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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

自己と公共性(1) アイデンティティという危機

読書ノート 私たち

齋藤純一『公共性』(18)

齋藤は、「自己」も「公共性」も一義的なものではないとして、次のように述べている。

個人と共同体という問題系は、個と共同の関係を、一人の個人が一つの国家に帰属する、ある成員がある共同体に帰属するという仕方で描き出す。両者の関係は単一の次元において取り上げられるのである。諸個人が追求する「善き生の構想」が和解不可能なまでに多元化した条件のもとで、国家の活動を正当化すると同時にそれを制約すべき「公共的価値」とは何か。個人のアイデンティティを内部から構成すべき共同体の「共通善」とは何か。あるいは、「各人がすべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること」、このことを可能にする「アソシアシオンの形式」とは何か(ルソー『社会契約論』)……。個人と共同体の問題系は、一つの共同性の次元があたかも人間の生全体を包摂する意味を持つかのように描く。しかし、私たちの生/生命は、そのように一次元的な取り扱いになじむようには出来ていない。

私はいろいろな共同体(家族や会社や国家などの共同体)の一員である。私は「日本人」(日本国の住民である)である。私が日本人であるというとき、あなたは私が「ある会社の従業員であること」、「ある家族の世帯主であること」を考慮にいれているか。おそらく考慮に入れていないだろう。それは、いま問題にしている事柄に、それは直接には関係ないとみなされているからである。しかしそれで良いのだろうか。私はある「政治的主張」をする。その主張は、私が「ある会社の従業員であること」、「ある家族の世帯主であること」をその背景の一つとしている。齋藤の言葉で言えば、私の「政治的主張」は、「善き生の構想」の一つである。それは、「国家エゴ」的な主張(「日本」が「経済競争」に勝てば良い、「戦争」に勝てば良い、オリンピックでメダルをたくさん取れれば良い)の価値を認めない。あなたは、そのような「反国家的な主張」にどう対処するか。民主主義の名のもとに、多数意思を押し付けるか。私が「日本人」であることにとどまらない、ということにどれだけ配慮できるか。

 

いわゆる「個人」についてまず言えば、私たちはただ一つの「アイデンティティ=同一性」を生きているわけではない。「アイデンティティ」という言葉を用いるならば、自己のアイデンティティは通常は複数である。通常はというのは、自己が何らかの単一の集団――家族であれ、会社であれ、宗教的共同体であれ、民族的共同体であれ、国民国家であれ――に排他的に同一化しようとする場合も確かにあるからである。そうした同一化は「過剰同一化」あるいは「傷ついた愛着」と呼ばれるべき病理的なものであり、私たちはむしろそうした病理を生み出す政治的・社会的条件を批判的に問うべきだろう。通常は、何らかの集団に抱かれるアイデンティティがより大きな比重を占めることがあるとしても、それ以外のアイデンティティが失われることはない。自己は、それ自体複数アイデンティティ複数の価値の〈間の空間〉(inner-space)であり、その間に抗争があるということは、自己が断片化しているということを意味しない。葛藤があり抗争があるということは、複数の異質な(場合によっては相対立する)アイデンティティや価値が、互いに関係づけられているということを意味する。

私は、家族・会社・宗教的共同体・民族的共同体・国民国家の一員である。そしてまたグローバル・コミュニティの一員である。齋藤は、単一の集団(例えば、国家)に排他的に同一化することを「過剰同一化」と呼び、病理的なものであると言っている(宗教も同じ)。私もそう思う。私にはそれは「狂気」に映るが、ただそのようにレッテルを貼ってもはじまらない。「病理を生み出す政治的・社会的条件」が問われねばならないのだが、そのような営為がどれほどの成功をおさめているだろうか。

私は、いろいろな集団の一員である。それぞれ身分証明書の番号(識別番号、ID)が異なる。私は、複数アイデンティティを生きている。それでも、私は、集団の違いにも関わらず「私」である。…うまく言えないが、異なる集団間での同一の「私」に着目しなければならない。

 

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アーレントは、自己の内部にある複数の価値の間の対話を「思考」とよんだ。この見方からすれば、一義的なアイデンティティに硬直し、単一の価値に凝り固まった自己はもはや思考することはできない。自己――思考する存在者としての自己――にとっての危機は、さまざまな価値を整序化する何らかの中心的・支配的な価値が欠けていること――いわゆる「アイデンティティ・クライシス」――ではなく、逆に、ある一つの絶対的な価値が自己を支配するような「アイデンティティという危機」である。複数性は公共性における「政治の生」の条件であるとともに、自己における「精神の生」の条件でもある。私たちが恐れねばならないのは、アイデンティティを失うことではなく、他者を失うことである。他者を失うということは、応答される可能性を失うということである。それは、言葉の喪失を、「言葉を持つ動物」としての政治的な存在者にとっての「死」をもたらす。

複数性は政治の生すべてにとっての条件である。つまり、その必要条件であるだけでなく最高の条件である。これまで知られている中で、最も政治的な人間であるローマ人の言葉では「生きる」ということと「人びとの間にある」ということ、あるいは「死ぬ」ということと「人びとの間にあることをやめる」ということは同義語として用いられた。」(アーレント

人々の〈間〉の喪失は、〈間〉を超えた次元にある何らかの絶対的価値への排他的な自己同一化をしばしば惹き起こす。そうした一義的・排他的な同一化が廃棄するのは、まさに複数の価値の間での言説の空間としての公共的空間である。

ここで齋藤が述べていることは、痛烈な「宗教批判」に聞こえる。それは「全体主義(単一イデオロギー)批判でもある。だから齋藤の意見に賛成するというのではない。「ある一つの絶対的な価値をしか認めず、言説の空間としての公共的空間を認めない」から、「宗教」や「全体主義(単一イデオロギー)」に反対するのである。「自由主義」が「ある一つの絶対的な価値をしか認めず、言説の空間としての公共的空間を認めない」のなら、同様に「自由主義」に反対するのである。

 

親密圏/公共圏は、私たちの〈間〉に形成される空間である。私たちが生きる〈間〉はただ一つの次元に完結するものではありえない。私たちは、次元を異にする複数の〈間〉を生きている。そうした多元的な〈間〉は、いずれも私たちの生/生命にとって不可欠のものとしてある。これまで取り上げてきた人々の〈間〉は、次のような次元にわたっている。

まず、生きていくことという自己の位相について言えば、親密圏は、生命のさまざまな必要に応じる活動が具体的な他者との間で行われる空間である。それには、衣食住にかかわる活動はもとよりとして、産・育・老・病・死に関わるいわゆるケアの活動も含まれる。具体的な他者の生命・心身に働きかけ、それを支える相互行為――相互行為は対等な間柄における言説の次元にのみ切り詰められるべきではない――は、他者の存在を肯定するという意味をその根本に持っている。自己の生命の位相には同様に市民社会の公共性も関わっている。ケアや介助のネットワーキングは生命を支える重要な次元になりつつあるし、災害に際しての「人間の安全保障」にとって決定的な役割を果たすのも公共性のこの次元だろう(外岡秀俊)。そして国家の公共性――非人称の強制的連帯のシステムとしての――は、私たちの生命を保障すべき公共的価値を実現するという責務を負っている。何をもってそうした公共的な価値とするかは、新たなニーズ解釈の提起に開かれた公共的空間において検討され、そのつど再定義されていくべきものである。

いかなる他者であれ、肯定的な眼差しを向けることができなければ、それは「他者の存在を否定する」危険性を孕むものである。自己や家族そして顔の見える仲間たちの「幸福」のみを考え、名も知れぬ他者に肯定的な眼差しを向けることができなければ、それは「他者の存在を否定する」危険性を孕むものである。それはヒトラーを支持する心性ともなるだろう。

 

自己には生命とは異なった位相もある。その一つは、自己が他者と共有する世界に関わるものである。それに対応する公共性の次元は、共通の世界がどうあるべきかをめぐる意見、とりわけ規範の妥当性(正義)についての判断が相互に交わされるコミュニケーションである。集合的な意思決定が避けられないこの次元では、当面の合意を形成することが公共的空間における討議にとっての課題となる。ここで付言しておくべき問題は、共通の世界をめぐる正義への問いが「一国公共性」の射程を超える場合に、誰が「合意」を形成すべきアクターとしてみなされるべきか、ということである。ハーバーマスは、コソヴォへのNATOによるいわゆる「人道的」介入を支持し、それをすでに民主化され、リベラルな政治文化が定着している諸国家――つまり介入を行った国家のことである――の間の「合意」によって正当化した。立ち入って検討することのできない多くの微妙な論点があるが、国際連合における審議の回避(すでにある手続きの軽視)とともに、公共性を代理=代表することを自己正当化するスタンスにはやはり問題がある。エドワード=サイード(『オリエンタリズム』を著したパレスチナ出身の哲学者)は、本人を排除した代理人たちの「公共性」を正当化する――パレスチナの人々が不在のところで「パレスチナ問題」を協議する――要素が、ハーバーマスの討議理論にあることを示唆したことがある。民主的公共性の理念は、誰の声も、誰の言葉も封じられるべきではないということにあり、本人が遠ざけられるような公共性はおよそその名に値しない。重要なのは、公共性へのアクセスを著しく非対称的のものにしている(広義の)資源の分配状況を問題化し、それをより対称的なものに近づけていくことである。

「公共性へのアクセス」は、民主主義論の最重要テーマであるような気がする。今後「民主主義」の理念について勉強していく際に、忘れないでおこう。また「人道的介入」についても、今後ふれることがあろう。…いずれも、ここで論ずるには大きすぎる問題である。