平野・亀本・服部『法哲学』(13)
今回から「正義」の話に入る。亀本は、正義の定義に関する様々な考え方を整理しているので、ざっと見ておきたい。
戦争の正義
どのような場合に戦争が許されるかという、多少なりとも学問的な正義論の分野がある。
独裁政権を打倒して民主政権を樹立するための戦争は正義の戦争か。…「正戦論」は、いずれどこかで検討したい。
応報としての正義
応報としての正義は、「やられたらやり返してよい」という表現からわかるように、やられた者の権利であることもあるし、「やられたらやり返せ」という表現に表されているように義務であることもある。義務としての応報の典型的場面は、自分が直接の被害者であるときよりも、同胞が直接の被害者であり、同じ部族の一員として自分にも直接の加害者ないしその部族に対する報復の義務がかかってくるという場合である。一般に部族的生活様式を背景として成立するといってよかろう。
「徴兵制」により、「報復の義務」を課す状況というのは、「部族的生活様式」を背景とする。
互恵としての正義
他人から恩恵を受けた時に、それにふさわしい行為を返すことを要求する正義。…単なる利他主義と異なる。
適法あるいは道徳的正しさとしての正義
法に適っていること(適法ないし遵法)が正義。…ある学者(A)がここで言う「法」は、道徳と未分化、あるいは道徳と一体のものであり、その究極の目的は、…国家の一員として、善く生きるような有徳な人格を養成することにあった。
適法ないし遵法だから正義というわけではなく、道徳的に正しいから正義という。
法の一般性と衡平
Aによれば、法の文言は、例外的なケースを捨象したうえで、一般的な形で表現されているものとみるべきである。したがって、その法が予定する典型的なケースでは、文言通り法に従うことが正義であるが、例外的なケースでは遵法は正義を必ずしも意味しない。Aは、例外的なケースの事情に即した、法の一般的ルールから外れる取り扱いを個別的事件における「衡平」の観点から正当化した。
個別事案の事実認定次第では、「文言通りに、法に従う」ことが正義とは限らない。
等しさとしての正義
正義を勇気や正直などと並ぶ道徳上の一徳目とみなす場合、Aはそれを「特殊的正義」と呼び、ある種の「等しさ」と定義した。彼はさらに、この「等しさ」を2つに分類し、一方を比例的等しさ、他方を算術的等しさとし、それぞれ「配分的正義」、「矯正的正義」に対応させた。
http://toyokeizai.net/articles/-/87614
<配分的正義>
配分的正義は、便益または負担を市民の間で分ける場合に、それを各市民の何らかの意味での「価値」(desert)に比例して配分することを要求する。…配分的正義は、配分を受ける市民、甲、乙の価値 (desert) の比がA:Bであるとき、配分される物の価値 (value) の比もA:Bであることを要求する。…配分の基準となる価値とは、貧富の程度、身分・家柄、貢献の程度、各種の能力などである。
給与は、労働時間に比例して支払われるか。労働能力に比例して支払われるか。労働成果に比例して支払われるか。所得税は、給与収入や事業収入に比例して課税されるか。扶養控除は被扶養者数に比例して控除されるか。消費税の逆進性は「衡平」なのか。
<矯正的正義>
矯正的正義は、2人の人の間での不法行為または不当な取引において、算術的な等しさを回復させるためのものである。甲が乙へ不法行為によってCという価値 (value) の損害を与えたとき、あるいは甲乙間の不当な取引によって、甲が利得Cを得、乙が損失Cを被ったとき、矯正的正義はCという価値を甲から乙へ返却することを要求する。(事後的救済)
交通事故の損害賠償はいかに算定されるべきか。損害額をいかに算定するのか。
<交換的正義>
交換的正義は、給付と反対給付との(金銭的)価値の等しさを要求する(等価交換の要求)。…交換的正義は、交換がなぜ起こるかを説明する。…貨幣は、そうした価値を通約し、物々交換を媒介する機能を持つ。
ある商品に千円の値札がついているとき、千円紙幣で購入したとすると、それは「等価交換」と言えるのか。
等しきものは等しく、等しからざるものは等しからざるように
特に身分の等しい者の間では等しい扱いをし、身分の異なる者とは違った扱いをすべきである。
男女、学歴、職業等を「身分」と考えたとき、身分が異なっても「同じ扱いをせよ」ということになるのかどうか。
交換の正義の現代的意味
交換の正義という観念は、中世から近代を経て、現代に近づくにつれて、給付と反対給付、または被害と賠償の等価性という点よりも、所有と契約の尊重という点に重点が移行してきた。「他人の占有ないし所有を侵害してはならない」、「契約は守らなければならない」という項目は、ほとんどすべての自然法論に含まれており、これらを無視するような実定法もほとんど存在しない。しかし、等価性の要求については、価値が主観的なものと考えられるようになるにつれて、厳密な形でそれを維持することが難しくなってきた。…したがって、今日では等価性の要求は、誰が見ても明白に不等価な交換は是正すべきであるという交換的または矯正的正義の要請として現れる場合を除いて、契約遵守の正義に吸収されているとみてよい。交換を約する契約は、交換前に比べて交換後には、お互いに状態が改善されると考えるからこそ成立するのであるが、詐欺や脅迫がない限り、それを一種の「等価交換」とみなすことは可能である。
価値が主観的なものであることは理解できるが、だからと言って等価性の要求が、「契約遵守の正義」に吸収されたと言えるのだろうか。「不当な契約」があることを考えれば、契約「遵守」は無条件に「正義」とは言えない。
分配の正義の現代的意味
経済学は、「配分」と「分配」を厳密に区別する。「配分」という用語は、財の生産にあたって、資本や労働、原料といった資源をどこに・どれだけ投下するのかということについて用いられる。他方、交換を通じた生産と消費をめぐる経済活動の結果、所得と富の分布に関して一定の状態が生じる。それを所得または富の「分配」という。資源配分の結果、所得の分配が生じるのである。
経済活動の結果生じる所得または富の分配は、貧富の差を伴い、必ずしも正義にかなったものとはならないだろう。…分配を多少なりとも平等化するために、所得ないし富の再分配…を実現する手段としては、政府を通じた課税と補助金による方法がある。
所得や富など金銭的評価が容易なものについては、「分配」という用語はふさわしい。しかし、分配の不正義は、所得ないし富の初期分配だけでなく、金銭的に評価しにくい各種の権利の「分配」の(実質的)不平等にも依存している。…権利に対し「分配」を用いるか、「配分」を用いるかについて、現代の正義論文献は一定しないが、「配分」のほうが適切だろう。
配分を誰が決定するのか。分配を誰が決定するのか。その決定のしくみに問題はないのか。そこを問題にせず、ただ単に「平等」を主張するだけでよいのか。それとも、「平等」を価値理念として、配分・分配機構をデザインすべきものなのか。
以上の引用中、ある学者(A)と表記したのは、アリストテレス(BC384-BC322)である。予断をもたないために、Aに置き換えてみた。