浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

親密圏/公共圏(3) 別様の暮らし方を提示する

齋藤純一『公共性』(17)

斎藤は、「公共圏が人びとの〈間〉にある共通の問題への関心によって成立するのに対して、親密圏は具体的な他者の生/生命への配慮・関心によって形成・維持される」と述べていた(親密圏/公共圏(2)愛の共同体(2)参照)。

そして、次のように言う。

新しい価値判断を公共的空間に投げかける問題提起は、マジョリティとは異なった価値観(生命観・自然観・人間観)を維持・再形成してきた親密圏から生じることが多い。

「マジョリティとは異なった価値観」が、「親密圏」(愛の共同体等)において形成・維持されることは、直観的に理解されよう。

ここで斎藤は、水俣病と関わってきた栗原彬*1の言葉を引いている。

確かに、市民運動や反公害闘争の中から、日本型の「進歩と開発」本位の行政的公共性を市民的公共性に組み替える公共性の転換が起こりましたが、水俣病者という「他者」の立つ位置からは、その先に異交通的な公共性が切り拓かれてくる。「異交通」という考え方は、非決定の存在同士が差異を保ったままで、その存在を相互に受容しあう関係です。……表象の政治の圏内ではあっても、親密な関係を取り結ぶことによって相互のコードを尊重し、その人の存在を尊重する。そういうあり方が、親密圏から新しい公共性、他者性に立った公共性を立ち上げるということにつながってくるのだろうという気がします。(栗原彬、「表象の政治――非決定の存在を救い出す」)

これだけでは、ちょっと難しい。私が下手に解釈するよりは、齋藤の説明を聞こう。

栗原が親密圏に見出すのは、他者を自らのコード(規範・話法)に回収しない、むしろ他者性に対してより受容的な人-間の関係性であり、それは、既存の文化的コードを再生産しがちな「市民的公共性」のコミュニケーションから区別される。これまでの支配的な文化的コードを書き換えるかもしれない新しい政治的ポテンシャルは、他者に対する「決定」を求めない親密圏のコミュニケーションのなかに育まれる、と見るのである。了解に達するのをあきらめること、他者が他のようにあり、他のようにあろうとするのを肯定すること、関心を寄せながらも距離を縮めないこと、親密圏はそうした他者との間の弛やかな関係の持続をも可能にする。

新しい価値の提起は、言説の政治という形をただちに取るとは限らない。それは「ディスプレイの政治」と呼ぶべき形を取ることもある。つまり、価値観を異にする他者に対して訴えの言語、説得の言語をもって向き合うというよりもむしろ別様の暮らし方の提示、別様のパフォーマンスの提示障碍者演劇など)、別様の作品の提示といったスタイルを取る。そうした別様の世界の開示は、それを見聞きする者たちによって言説のレベルに翻訳されたり、それをまねるミメーシスの実践を触発していく。こうしたディスプレイの政治は、ハーバーマスのいう公共性よりも、アーレントが描いた現れの公共性により親和的である。公共的空間は、必ずしも言説の政治のレベルに一元化されるわけではないということに注意したい。

斉藤の説明に依拠して、栗原の言葉を理解しておこう。…《水俣》を見つめてきた栗原は、「異交通的な公共性」という。そんなのあり得ないのではないか。公共性は、交通(コミュニケーション、話合い、議論)を前提とする。当然ではないか。交通(議論)がなければ、それは「親密圏」と称すべきである。私はそう思っていた。…

ところが、交通(議論)すなわち「他者に対する訴えの言語、説得の言語」をもってするのではなく、「別様の暮らし方、別様のパフォーマンス、別様の作品」を提示することによって、「公共性が切り拓かれてくる」というのである。説得の言語ではなく、別様の暮らし方、別様の作品を提示する。それを良しとする者は、それを取り入れる。ふーむ。公共空間たりうるかもしれない…。これを「言説の政治」に対置して、「ディスプレイの政治」と呼ぶ。

でもねえ。「思想」としては面白いが、「現実的な力」になりうるのだろうか。ディスプレーが価値がないとか、無意味だとかいうのではない。それらとともに、「他者に対する訴えの言語、説得の言語」が必要だと思う。ディスプレーを、わかりやすく言語化しなければならない。そうでなければ、他者はそれを直接みて、勝手に解釈するしかない。多様な解釈を免れない。多様性を強調して終わるだけにならないか。

 

親密圏の対話は、失われたあるいは断念された公共的空間の代償であるとは限らない。それは…両義的なものである。親密圏が相対的に閉じられていることは、一方では差異と抗争を欠く。したがって政治性を失う条件であると同時に、他方では、外に向かっての政治的行為を可能にする条件でもありうる。親密圏は、「相対的に安全な空間」(グロリア・アンザルドゥーア)として、とくにその外部で否認あるいは蔑視の視線に曝されやすい人々にとっては、自尊あるいは名誉の感情を回復し、抵抗の力を獲得・再獲得するための拠り所でもありうる。

親密圏が、「自尊あるいは名誉の感情を回復し、抵抗の力を獲得・再獲得するための拠り所でもありうる」というのは了解しやすい(定義からして)。しかし、そのような親密圏は、現実にはいったいどれほど存在しているだろうか。存在しうるだろうか。(ここで、親密圏とは、家族やセルフィッシュ・グループやサロンのこと…親密圏/公共圏(2) 愛の共同体(2)参照)

このように見てくると、親密圏は言説の空間であるとともに感情の空間でもあることにあらためて気づかされる(もちろん感情にとって言説は決して外在的なものではないが)。感情といっても、ギデンズのいう「ロマンティック・ラヴ」や「合流する愛」とはかなり異質な感情である。それは、恐怖を抱かずに話すことができるという感情、無視されはしないだろうという感情、そこに向かって退出することができるという感情、そこでは自分が繰り返し味わわされてきた感覚が分ってもらえる(かもしれない)という感情……つまり、排斥されてはいないという感情である。

「親密圏は具体的な他者の生/生命への配慮・関心によって形成・維持される」のであれば、「排斥されてはいないという感情」の空間でもある。

アーレントの見方からすれば、そうした感情は、人々の間の違いを消しさる非政治的な感情としてとらえられるかもしれない。差異と抗争のない「ホーム」を求める感情がどのような暴力と抑圧を生み出しうるかという指摘が、あらためてなされるかもしれない。確かに、親密圏における感情の機制は両義的である。支えることと繋ぎ止めること、配慮することと包み込むこと、注目を寄せることと監視すること……要するに、「相対的に安全であること」と「相対的に危険であること」は裏腹の関係にある。親密圏が同化と抑圧の空間に転化する危険性は常に伏在しており、そこから退出する自由は制度的にも保障されていなければならない。

親密圏を家族を典型とする「愛の空間」とのみ捉えていては、「同化と抑圧の空間に転化する危険性」を見逃すことになるだろう。…小家族を超えたレベルのコミュニティともなれば、親密圏の性格を持ちえたとしても、「同化と抑圧の空間に転化する危険性」を増すことになろう。

しかしながら、自尊の感情にとって、自らの存在が無視されず、自らの言葉が黙殺されない<間>を持ちうるということは、やはり重要な意味を持っている。アーレントは、公共的空間に自らの行為や言葉において現れ出る勇気を「政治的特性」として重視するが、否認や蔑視をも恐れないということの特性はどのように育まれるのだろうか。それは、自らがどこかでーー家族であるとは限らないーー肯定されているという感情を背景に持つはずである。親密圏は、そこでの人々の<間>が、どのような感情の機制を生み出すかという視点からも捉え返されるべきだろう。それは愛情の空間とよぶにはあまりにも多義的であるし、またナショナリズムやショービニズム*2の隠れた水源地であるという単純な還元論もそこには妥当しない。親密圏を理解するためには、アダム・スミスのひそみに倣えば、よりきめの細かい「政治感情論」が必要になる。

 

私たちが考えなければならないのは、親密圏が公共圏に開かれており、同化と抑圧の空間に転化しない親密圏の存立条件ではなかろうか。そのような親密圏を構想することが、人間性、人間の尊厳を無視しないために必要なことではなかろうか。

 

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「影祭<夏祭り万華鏡>」(原倫太郎+原游)大地の芸術祭 越後妻有トリエンナーレ/新潟

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*1:栗原彬(1938-)…社会学者。『「存在の現れ」の政治――水俣病という思想』や『証言・水俣病』などの著作がある。

*2:ショービニズム…盲目的愛国主義、排外主義、排外的愛国主義、好戦的愛国主義などと訳される。熱狂的愛国感情が生み出す排他的思想態度のこと。(日本大百科全書)