気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

「心とは何か?」という問い

金杉武司『心の哲学入門』(16)

今回で、金杉の『心の哲学入門』を終わります。前半を飛ばして、後半の「おわりに」のみを読んでいただいて結構です。

 

自己知と他者知

自分の心の状態についての知識を「自己知」と呼ぶ。…他人の心の状態についての知識を「他者知」と呼ぶ。…他者知は、他人の行動の知覚とそれに基づく推論を通してはじめて獲得されるのに対して、自己知は、自分の行動の知覚やそれに基づく推論を介することなしに獲得できる。…われわれは自分の心の状態をどのようにして知るのだろうか。…自分の心の状態についての認識には、証拠に訴えるまでもなく正しい(つまり、自己知が成立する)という保証があるのに対して、他人の心の状態についての認識には、そのように証拠に訴えるまでもなく正しい(つまり、他者知が成立する)という保証がない。

なぜ、「自分の心の状態についての認識は、証拠に訴えるまでもなく正しい」と言えるのか。「自分の心がわからない」、「私はなぜこんなことを考えるのだろう」などということはよくある経験である。これを「正しい」と表現するのは適切とは思われない。

 

不可謬性と自己告知性

自己知には、次のような不可謬性と自己告知性があると考えられる。

不可謬性:Sが自分は心の状態Mにあると信じていれば、Sは心の状態Mにある。

自己告知性:Sが心の状態Mにあれば、Sは自分が心の状態Mにあると信じている。

不可謬性と自己告知性の定義には、どちらにも、自分は心の状態Mにあるという信念が出てくる。

このような、心の状態についての心の状態を「2階の心の状態」と呼ぶ。そして、自分は心の状態Mにあるという2階の信念をB(M)と表すことにする。

不可謬性とは、B(M)があるときには必ずMもある、ということである。これは、B(M)という信念は誤りではありえないということである。B(M)→M

自己告知性とは、Mがあるときには必ずB(M)もある、ということである。これは、Mは必ず自らの存在を告げ知らせるようにB(M)を生み出すということである。M→B(M)

不可謬性や自己告知性が完全に成り立つわけではない。…(しかし)あくまでも自分の心の状態を問題にしている限りは、完全ではないにしても、かなりの程度の不可謬性と自己告知性が成り立つということは否定できない。

ここで、B(M)→M だからといって、M→B(M) ではない。すなわち、不可謬性が成立するからと言って、自己告知性が成立するわけではない。また、M→B(M) だからといって、B(M)→M ではない。すなわち、自己告知性が成立するからと言って、不可謬性が成立するわけではない。…内容に立ち入らなくても、A→Bの必要十分条件を知っていれば理解できることである。

 

直接性

自己知の特殊性として、直接性もあげられる。

直接性:自分が心の状態MにあるというSの信念は、Sが心の状態Mにあるという他人の信念と異なり、直接的に形成される。…Sが心の状態Mにあるという他人の信念は、Sの行動の知覚やそれに基づく推論を介して形成されるのに対して、自分が心の状態MにあるというSの信念は、そのような行動の知覚やそれに基づく推論を介さずに形成される。

確かに、自己知は行動の知覚やそれに基づく推論を介さずに得られる。しかし自己知は、知覚体験や感覚体験を一切介さずに得られるものなのだろうか。ここで考え方が分かれる。ある考え方では、自己知はいかなる知覚も感覚も介さずに得られる。しかし、伝統的な別の考え方によれば、自己知は、「内観」というある種の知覚を介して得られる。

この内観は、伝統的に多くの哲学者が自己知の特殊性全般を説明するための道具として採用してきたものである。それゆえ、その説明はしばしば「知覚モデル」と呼ばれる。

しかし、このような知覚モデルの説明には、次のような疑問が生じる。(以下、省略)

 

心の基本的特徴

「心の認識」という観点から心について考察すると、「他人の心の認識可能性」という特徴と「自己知の不可謬性・自己告知性・直接性」という特徴が心の基本的特徴として見えてきた。

まず、他人の心の認識可能性を手掛かりにして、心とは何かを考える限りでは、他我問題を生じてしまう二元論は適切な立場ではないと評価されるのに対して、行動との結びつきを心の本質と考えることで他人の心の認識可能性を説明しつつ、心の全体論的性格をもうまく汲み取ることのできる解釈主義は、適切な立場であると評価された。

しかし、自己知の可謬性・自己告知性・直接性を手掛かりにして、心とは何かを考える限りでは、解釈主義を含めて、それらのすべてをうまく説明できるような適切な立場を挙げることができなかった。もちろん、これはそれらを説明できる立場はありえないということではない。しかし、これらの自己知の特殊性を説明するという問題が、議論の前提の再検討を含めて、多くの議論を必要とする問題であることは間違いない。

 「他人の心の認識可能性」という特徴と「自己知の不可謬性・自己告知性・直接性」という特徴が心の基本的特徴と言われても、「はあ、そうですか」というしかない。

 

おわりに

 

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http://theartof12.blogspot.jp/2013/11/digital-holocaust-warring-mass.html

以上で見てきたように、「心とは何か?」という問いに対して、われわれは現状では決定的な答えを出すことができない。心の基本的な特徴の中には、物的一元論を支持するものと二元論を支持するものが混在しているだけでなく、そのどちらかによって説明できるのかどうかさえ明らかでないようなものもある。

Q1:決定的な答えが出せないのは、「心は物理的か非物理的か」という完全な二分法で考えているからではないか? 心は、そのような二分法の下で理解できるような単純なものではなく、一つの観点からは捉えきれない多様なものなのではないか?

A1:その多様性が単なる多様性ではなく、「物理的なもの」と「非物理的なもの」というまったく異なるものからなる多様性であるとしたら、なぜそのようにまったく異なるものが同じ「心」とみなされるのか、といった問いに直面せざるをえない。…その問いに対しては、「心そのものは物理的でも非物理的でもない中立的な存在であり、その中立的存在が物理的側面と非物理的側面を持っているのである」と答えるのかもしれない。実際、「中立一元論」と呼ばれる立場はこのように考える。しかし、その場合であっても、その中立的存在とは何なのかを明らかにする必要がある。このように、心を多様なものとして理解することが可能だとしても、そこにはさらなる問題が待ち構えている。

「心は、物理的でも非物理的でもない中立的な存在である」という中立一元論の他に、「心は、物理的でも非物理的でもある存在である」という立場はないのだろうか。

Q2:そもそも、「心とは何か?」という問いの答えは、人々の考え方次第であって、一つの客観的な答えにまとめ上げることなどできないのではないか?

A2:自然科学的問題は、人々の考え方次第で決まる問題ではなく、客観的事実についてわれわれが正しく認識したりしなかったりする問題であると考えられる。自然科学的事実のみならず、われわれが通常、客観的な正しさを問題にする事柄については相対主義的な態度をとることができない。例えば、「イラク大量破壊兵器は本当にあったのか」という問いに対しては、「それは人々の考え方次第だよ」と答えることはできない。問題は、「心」というものが、このようにわれわれの認識や考え方とは独立に存在し、われわれが正しく認識したりしなかったりするような類の存在であるのか、そうでないのかということである。

もし、「心」なんて人間の思考が作り出したものに過ぎないと言えるのならば、相対主義的な態度をとることができる。…しかし、われわれがどう考えようが、心というものがどのようなものであるかは客観的に定まっているのではないだろうか。

もし、心を客観的存在と考えるのならば、諸テーゼの妥当性を吟味するために、それらのテーゼがそれぞれ首尾一貫しているか、他の真理と整合しているか、さまざまな現象をどのテーゼが最もよく説明するかといった点を考慮しつつ、粘り強く答えを探求していく必要がある。

金杉のこの最後の答えには賛成できる。「心とは、われわれの認識や考え方とは独立に存在し、われわれが正しく認識したりしなかったりするような類の存在である」と考えたい。その探求のためには、「言葉」を言い換えたりしてこねくり回すのではなく、「自然科学的方法論」に基づくものであれば(脳科学、認知科学、心理学、…)説得力ある議論が展開されるのではないかと思う。「心」の問題を、「宗教」にしたいのであれば、それはそれで構わないが(「信じる/信じない」、「好き/嫌い」の世界)、それは議論の対象ではない。

 

次回からは、自然科学者が書いた「心の起源」の本を読むことにしたい。