気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

価値相対主義(1) 学者は「正義」を主張してはならない?

平野・亀本・服部『法哲学』(17) 

これまで「亀本」氏を、「亀田」氏と誤記していたところが多数ありました。お詫びして訂正いたします。

 

今回から「価値相対主義」の話に入るが、その前に、取り残した「社会的正義」について、簡単にみておこう。

社会的正義

現代の正義論においては、社会的正義概念が何に関するものかについては広範な一致がある。それは、社会における権利・義務の配分、あるいは所得・富の分配にかかわる概念である。その限りで、現代の社会的正義の理論においては、配分ないし分配の正義が問題になっていると考えてよい。

何が正義にかなった配分ないし分配であるかは、まさに現代正義論で争われているものであり、社会的正義の概念を、その実質的内容に関して、ここで明確に定義することはできない。

但し、「社会的正義」という用語を使用する正義論は一般に、自由よりも平等を重視する傾向がある。というのは、個人の自由を徹底的に重視する場合、政府や国家が対処すべき問題として、「社会的」正義を考える必要がなくなるからである。

社会的正義の指導的理念が平等である場合、社会的正義論の重要な課題は、人々の間の実質的な不平等を是正するために形式的に不平等な取り扱いをして良いのは、あるいはすべきであるのは、どのような場合であり、またそれはなぜかを明らかにすることにある。

ここに「社会的正義論」が何を問題にしているのかが「おぼろげに」示されている通り、広範な射程をもつものであり、とてもここで簡潔に議論できるようなものではない。本書では「価値相対主義」の後に論じられる。

 

価値相対主義

本章は「正義」について論じる。しかし、何を「正義」と考えるかは人によって異なる。なぜ異なるのかと言えば、人によって「価値観」が異なるからである。価値は主観的なものである。

価値判断が主観的なものであり、それが人によって異なる場合に、どれが正しいかを決める判定基準がない、とされるところでは、価値判断にかかわる問題について学問が成立しないとされるのは当然であろう。

間違わないでおこう。「価値判断が主観的なものであり、それが人によって異なる場合に、どれが正しいかを決める判定基準がない」とされないところでは、「価値判断にかかわる問題について学問が成立しない」とされるわけではない。…価値判断は主観的なものであるか? 主観的なものであったとしても、どれが正しいかを決める判定基準はない、と言い切れるかどうか? という問いはたてることができるだろう。

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価値相対主義とは、価値または価値判断は、判断する個人に相対的であって、どの価値判断が正しいかを、真理の問題として学問的に議論することはできない、という主張である。

  1. 価値判断という用語は、「~べし」「正しい」「よい」といった述語を伴う当為判断や規範的判断についてだけでなく、「美しい」「醜い」といった美的判断、「うまい」「まずい」といった味覚判断などについても使用される。だが、以下では、理や法に関わる当為判断・規範的判断に限定したい。
  2. 価値判断が文化や社会に応じて異なると考えれば、価値に関する文化相対主義や社会相対主義が成立するが、以下では、価値に関する個人相対主義のみを採りあげる。
  3. 価値相対主義は、価値判断の真偽を学問的に議論することが無意味であると主張するだけで、学問以外の場で価値判断をめぐる議論が無意味であると(有意味であるとも)主張するものではない。

価値相対主義は、「価値判断の真偽を、学問的に議論することが無意味である」と主張する。これは問題含みの主張である。本当に「無意味」なのか? これは「学問」とはどういうものであるかとの問いにも関連する。しかし、先走りしないで、まずは亀本の話を聞いていこう。

実証主義的学問観とは、学問の対象を経験的に知覚可能な事実に限定し、実験または観察によって真偽を確かめられないような理論は学問すなわち科学の資格なしとするものである。この基準によれば、倫理学や法学など価値に関係する学問のほとんどは科学の範囲から放逐されてしまう。

これでは、「倫理学や法学など価値に関係する学問」の学者は、当然に反発するだろう。

ただし、彼らは、実証主義に基づく自然科学や社会科学が学問であることを否定したわけでも、規範的理論の真偽が実験や観察によって確かめられることを主張したわけではない。価値理論が究極的に主観的であることを認めたうえで、実証科学と並ぶ、しかしこれとは区別される学問が、価値や規範に関わる分野でも可能であることを主張したにすぎない。

彼らによれば、自然科学は事実の因果関係の探求を目的とする。これに対して、価値や規範に関わる学問は、人間の行為の「意味」、とりわけ価値的または規範的意味を探求の対象とする。人間の行為は、単なる物と同様、因果連関の世界に属すると同時に、その行為に意味や評価を与える文化的または規範的な世界にも属している。そうであるなら、そのような人間の有意味な行為について、自然科学とは別種の学問が可能である。

研究対象や研究目的が異なれば、研究方法は異なるだろう。人間は価値や規範に関わる。「意味」の世界に生きている。それらを対象とするなら、「実験または観察」のみの知見で良いなどとはならない。

しかし、(私は「実証主義者」の主張をまともに聞いたことがないので、想像で言うのだが)実証主義者の批判は、「すべては神の思し召し」とか、「ドイツ人ならば、ユダヤ人を排斥しなければならない」とか、「正義のためなら、人を殺しても良い(空爆など)」とか、「国旗・国家法に基づき、卒業式には日章旗掲揚や君が代斉唱すべきである」などと、学問の名において主張すべきではない、ということにもなるので、これをどう考えるのかが焦点になるのではないかと考える。そうだとすると、「実験・観察」や「目的」云々は、ピント外れの議論ではないかと言う気がする。

なお、ここに「彼ら」と書いたのは、新カント派の学者たちである。先入観を持たないように、「彼ら」と表記した。新カント派とは、

19世紀後半以降第1次世界大戦の時期にかけてドイツを中心として栄えた哲学上の学派で,カントの哲学を観念論の方向に徹底したうえで復興させることによって,当時盛んであった自然科学的唯物論実証主義に対抗しようとしたものである。(世界大百科事典

 

ところで、価値に関するどのような学問が可能かについては、大きく2つの考え方があったという。

  1. ある究極の価値を採用するとした場合、他の様々な下位レベルの価値判断がそれと一致するかどうかを探求することは学問として可能である。それを価値関係的学問と言う。たとえば、ウェーバープロテスタントの倫理と資本主義の精神がどのような関係にあるかを探求することは、価値関係的な学問の方法に基づくものである。…また教義学的法律学についても、ある上位の法教義をとる場合に、下位の法命題や解釈がそれと整合するかどうかを確かめる営為は学問として成立するであろう。
  2. 事実と価値、あるいは存在と当為を峻別する方法二元論の立場に立ち、客観的当為としての規範を真理や正当性の観点からではなく、妥当性の観点からのみ考察しようとするもの。妥当性は、法規範が法的に有効であり、法的な効力を持つということしか意味しない。従って、どのような内容の法も妥当な法でありうるということになる。

上でとりあげた2つの立場のいずれをとるにせよ、新カント派的な価値相対主義は、価値が主観的であり、究極の価値判断自体の正邪について学問的に論じることができないことを率直に認めるものであった。

亀本のこの文章は難しい。

第1の「価値判断」に関しては、事実認識と価値評価(1) 「格差が拡大している。是正策を打つべきである」と主張してはいけないのか? で、検討し、ウェーバーの考え方も紹介しているので、参照願いたい。

第2の考え方は、ケルゼンの「純粋法学」によるものであるという。亀本は次のように説明している。

純粋法学の実際の内容は、「客観的当為」という規範の定義から出発して、権利や義務、責任など、法的な基礎概念を説明すること、さらに規範体系が授権規範と授権された機関による規範定立の連鎖によって成立することを説明することからなっている。法体系の頂点にくる規範は、「根本規範」と呼ばれるが、それは価値的な内容をもっておらず、どのような内容の下位規範とも両立する。そもそも規範の定義である「客観的当為」とは、価値判断が主観的であることを当然の前提とした上で、当該当為判断が先行する規範に則って出されたものであることを意味するにすぎない。

簡潔な説明ではあるが、これでケルゼンの「純粋法学」をどれだけ理解できるだろうか。「客観的当為という規範の定義から出発して…」と書いているが、客観的当為???である。「根本規範は価値的な内容をもっておらず…」と書いているが、価値的な内容を持たない根本規範とは何だろうか? そのような価値判断抜きの根本規範から、果たして、規範の体系が樹立できるものなのだろうか? ケルゼンを読めということかもしれないが、これでは読む気にならない。

 

純粋法学について、wikipediaと長尾による説明をみておこう。

純粋法学の目的は、法を、社会学的・心理学的・倫理学的・政治学的方法の混入から切り離すことにあった。純粋法学は、「である」と「べき」、すなわち事実と規範の領域を区別することを要請する。(wikipedia

ハンス・ケルゼン(1881-1973)が主唱し、アドルフ・メルクル、アルフレート・フェアドロスなどの学者が継承、発展させた法学上の学派。ウィーン法学派ともいう。法規範を、社会学的事実や政治的要請とは独立した認識の体系としてとらえようとする主張で、そこから次のような主張が導き出された。

(1)「法強制説」(法は強制発動の条件を定める規範として、他の規範から区別される)

(2)「法段階説」

(3)「国際法優位説」(国際法は国内法より上位の法体系である)

(4)「主権否認説」(上位に権威をもたない主権という性質を国家が有しているという理論は誤りである)

(5)「国家法秩序同一性説」(国家とは法秩序を擬人化したもので、実は両者は同一である)

(6)「枠の理論」(法とは多様な解釈を容(い)れるものであり、法の通用、執行、解釈などとよばれる作業は、枠内の一つの可能性を選択する行為である)

(7)「根本規範論」(法規範体系の究極的根拠は仮説的根本規範である)

(8)「法実証主義」(自然法は認識不可能で、自分の主張を絶対化するためのイデオロギーである)、などである。

ケルゼンの亡命とともにその影響力は拡散されたが、現在でも法哲学、公法、国際法などの学界に追随者をもち、論議の対象となっている。

法段階説とは、ハンス・ケルゼン、アドルフ・メルケルによって説かれた法秩序の構造に関する理論。法秩序は、上位規範が一定の枠内での適用・執行を下位規範に授権する段階的構造をもっており、頂点には根本規範が、底辺には具体的執行行為があるという説。[長尾龍一](日本大百科全書)*1

純粋法学は、「法を、社会学的・心理学的・倫理学的・政治学的方法の混入から切り離すこと」、「法規範を、社会学的事実や政治的要請とは独立した認識の体系として捉えること」を意図していた(「純粋」の意味はそういうことである)、というのは何となく分る気がする。現代の法規範は、社会学的事実や政治的要請とどういう関係にあるべきか? という問いをたてるならば、ケルゼンの論考は示唆を与えるものであるかもしれない。

長尾がケルゼンの主張としてまとめている8つの主張は、興味深い。…特に、主権否認説、国家法秩序同一性説、根本規範論において、どういう主張をしているのだろうか。

 

*1:仮説定根本規範→仮説的根本規範、主説→主張 に置き換えた。