「望ましい」のだろうか。「独占」が「可能」ならば、「望ましい」のだろうか。「経済」という言葉は、どの範囲のことを言っているのか。家計、企業、地方公共団体、国民経済、世界経済…。「法的規制」のない「経済」など、あり得ないことではないか。また例えば「教育で起こる諸問題を、教育の領域内で自主的に対応する」とは、どういうことであるか。義務教育をどう考えるのか。大学教育をどう考えるのか。家庭における教育をどう考えるのか。教育格差をどう考えるのか。「法」が無くて、教育問題を解決できるとでも思っているのだろうか。宗教や家族については省略。そして、経済・教育・宗教・家族などが、相互に関連しあっていること、これをどう考えるのか。いずれにせよ、「それぞれの領域内での自主的対応に委ねることが可能であるならば…」というのは、あまりに非現実的な仮定である。従って、「法的規制ないし法的処理は、基本的には最終手段としての位置づけをして」おくべきものではなく、「各社会領域での対応において著しい自由・権利の侵害が見られる場合などに」に限定することなく、「法が適切なかかわりができる仕組みを社会の中に確立することが肝要」であろう。服部は、何かよく分からない無定義の「自由」を信奉しているように見受けられる。なお、「法」に依拠することは、「公権力に依存」することでも、「安易な形での法への依存」であるとも思われない。

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自然法論と法実証主義

社会の各領域からの要求に法システムがどのように応えていくべきかという視点で法の守備範囲の問題を捉えていくならば、「自然法論と法実証主義」という古典的な問題に別の角度から光があてられるであろう。

社会の中で一定の法システムが安定的に作動している日常的な状況では、自然法論と法実証主義の対立は、むしろ法の運用の仕方の違いになって現れるとみることができよう。すなわち、自然法論は、法システムの環境に対する認知的な開放性を強調し、法システム外の要素や基準を法の運用に積極的に関わらしめることを主張する。これに対して、法実証主義は、法システムの規範的な閉鎖性を重視し、法システム外の要素や基準をシステムの内部に取り入れることには慎重な姿勢をとるのである。

 「法システム外の要素や基準」とは、道徳や普遍的価値や慣習や「世間の空気」などであろう。私はこれらと「法」との関連を十分には考えてはいないが、「普遍的価値」を内在化した「実定法体系」でなければならないだろうという気がしている。自然法論と開放性を結びつけ、法実証主義と閉鎖性を結びつけることには疑問がある。いずれ詳しく考えてみたいと思う。

 

社会的要求と法システム

社会からつきつけられる様々な要求に対して法システムがどのように応えていくかについては、種々の対応の仕方が考えられる。1つは、法システムの所与の構造を前提にした上で、それと相容れる仕方で社会の様々な要求に応え、社会的機能を果たすというやり方である。例えば、「利益衡量論」など、法的決定の結果を考慮に入れた法的思考を行うべきだという主張がその一例である。すでに述べたように、法的思考においては、既存の法規範に依拠して事案を処理することに重きが置かれ、法的判断のもたらす将来的効果は二次的に考慮されるに過ぎない。これに対し、利益衡量論は、法的決定が社会に与える影響を法システム内にフィードバックさせることにより、社会からの要求に応える法的思考を実践しようと提言するのである。

 

「利益衡量論」は面白そうなテーマであるが、後日検討することにしたい。

社会の要求に開かれた法システムを実現するもう1つの方法は、法制度そのものの改革である。我が国では今日、陪審制ないし参審制の導入によって裁判への市民参加の途を開いたり、あるいは法曹人口を大幅に増やすとともにその養成制度も改革し、社会の要求に応え得る司法システムの実現に向けての動きが活発化している。

現実の制度的枠組みを前提にした上で、さらには司法制度を改革することを通じて、国民の要求に応え得る法システムを実現しようとするこうした試みは、法そのものの運用をその本来の担い手であるべき社会一般の人びとの手に取り戻す上で重要であるといえよう。

だが法がその基本的特質を失わないことが、法が適切に機能する上で重要であることは改めて指摘するまでもなかろう。法が社会の諸要求に開かれたものであるべきことは当然であるとしても、だからといって何でも法で解決できるとする法万能主義に与することに対しては、一定の構造化された思考を中核とする法システムを適切に作動させる上で、慎重でなければならないであろう。

 本書は「裁判員制度」が導入される前のものなので、「陪審制ないし参審制の導入によって裁判への市民参加の途を開いたり」と言っているが、「裁判員制度」によって「裁判への市民参加の途を開かれ」て、何か良くなったのであろうか。現状がどうか把握していないので、何とも言えない。

「法そのものの運用をその本来の担い手であるべき社会一般の人びとの手に取り戻す」とは、何を言わんとしているのか分からない。「社会一般の人びと」とは誰なのか。そしてまた「一定の構造化された思考」とは何なのかも分からない。