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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

宇宙の中心的な謎 しかし僕にはどうだったんだろう?

ラマチャンドラン,ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(24)

今回より、最終章(第12章 火星人は赤を見るか)に入る。

来世紀[21世紀]の前半、科学は過去最大の難問にたちむかう。これまでずっと神秘主義形而上学のものだった「自己の本質は何か」という疑問に答えを出そうという試みである。私はインドに生まれたヒンドゥー教の伝統のなかで育った者として、自己という概念は一つの幻であり、マーヤーと呼ばれるベールだと教えられた。そして悟りの探求とは、このベールをはずし、自分が本当は「宇宙の一員」であると気づくことからなっているのだと。皮肉なことに私は、西洋医学の幅広い教育を受け、15年以上も神経疾患や錯視の研究を行った末に、この見地、「単一の統合された自己が脳に<宿っている>という考えは、実は幻想である」に多くの真実があることにようやく思い至った。

単一の統合された自己」という概念が幻想であるというのは、前回(多重人格障害 浮遊する自己)見た通り、比較的了解しやすい。「自己」の存在が前提されている。しかし、「自己」という概念が幻想であるというのは、その「自己」の存在が前提されない。解体されるといってよいかもしれない。「自己」を問うということは、その存在を問うということである。「私」は幻である、「あなたは幻である」という主張は、そう簡単には了解できる話ではない。

 

健常者や、脳のさまざまな部位に損傷を持つ患者を集中的に研究して学び取ったことは、すべて心をゆるがす概念を指し示している――人は自分の「実在性」を情報の断片から作り出している。人が「見る」ものは、周囲の世界に存在する事物の信頼できる表象であるが、必ずしも正確ではない。人は自分の脳の中で起こっていることの大部分にまったく気づいていない。さらに言えば、あなたの行動の大部分は意識されないたくさんのゾンビによって実行されていて、ゾンビたちはあなたの体のなかであなた(という「人」)と平和的に共存しているのだ! 私はここまでしてきた話が一助となって、自己の問題を――形而上学的な難問にしておかないで――科学的に精査すべき機が熟していると、あなたが確信してくれることを願っている。しかし多くの人は、私たちの精神生活の豊かさのすべてが――すべての思考や感性や情動、それに私たちが自分自身だと思っているものまでが――脳の中のほんの少しの原形質の活動からのみ生じるという考えに心を乱される。一体そんなことがあるのだろうか? 意識のような深い謎に包まれたものが、頭蓋骨の中の肉塊から生じるだろうか。精神と物質、幻想と現実の問題には、東洋と西洋の哲学がともに何千年も前から、大きな関心をもって取り組んできたが、永続的な意義のある成果はほとんど出てこなかった

「自己の問題を、形而上学的な難問にしておかないで、科学的に精査すべき機が熟している」…まさにその通りだと思う。「自己」や「意識」の問題を、いつまでも旧態依然たる「哲学」(形而上学)の問題にしておかない。「哲学」を趣味やアクセサリー*1にするのならばそれも良かろうが、まじめに「自己」や「意識」の問題を考えようというのであれば、脳神経科学や認知科学のアプローチにもっと注目してもよいのではないかと思う。

 

私はこうした謎を解いたなどと図々しいことを言うつもりはないが、意識を哲学的、論理的、概念的な問題として扱うのではなく、むしろ実験的に検証できる問題として扱う、新しい研究方法があるという考えは持っている。宇宙にあるものは、アリ塚もサーモスタットも合成樹脂の表面加工をしたテーブルも含めて、すべて意識を持つと信じている(汎神論者*2と呼ばれる)少数の変人を除けば、意識が脾臓や肝臓や膵臓やその他の臓器ではなく、脳に生じることに反対する人はもはやいないだろう。

「意識を哲学的、論理的、概念的な問題として扱うのではなく、むしろ実験的に検証できる問題として扱う」…意識を、言葉をひねくりまわして解明しようとするのではなく、現実の現象として、実験的に検証する! …それは、過去の偉大な哲学者に学んで得られる知見ではないだろう。

 

私はこれから、探求の範囲をさらに狭めて、意識は、脳全体ではなく、特別な様式の計算をする、特殊化した神経回路から生じるという提言をする。そして、…認知心理学や神経学の多数の例を引きながら、これらの回路とその特別な計算の性質を例示する。それらの例は、いきいきとした主観的な意識の性質を体現しているこの回路が、おもに側頭葉の部位(偏桃体、中隔、視床下部、島など)前頭葉の単一の投射区域(帯状回に存在することを示すだろう。そしてこれらの構造の活動は、私が「クオリアの3法則」と呼んでいる、3つの重要な規準を満たさなくてはならない(「クオリア」とは、「痛み」「赤」「トリュフ添えのニョッキ」といった主観的性質を感じる生[なま]の感覚のことである)。そしてこの3つの法則とそれを体現する特殊化した組織の正体を突き止めるという目標を追うあいだに、それが刺激剤となって、意識の生理学的な起源をたどる探求が始まる。

クオリアの3法則」とは何か。後で説明があるだろう。

宇宙の中心的な謎は、私に言わせてもらえば以下のことである。

なぜ森羅万象の記述は、つねに2つ

  • 一人称の記述:「私は赤を見ている」
  • 三人称の記述:「彼は、彼の脳のある経路が600ナノメートルの波長に遭遇したとき、赤を見ているという」

が並列しているのだろうか。

いったいどうして2つの記述が全く異なり、しかも相補的になるのだろう。物理学者や神経科学者の客観的な世界観に従えば、三人称の記述だけが実在であるが(この見解をとる科学者は行動主義者と呼ばれる)、なぜこれが唯一の存在ではないのか。実際、「客観科学」の体系では、一人称の記述が必要になることはない――つまり意識は存在しないことになる。しかしこれが正しくないことは誰もがよく承知している。行動主義者をあてこすったおなじみの警句を思い出す。行動主義者は恋人と情熱的に愛し合った後で、彼女を観察して言う。「君が良かったのは明らかだね。しかし僕にはどうだったんだろう?」。一人称と三人称の森羅万象の記述(「私」の観点と「彼」あるいは「それ」の観点)を調和させる必要性は、科学の最重要の未解決問題である。インドの神秘家や賢者は言う。この障壁をとりのぞけば、自己と非自己の隔たりが幻想であることがわかる――あなたは宇宙と一つなのだ。

「一人称の記述」とは「精神(意識)の記述」、「三人称の記述」とは「物質の記述」といっても良いのではないか。だとすると、ラマチャンドランは「精神と物質」の並列が、「宇宙の中心的な謎」と言っている。「精神と物質の関係」が、科学の最重要な未解決問題であると言っている。神秘家や賢者(哲学者)は、解答を出したつもりかもしれないが、それは「永続的な意義のある成果」であるとは認められない。

行動主義者をあてこすった警句は面白い。パーティで使えそうだ。「僕には良かったかどうか分らないんだよ」

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ラマチャンドランのクオリア論は期待して良いかな?

 

*1:アクセサリーにするためには、おもいっきり難解でなくてはならない。それは決して大衆化すべきではないのだが、大衆社会のなかのアクセサリーであるためには、解説書でほんの少しわかった気分にさせて、それがかぐわしいものであることをアピールしなければならないだろう

*2:汎神論は、「存在するものの総体(世界・宇宙・自然)は一に帰着し、かつこの一者は神であるとする思想をいう。…有神論のように世界の外にある神と被造的世界との絶対的対立を認めず、すべてのものは神の現象であり、あるいは神を内に含むとする点で、創造以後は神は被造物に干渉しないとする理神論と異なる。…西欧近世以降のブルーノ、スピノザドイツ観念論とその周辺の思想家たちの汎神論的思想は、宗教の非合理性を排して、近代自然科学と調和させようという意図で築かれたものである。[藤澤賢一郎]」(日本大百科全書)とあるように、知的アクセサリーとしては、極めて高価なものの部類に入るようだ。