浮動点から世界を見つめる

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生命倫理学(4) 先日出産したのですが、先天性多発奇形児でした

加藤尚武『現代倫理学入門』(11)

加藤の生命倫理学の検討に入る前に、YAHOO知恵袋にあったQ&Aを転載しておこう。

layc91113さん2013/3/5 15:08:22

先日出産したのですが、先天性多発奇形児でした。染色体には異常がないため、親より長く生きてしまいます。多指、口唇裂、顔面低形成、心疾患、両下肢体、小眼球、気管、頭蓋骨、脛骨の形成不全。ほぼ確実に脳にも異常があると思います。病院側からも、心疾患の治療をせず、と言われてしまいました。…一生寝たきりで、24時間介護(吸痰等)が必要な、自我がない子を育てるのは、兄弟や親の精神も蝕む、人生が変わるとまで言われました。

それなら何故産まれるまでわからなかったのでしょうか? 医療過誤としか思えないです。そして、酷な選択を迫られ鬱になりそうです。こんなに酷く、分かりやすい奇形を見逃すなんてありえるのでしょうか? 出産した病院は県内は勿論、国内でも有名な病院です。

補足

私が被曝三世だという事は何か関係があると思いますか?

以前何かで放射能の影響は二世より、三世、四世に強いと聞いた事があります。

 

ベストアンサーに選ばれた回答

bpyfh254さん 2013/3/5 17:15:32

大変な思いをなさっていますね

今は 現実を受け止められない状況なのでしょうか

事前に解っていたら堕胎なさったでしょうか

何とも言えませんよね

生まれてみなければ どこに障害があるのか

しばらくたっても気付かないケースもあります

奇形を見逃す・・・

奇形でもあなた様のお子様です

その事実は、医療過誤でもなんでも変わらない事実です

自分には起こるはずのないことが起きるのが

現実を生きるということです

自分に限って 我が家に限って という定説は存在しません

 

質問した人からのコメント2013/3/5  21:16:15

ありがとうございます。

勿論妊娠した時点で、障害や奇形、ある程度は覚悟していました。

奇形であろうと、我が子です。とても愛しくて尊い存在です。ただ、あまりにも酷い奇形で、これだけ医学やエコーも精密さを増しているのに、不思議でたまらないのです。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11103169206

 

加藤は、生命倫理学の人格概念(人間観?)の問題点を4つ挙げていた。今回は、第4の問題点である。

第4に可能的人格の生存権の問題がある。もしも可能的人格(将来、人格となるヒト)に生存権があるならば、人工妊娠中絶は正当化できない。

可能的人格の生存権の問題とは、「将来、人間となる可能性のあるX(ヒトあるいはモノ)」の「生存」の「権利」の問題であると考える。

そこで持ち出される議論の定石が「12歳のジミー・カーターは三軍の統帥権を持たない」という議論である。

アメリカの生命倫理学者の議論はこうである。「12歳のジミー・カーター」は、将来アメリカ大統領となる可能的大統領である。可能的大統領に大統領の権限があるなら、12歳のジミー・カーターが三軍の統帥権を持つことになる。これが間違いであるのは、可能的な人格に生存権があると認めるのと同じである。12歳のジミー・カーターが三軍の統帥権を持たない以上、権利の可能的な将来の保持者は、現在その権利を持つものではない。ゆえに、胎児は生存権を持たないから、人工妊娠中絶は正当化可能である。

 取消線は私が引いたものである。こういう文言が入っていると紛らわしいので、無いものとして考えよう。アメリカの生命倫理学者がジミー・カーターの例を引いて言いたかったことは、「権利の可能的な将来の保持者は、現在その権利を持つものではない」ということであろう。しかし、この主張を認めたとしても「ゆえに、胎児は生存権を持たないから、人工妊娠中絶は正当化可能である」という結論は出てこないだろう。これを検討する前に、加藤の話を先に聞こう。

 

加藤は、アメリカの生命倫理学者に反論している。

 この議論は間違っている。「卵が将来ニワトリになる」という文章と、「12歳のジミーが将来大統領になる」と言う文章とでは、「なる」と言う言葉の意味が全く違う。大統領はその選出手続きによってはじめて発生する状態である。12歳のジミーには「未来の大統領」の要素は何もなく、ジミーの存在をくまなく調べてもその体内から「将来の大統領」と言う要素を見出すことはできない。それに対して卵にはニワトリとなるべき命令を書き込んだDNAの中のコマンド群が存在し、その限りでは「卵はすでにニワトリである」と言える。胎児が可能的な人格であるのも同様である。したがって、12歳のジミー・カーターが三軍の統帥権を持たないからと言って、「胎児は生存権を持たない」という帰結を引き出すことはできない。

 この文章で問題なのは「その限りでは、卵はすでにニワトリである」という部分である。「その限りでは」とは、どういう意味か。恐らく正確には「鶏の有精卵は、通常、成鶏にまで成長する」という意味だろう。「胎児が可能的な人格である」というのも、「胎児は、通常、人間にまで成長する」と解することができる。しかし加藤の表現ぶりからすると、「胎児は、当初より、人間である」と考えているように思われる。

 人格と言う概念は、たしかに権利を持つ主体として共同体の中で認められた存在という意味を持つ。その意味での人格は霊魂の概念と同じくらいに古い。古代人が、仲間の死に対して埋葬と言う儀礼を営み始めたとき、既にヒトはその身体に還元されない霊的なものとして、身体の存在する次元だけの存在とはみなされていなかった。入社式initiationと言う儀式で、共同体の正式のメンバーが確定されるということも、人格概念の原型なのである。近代では、主としてカントの倫理学によって「人格の尊厳」と言う観念が強調された。「尊厳」というのは、特定の事実状態に還元することができない、無限の価値を持つことを意味する。尊厳を持つものは、他のものの代償として、それよりも価値(価格)の大きいもので置き換えることが出来ない。

 加藤のこの文章は「胎児は生存権を持たない」という生命倫理学者を批判するためのもののようだが、古代の霊魂の概念やカントの人格概念を持ち出したところで、何ら批判のための論拠になっているとは思われない。ただ単に、「人間は無限の価値を持っている」と言っているだけに聞こえる。

生命倫理学では、人工妊娠中絶、重度障害児の出生直後の安楽死(または治療停止)、いわゆる苦痛回避のための安楽死脳死者からの臓器の摘出という4つの死に直面して、人格を心理的能力と対応づけることによる生存権の範囲の縮小を図った。しかし、人格の尊厳と言う概念はもともと心理的な能力で確定できるものではない。

加藤は、「胎児は人間である。人間は無限の価値を持っている。それゆえ、胎児を殺す人工妊娠中絶は許されない」と主張しているように聞こえる。それは「ダメなものはダメ」と言っているようで、説得力がない。「生存権の範囲の縮小を図った」と言うが、「生存の意味を問い直した」、「生存の条件を総合的に考慮した」とも言えるのではないか。

 

アメリカの生命倫理学者の話に戻るが、「権利の可能的な将来の保持者は、現在その権利を持つものではない」ということから、「ゆえに、胎児は生存権を持たないから、人工妊娠中絶は正当化可能である」ということができるだろうか。この文章表現は紛らわしい。「ゆえに、胎児は生存権を持たないと考えられる。したがって、人工妊娠中絶は正当化可能である。」という意味かと思う。(「ゆえに」が「人工妊娠中絶は~」にかかっているとすると、文意がとりにくい)。

さて「胎児」は「権利の可能的な将来の保持者であり、現在その権利を持つものではない」((日本の民法は個別主義[個々の権利関係に応じて権利能力を認める]を採用しており、人が原則として権利能力をもつのは出生してからであり、まだ出生していない胎児の段階では権利能力はもたないのを原則としつつ、胎児の権利の保護を考慮して、以下の一定の場合について胎児を生まれたものとみなしてこれに権利能力を与えている。…不法行為に基づく損害賠償請求権、相続、遺贈、被認知。(Wikipedia)))としても、この権利に「生存権」を含めることはできない。例えば「胎児は、選挙権の可能的な将来の保持者であるが、現在選挙権を持つものではない」と言えるが、「胎児は、生存権の可能的な将来の保持者であるが、現在その生存権を持つものではない」というのは明らかにおかしい。だから「ゆえに、胎児は生存権を持たない」などと言うことはできない。すなわち「胎児は生存権を持たない」と言いたいのならば、別の論拠が必要である。

 

YAHOO知恵袋にあったQ&Aを読むと、早期に遺伝子診断をして、(本人了承の上)中絶すべきであったようにも思う。ここで「先天異常」についての知識を仕入れておこう。

出生時から認められる形態学的、機能的異常をいい、その原因が出生後に獲得されたものでない、いわゆる先天的な原因による疾患がすべて含まれる。すなわち、先天的な外形および内臓の形態学的異常(いわゆる奇形)をはじめ、機能異常や代謝異常のほか、異常血色素症などの分子病や染色体異常などを含む遺伝性疾患があげられ、多種多様であるが、しばしば各種の異常を合併している場合がある。

 先天異常の原因には、遺伝子異常や染色体異常などの遺伝的要因と、放射能をはじめ薬剤などの化学物質、風疹などの感染症、栄養障害や酸素欠乏などの環境要因とがあるが、多くはこの両因子の相互作用によっておこるものと考えられている。また、先天異常の治療は困難なものが多いが、フェニルケトン尿症など代謝異常のなかには早期発見によって治療の対象となるものがあり、新生児のマス・スクリーニングが実施されている。これは、血中や尿中に増加する特異的な物質を測定することによって早期発見するわけであるが、このほか、ターナー症候群などの染色体異常や先天性代謝異常などの遺伝子異常による疾患に対しては、羊水検査による胎内診断も行われている。[新井正夫](日本大百科全書

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http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-50-68/jhata109/folder/61687/85/640785/img_0

 


受精卵から人へ

 

先天異常がどれだけ発生するかについては、

人の場合、受精が成立してもそのうちかなりの数が自然流産や死産になってしまいます。とくに受精から着床までの1週間にかなり高い頻度で死亡しています。こうしたことは、奇形や染色体異常をもつ幼若な胎児(胚子)の多くが淘汰されていることを物語っており、先天的な異常をもった子どもは生まれにくくなっているわけです。それでも新生児の2~3パーセントに重い先天異常がみられ、さらに5歳になるまで2~3パーセントが新たにみつかるといわれています。

受精後3~8週間の間に主な器官(臓器)の基本構造が作られます。そこでこの時期は「器官形成期」と呼んでいます。…器官形成期は「奇形発生の臨界期」とも呼ばれます。…脳の発達にはほかの器官に比べてはるかに長い時間が必要で、したがってその間に脳の発達が何らかの原因で障害を受けると、受けた時期によって無脳症や二分脊椎などといった神経管奇形や、小頭症、知恵遅れなどいろいろな異常が生じる可能性があります

人の場合、卵子が受精した後の胚子あるいは胎児は、大部分のものが自然流産や死産などで失われています。失われる率は調べ方によってかなりのばらつきがあるもののおおよそ70%以上とみられており、その頻度は妊娠の初期ほど高く妊娠の進行とともに低くなっていきます。まず受精から着床までの1週間に、かなり高い頻度(30%)で胚子は死にます。着床後の期間でも、おおよそ30%程度の高い頻度で流産が起きています。これらの流産は妊娠と気がつかない時期での流産です。さらに妊娠が確認された後の期間において、妊婦によって自覚される流産が10%以上起きています。合計すると70%以上になります。

環境要因による先天性奇形の例としては、妊娠初期にサリドマイドを飲んだためにアザラシ肢症の子どもが生まれたというのがあります。また、アルコールによって頭や顔に異常がでる胎児性アルコール症候群や、メチル水銀による小頭症、胎児性水俣病なども環境要因によるものです。この場合、原因となったサリドマイドやアルコールなどを「催奇形因子」と呼んでいます。薬以外の催奇形因子としては、ウイルス(先天性風疹症)、放射線、胎児の機械的損傷などがあります。遺伝的要素と環境の影響がからみあってできる先天性奇形には、多指症、口唇裂、口蓋裂、先天性心臓病、無脳症、二分脊椎などがあります。これらの異常については人種による発生頻度の違いがみられます。

http://www.rea.or.jp/wakaruhon/honbun/No09honbun.pdf

 

個体の「生命」はどこから始まると考えるべきか。科学的知見からすれば、「受精」の成立時点が妥当であろう。倫理学者」が「生命」に絶対的な価値をおくならば、受精後の処置は一切認められないということになる。先天異常が発生していようとなかろうと関係がない。「もしも可能的人格(将来、人格となるヒト)に生存権があるならば、人工妊娠中絶は正当化できない」などといった主張に賛成できるだろうか。

私見では、「生命」は「人間」ではない。「生命」の尊厳を言うならば、動物の尊厳、植物の尊厳、微生物の尊厳、病原菌の尊厳を言わなければならない。病原菌の尊厳がおかしいと考えるならば、「生命」と「人間」の差異を考えなければならない。「モノ-生命-人間」と中間に位置づけられるかもしれない。

生命の「処置」を堕胎罪とか殺人罪で処罰して問題はないのか。母体保護法は、問題ないのか。優生思想と地続きの問題であること。…私はまだ結論を出していない。