平野・亀本・服部『法哲学』(14)
権利・義務としての正義
ある学者(U)は、正義を次のように定義した。
各人に、各人のものを、配分する恒常不変の意思
これでは意味不明である。亀本は次のような意味であると言う。
各人に、各人の当然受けてしかるべき権利ないし義務を、配分する恒常不変の意思
そして、このように権利・義務を配分せよというのは正義の要求であると。
Uの定式は、さまざまな正義観念と両立するきわめて一般的な正義感であり、個人の権利・義務という観点から正義をとらえている点に思想史上重要な意義がある。
「各人の当然受けてしかるべき権利ないし義務」の内容がどのようなものであるか分からないので、これは何とも言えない。正義の要求であるかどうかも分からない。なお、Uとは古代ローマの法律家ウルビアヌスである。
調和としての正義
ある学者(P)は、正義を次のように定義した。
為政者、軍人、農民、職人という階層化された理想的なポリス[国家]の身分秩序の中で、各人がその分を尽くす、つまり割り当てられた役割を分相応に果たすことによって、ポリス[国家]全体の調和が保たれること。
国家または社会全体の立場から、正義を考えている。個人の権利・義務という観点からの正義とは異なる。「個と全体」という枠組みから言えば、全体に軸足をおいた見方である。但し、社会秩序の維持が、必ずしも常に望ましいとは言えない(ファシズム社会、帝国主義社会の維持が望ましいとは言えない)。なお、Pとはプラトンである。
共通の正義
社会全体の幸福を正義とみなす見解は、古来有力であり、中世キリスト教世界における「共通善」の思想や、近代ないし現代の「公共の福祉」の思想がその代表である。それらをここでは「共通の正義」の思想と総称しておこう。そこで問題になるのは、個人の幸福と全体の幸福との関係である。「共通の正義」は、原則的に、全体の幸福は個人の幸福と一致すると考えるが、その一方で「社会全体のために尽くせ。自分を犠牲にせよ」といった、博愛主義ないし利他主義の思想をも含むものであった。近代の功利主義も、その個人主義的側面を捨象すれば、「共通の正義」の思想の系譜に属するものである。
社会全体の幸福が個人の幸福と一致すれば問題はない。しかし、往々にして社会全体の幸福と個人の幸福は一致しない。社会全体の幸福が正義だと言い切ってしまうのは問題である。個人と社会全体の両面から考えなければならないだろう。
以上の正義の諸概念につき、亀本は詳細を述べていないので、私も簡単にコメントしておいた。
次の「形式的正義」の話から、やや詳しく見ていくことにしたい。
形式的正義
私がたまたま読んでいた本のなかに、「形式的正義」の例に適当かなと思われるものがあったので引用する。
既婚者の韓国人女性が日本人男性と不倫をし、子どもを産んだ。女性は離婚し、男性がこの子を認知した。この子には日本国籍が認められるか?
従来、こうしたケースでは、国籍法の解釈から、子どもが母親の胎内にいるうちに父親が認知[胎児認知]しないと、日本国籍は認められないとされてきた。一方で、民法には、結婚している女性が妊娠した場合、夫の子と推定する、という規定がある。このため、不倫相手の日本人男性は、胎児の段階では認知できなかった。(読売新聞社会部『ドキュメント裁判官』)
不倫に至る人生模様は興味あるところだが、主題ではないのでふれない。あくまで法と正義の話である。
亀本は「形式的正義」について次のように述べている。
形式的正義は、何らかの点で等しい限りで等しい取り扱いを要求する[等しき事例は等しく取り扱え]が、どの点に着目すべきかについては言及しない。後者の点は、実質的正義の問題であり、実質的な正当化が要求される。
形式的正義は、…その普遍性、即ち何らかの観点から同一であるすべての事例に妥当することを要求する。
上記例では、未婚であろうと既婚であろうと、胎児認知の事実がないという点で等しき事例である。よって日本国籍は認められないとされたわけである。しかし、
最高裁は1997年、子どもの日本国籍を認める判決を言い渡した。「外国人の母親が未婚か既婚かで、子の国籍取得に著しい差が生じる解釈はすべきではない」と国籍法を幅広く解釈した。
当時、審理に加わった大西勝也は、「国籍法の文言に合致しないという批判は免れないかもしれないが、これが最も合理的な解釈だ」との補足意見を書いた、判決後、国は同様のケースで、子どもに日本国籍を認めるようになった。大西は「法改正などの立法による解決の前に、行政が一定の限度で運用を変えても、何も問題は生じないということを言いたかった」と語る。(読売新聞社会部『ドキュメント裁判官』)
形式的正義を、どの点に着目して、主張するのかが問題である。場合によっては、実質的に正義だとは考えられず正当化できないということが生じる。そのような場合、立法による解決の前に、「一定の限度で」行政が運用を変えるという方策が有効となる。法を文言通りに形式的に解釈することが正しいとは限らない。
普遍化可能性
道徳的判断について普遍性が要求されることがある。つまり、ある個別事例について、問題になっている行為が善いとか正しいという判断を下す場合、その判断の根拠となった当該事例の事実的特徴と、本質的に同一の特徴を有する他の潜在的事例についても同一の判断を下す用意がなければならないという道徳的要請である。これは、法における形式的正義と実質的に同一のものであるが、道徳判断の「普遍化可能性の要求」と呼ばれる。
この普遍化可能性の要求は、意外と難しいような気がする。すなわち、他の事例が、「本質的に同一の特徴を有する」か否かの事実認定の難しさである。およそ、ある事象が他の事象とすべての点において同一の特徴を有することはありえないわけで、何が「本質的」かの判断に合意が得られるかどうかわからない。
普遍化可能性は、道徳判断においても要求されるが、法律家の実際の判断において大きな比重を占めている点で、法的思考とかかわりの深い正義観であるといってよかろう。どの点に着目して同じに扱うかは異論の余地のある問題であるとしても、ある点に着目した場合、その点について同じかどうかの判断は誰でも比較的容易にできる。
したがって、紛争の解決を目指す法律家が、先例と同じかどうかに注意を集中しがちであるのには理由がないわけではない。しかし、どの点に注目すべきかという問題を度外視して、形式的に同じかどうかだけを問題にしがちな法律家とその思考については昔から批判も強い。
「ある点」に着目して、普遍化可能性を主張することはできる。確かに「その点について同じかどうかの判断は誰でも比較的容易にできる」だろう。しかし、「ある点」が当該事案にとって、「本質的に重要な点」であるかどうかが問題である。それゆえ、「ある点」に着目して、先例を踏襲する法律家が批判されるのだろう。
また、どのような法的主張であっても、普遍化可能性の要請を満たすように定式化することができる。それをルールの形で述べればよいのである。しかし、その主張が理論的には普遍化可能であっても、実質的には、自分の利害を普遍性の偽装のもとに主張しているにすぎないことも多い。この点でも、どの観点が重要かに関する実質的正義の論争を抜きに、普遍化可能というだけで法律問題について決着をつけることには問題がある。
「自分の利害を普遍性の偽装のもとに主張している」、これは非常に重要な指摘だ。およそ法(ルール)なるものが、誰かの利害を反映しているのではないかと批判的な目でみることが必要だ。誰がどういう意図で決めた法(ルール)であるかを考えもしないで、コンプライアンス(法令順守)を盲目的に唱えるほどナンセンスなことはない。
立場の互換性
普遍化可能性と混同または同視されることが多い正義の考え方として、「立場の互換性」と呼ぶべきものがある。それは「相手の立場に立って考える」という、どこにでもみられる道徳観の一形態であるが、正義論の文脈では、「ある主張、とりわけ権利主張をする場合、それと同様の主張を他人にも認めなければならない」という考え方として定式化することができる。
このような立場の互換性の考え方が、「普遍化可能性」の一種とされることもあるが、厳密には区別することができる。立場の互換性は、形式的定義の意味での普遍化可能性を含むが、それ以上の内容を持っているからである。このことは、立場の互換性としての正義とAの配分的正義とは対立することがあるが、両者とも普遍化可能性とは両立する。つまりルール化することができる、ということを考えれば明らかであろう。
Aの配分的正義とは、配分の基準となる価値(例えば、貢献の程度)に比例して配分するのが正義だ、というものであった。立場の互換性が、「私が100を主張するとき、あなたが同様に100を主張することを認めなければならない」ということを意味するなら、それは認められない。例えば、労働の対価を考えれば容易に理解されよう。「相手の立場に立って考える」ことは、配分的正義とは異なる。
ここでは亀本の言うように、「立場の互換性」を、正義論の文脈で、「ある主張、とりわけ権利主張をする場合、それと同様の主張を他人にも認めなければならない」として理解しておくべきだろう。利己主義者は、得てして立場を互換できない。
http://www.ibraaz.org/essays/109