読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

所有論(2) 赤の世界

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(2)

今回は、「第1章 所有の自明性のワナから抜け出す 第2節 どこまでが自分のものか」である。

形の上では「対談」だが、ここまでのところ、全く「対話」がないように思う。

稲葉は何を言いたいのかよくわからないが、立岩の話は面白い。

稲葉 世界は自分だけでできていなくて、「ほかのもの」がいる。その「もの」には、「者」と「物」がある。…「ほかのもの」の中には、人間とそうでないものがいる、あるいは生き物とそうでないものがいる。人間以外の生き物がいて、さらに言えば、生き物以外の「もの」がいっぱいいる。

世界がそのようにできている以上、ちょっとこれは飛躍するが、所有という仕組みは人間にとって不可避である。所有というのは、人と人の関係であるし、また人とものとの関係であり、ものを介しての人と人との関係でもある。そのような有り様から我々は逃れられない。…人とものとを区別しなければならないとしたら、所有という問題から逃げられない。現実問題として所有という枠組みなしに人間社会を運営していくことは不可能だろう。

 稲葉自身が言っている通り「飛躍」があって、なぜ「所有という仕組みは人間にとって不可避である」のか分らない。なぜ「人とものとを区別しなければならないとしたら、所有という問題から逃げられない」のか分らない。

 

稲葉 人とものとをどう区別するかは重要な問題だが、今回は、人とものとの区別をしたうえでの議論に絞る。財産やものといった所有される対象をどう理解するかというと、二つの捉え方がある。一つは、人が何かを持つことが出来るのはなぜか、それはそのものが自分ではないからだ、自分以外の何かであるからこそ、人はそれを自分のものにできる[持つことができる]という考え方。

ロック、ノージック、森村ラインは、自分の身体を働かせて、自分の支配下においたものは、自分のものになると考える。所有されたものは、自分の身体の延長として理解されていく。世界は根本的に自分と一体化するということは現実的にありえないが、原理的にそれはありうると考えるタイプの形而上学である。これが私のものであるというのは、これは私の身体の延長だからという考え方である。

ロックらは、「自分の身体を働かせて、自分の支配下においたものは、自分のものになると考える」そうだが、何故そのように考えるのか、これだけの話ではさっぱりわからない。「自分の身体の延長」と理解するそうだが、言葉の遊び、言葉による幻惑以上の何があるのだろうか。

稲葉 財産とは自分の一部だという考え方と、そもそも財産は自分じゃない何か別のもの、自分と関係を持つほかのもの、いわゆる「他者」じゃないけど、でも自分じゃないほかのものである。

「自己=身体」という自明性をとりあえず疑わないところで、さらに身体をモデルにしてほかのものについて財産を考えるタイプの議論がありうると同時に、そうではなくて逆に自分ではないということが明らかであるほかのものをモデルに財産ということを考えて、その延長線上で、ことによると自分の思い通りにならないようなものとして身体というものを考えるタイプの議論。この二通りの議論が、少なくとも全く同等の権利をもって存在論的にありうるし、そのどちらにより重心をおくかによって、全く異なったタイプの正当化の議論というか、規範理論が出てくる。

このような目で、あえてロック的な議論を対比の上で見てみると、常識的に考えるよりもロック的な伝統というのはずっと面白くなる。ずっと化け物じみたものになる。ロック的な議論というのは、ふつう私的所有とか市場経済の自明性の上に安住しているつまんない議論だと思われると思うが、こういうふうに変形するととても面白くなる。

稲葉の話は難しくてよく分らない。「自己」、「身体」、「所有」がどういう関連にあると考えているのか分らない。

 

立岩 アニミズム的。自分がさわったものがみんな自分になる。自分が手をつけたら俺のもん、みたいな話。「主-従」みたいな、自分が偉くって自分がコントロールしたことによってコントロールされたものが自分の配下に属するという、そういう仕掛けの話でもありつつ、伝染したものが自分になっていくみたいなニュアンスといったらいいか、そういう契機があって、両方あるって感じはしないことはない。

史実としてどうか知らないが、私有(排他的支配)の本質的部分を軽妙に言い当てているような気がする。ジャイアンの世界である。「お前のもの? ん? 俺がさわったのだから、俺のものなんだよ。俺が目をつけたんだから、俺のもんだ。文句あるなら、かかってこい。」

 

立岩 お前そんなに世界が制覇できて面白いか。世界が全部自分の色になったら、俺なんか気持ち悪くってそんなところに住んでるのはいやだ。赤い人がいると伝染して世界がみんな真っ赤になる。真っ赤になったときに、その赤い人はその世界がよいと思うかというと、結構たくさんの人が、そんなのは一番いやだと思うんじゃないか。

f:id:shoyo3:20160714165004j:plain

http://magicspaceillustration.com/wp-content/uploads/2013/02/ola-gustafsson-illustration-Red-world.jpg

 

立岩は、「たくさんの人が、そんな赤の世界はいやだと思うんじゃないか」と言っているが、果たしてどうか。私は、「たくさんの人が、世界を制覇しようと思っている(赤の世界を目論んでいる)」のではないか」と思っている。しかしそれは、そのような「赤一色の世界」を想像できないからかもしれない。

 

立岩 そうでないかたちの所有とか分配のあり方がある。というか、別のものがよいという価値観みたいなもの、価値とか快楽とか感覚とか…そういうものがあるんだろう。

そういうものを指し示す必要があるのかもしれない。所有とか分配とか、そこにとどまっていては、何か大事なものを見落としてしまうかもしれない。

 

立岩 どこかで自分から切り離すことのできない、切り離そうとしないものが、その人のもとに置かれる。そうでないものについてはその人は特権的な権利を主張しえない。特権を主張しえないものについては、必要に応じてとか、配分、分配がなされるのがよいという話になってくる。

「自分から切り離すことのできない、切り離そうとしないもの」…それは何か? 私はそれは「私の<身体>」だけだろうという気がしているが、詳細はまだ考えていない。ここでは、「自分から切り離すことのできるものについては、特権的な権利を主張しえない。」という立岩の主張に賛同しておきたい。但し、「特権的な権利を主張しうる」という根拠が示されれば再考しよう。

 

立岩 近代における所有権は、単に財が個々人に配分されるというだけではなく、いくつかの特徴を持っている。総じて強い権利であり排他的な権利である。焼こうが煮ようが捨てようが、何しようがその人の勝手であるという権利

「財の所有」に関しては、「何しようがその人の勝手」であるようだ。アパートの一室で、インスタント・ラーメンをすすっているのと同時刻に、ホテルのディナーで豪華なコース料理のかなりの部分が残され捨てられる。他人がいくら「もったいない」と思おうが、この現実は、しっかりと近代の「所有権」で守られている。

 

立岩 まったくの共有みたいな社会と、そうでないわれわれの社会というふうに図式を立てると、過去にあったとされる「原始共産制」みたいなものが、まさにわれわれの社会を反転させただけのファンタジックなというか、ありそうにないもののように見えてくる。…実際には、「即自的」な共同性というよりは、かなり自覚的で複雑で繊細な仕組みがあったりする。そしてその上で、そこにある原理は、あらかじめ賞賛されるものとして設えられるような単純なものではないけれども、しかし私たちの社会とは異なる。それを自覚的に、工夫して、維持している。…比べて、われわれの社会の所有権は単純なんです。完全に分割してしまうんですから。ある意味シンプルっていえばシンプルである。

このシンプルさに我慢できずに、これを反転させて「原始共産制」を夢想したところで、同じようなシンプルさゆえに、これまた我慢できないだろう。自覚的に、「複雑で、繊細な仕組み」が要請されると思うのだが、それがどのようなものであるかは、いまここに示すことはできない。

それより複雑な、微妙だけれども決まりがないわけではないというような、優先権が微妙に決まっていたりとか。…成文化されていない決まりを含め、例えば、使っていいけれど処分しちゃいけないとか、どの位使っていいとか、微妙な決まりがあったりする。そしてすごくルースな、そこのところには決まりが空白であるような部分もまたあったりする。

ジャイアン的なシンプルさを前提に、「箸の上げ下げ」まで法(規則)を制定したところで、それでうまくいくというものでもないだろう。前提に関する「複雑で、繊細な仕組み」が要請されるとともに、他方で「ルースな決まり」が必要と思われる。

 

稲葉 所有権とか金融(デリバティブ)とか不動産(証券化)に関わる非常にややこしい法技術というものを考えてみると、「所有」なんて雑駁な言葉で語るのが恥ずかしくなるような事態が、現在のわれわれの世界でもますます展開している。でも、それと同じくらい、あるいはそれ以上に複雑な社会は過去にまたある。そのへんのデリケートなことは見ていけばいくらでも面白い話が出てくる。ところが所有に関する形而上学とか哲学をやる方は、今日のデリバティブなんかのことは知らないし、知らなくていいと思っている。…しかしそういう歴史や実務のことについても「お勉強」くらいはしておかないと、「所有」というものの自明性のワナにはまる。かといって、プロの歴史家じゃない人間が本気で勉強もできないが、でも山形浩生ふうに言えば「真面目に付け焼刃」はしておかなきゃならない。どういうかたちでそういう法制史的な研究とか今日の先端的な金融工学の議論を自分たちの問題関心につなげるか。いやおうなく、関係はあるのだが、そこをつなげるやり方がなかなかわからない。

「今日の先端的な金融工学の議論」を「真面目に付け焼刃」したら、所有権の基礎的な部分(価値公理)にまで迫れるのだろうか。それは「所有に関する形而上学とか哲学」なのだろうか。ジャイアンの世界にすぎないようにも思えるのだが…。

(価値公理:事実認識と価値評価(1) 「格差が拡大している。是正策を打つべきである」と主張してはいけないのか? 参照)

 

立岩 ぼくが今まで書いてきた話は、ばかみたいに単純な話で、自作農が点在しているみたいな、いや、点在してる分には何も起こらないのか、とにかく一人がやってることが透明な状態で、自分が作ったということが分かる。だけど実際には協働があって、複数の人が、組織の中で、働く。そういったときに組織の中での分配の問題とか、誰が何したことになってるの、という貢献の問題とか、そういうことを考えたい。

所有の「基礎理論」がどういうものか明らかになっていない現時点では、これにはコメントできない。