浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

クオリアとは何か? クオリア問題とは? 翻訳とは?

ラマチャンドラン,ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(25)

クオリアとは何か?

「痛み」「赤」「トリュフ添えのニョッキ」といった主観的性質を感じる生[なま]の感覚のことである。

これを簡潔に「主観的感覚」とよぶ。私はこれを<私の感覚>と理解しておきたい。

 

クオリアをこのように理解したとして、何が問題なのか?

いったいどうして微小なゼリー(私の脳のニューロン)のなかのイオンの流れや電流が、赤いとか、温かいとか、冷たいとか、痛いとかいう主観的世界の感覚[クオリア]を生み出せるのだろうか? どんな魔法で、物質が目に見えない感性や感覚の織物に変わるのだろう。あまりにも不可解な問題なので、これが問題であるのを認めない人もいるくらいだ。このいわゆるクオリア問題を、哲学者が好んで組み立てそうな二つの簡単な思考実験*1で説明してみたいと思う。

クオリア問題とは、「物質(イオンの流れや電流)が、目に見えない感覚を生み出す(変化する)のは何故か?」という問いである。ここで感覚という言葉は、目に見えず・非物質的で・精神的なものという意味で使われている。(とするなら、精神とか意識という言葉に置き換えても良いように思うが、感覚というほうが、より具体的でわかりやすい気がする)。そうすると、クオリア問題とは、「いかにして、物質が感覚(意識、精神)を生み出す(変化する)のか?」という問いであると考えて良いだろう。

 

ラマチャンドランの二つ目の思考実験は、次の通り。

二つ目の例としては、アマゾンの電気ナマズを想定しよう。この電気ナマズは非常に知能が高く、あなたや私と同じくらい知的で洗練されている。その上私たちにないものを持っている――皮膚の特殊な器官を使って電場を感知する能力である。…あなたはこの魚の神経生理を調べて、体の横にある発電器官が電流を変換する仕組みや、この情報が脳に伝達される仕組み、この情報を分析する脳の部位、この情報を使って捕食者から逃れたり獲物を見つけたりする仕組み、などなどを理解することができる。しかしこの魚がしゃべれたら、きっとこう言うだろう。「結構でしょう。しかし電気を感知するというのがどんな感じがするものか、あなたには決してわかりません」

余談だが、ナマズと言えば、近畿大学が開発した「ウナギ味のナマズ」が話題ですね。昨年、銀座にも進出したとか(http://withnews.jp/article/f0150710001qq000000000000000W01z0801qq000012238A)。ナマズは白身魚で、天ぷら・たたき・蒲焼き・刺身などにして食べられるそうで、しゃれた名前にすれば、ウナギの代替として大ヒットするでしょうね。…電気ナマズを料理にしたらどうだろう。しびれるようにうまいかもしれない。

 

一つ目の思考実験は、次のようなものである。…色覚障害のある科学者が、波長処理の法則を完璧に理解し、私がリンゴやオレンジやレモンの色を描写するのにどの単語を使うか、前もって言うことができる。

彼は、フローチャートを見せながら言う。「ラマチャンドラン、これがあなたの脳の中で起こっていることですよ」。しかし私は異議を唱えるに違いない。「確かに脳の中はそうなっているんでしょう。しかし私はそれと同時に赤い色を見るんですよ。このチャートのどこに赤があるんですか?」。「それはどんなものなんですか?」と彼は聞く。「言葉で表現できない現実の色の体験の一部で、どんなものかをあなたに伝えることはできません。あなたが全色盲だからです」

 

この思考実験から、ラマチャンドランは次のように言う。

これらの例は、なぜクオリアが本質的に個人的なものと考えられているのかをはっきりと示している。また、クオリア問題が必ずしも科学の問題ではない理由も説明している。あなた[科学者]の科学的な記述が完全だったことを思い出そう。[しかし]あなた[科学者]がした記述は認識論的に不完全なのであり、それは電場や赤を感じるとはどんなことかが、あなた[科学者]には決してわからないからだ。それは永遠に「三人称」の記述なのだ。

三人称の記述とは、前回出てきた。

  • 一人称の記述:「私は赤を見ている」
  • 三人称の記述:「彼は、彼の脳のある経路が600ナノメートルの波長に遭遇したとき、赤を見ているという」

三人称の記述は、感覚を記述していない。

 

哲学者は何世紀も前から、脳と心のこの隔たりを認識論的な大問題――超えられない障壁――とみなしてきた。しかし本当にそうだろうか。障壁がまだ超えられていないことは認めるが、だから絶対に超えられないと言えるだろうか? 私は、実はそんな障壁はない、心と物、精神と物質のあいだには高くそびえる分水嶺など全くないと論じたい。もっとはっきり言えば、私は、この障壁は単なる見かけであり、言語の結果として生じるだけだと考えている。この種の障害は、一つの言語を別の言語に翻訳するときに必ず生じる。

ラマチャンドランは「心と物、精神と物質のあいだには高くそびえる分水嶺など全くない。この障壁は単なる見かけであり、言語の結果として生じるだけだ」と言う。本当か?

 

この考えを脳や意識の研究に適用するとどうなるだろうか。私は、いま私たちが問題にしているものは、互いに理解できない二つの言語ではないかと思う。一つは神経インパルス――私たちが赤を見ることを可能にしている神経活動の空間的・時間的パターン――という言語である。二つ目の言語は、私たちが何を見ているかをほかの人に伝えることを可能にする言語、すなわち英語やドイツ語や日本語といった普通の話し言葉――あなたと聞き手の間を伝わる疎と密の空気の波――である。両方とも、厳密な専門的意味において言語である。すなわち、意味を伝達するための情報の豊富なメッセージであり、片方は脳のさまざまな部位のシナプスを通り、もう片方は二人の人間のあいだの空気を通る。

神経インパルスは、「厳密な専門的意味において言語である」、「意味を伝達するための情報の豊富なメッセージ」と言うが、果たしてどうか。話し言葉は、自己(人)と他者(人)とのコミュニケーションの媒介となる。しかし、神経インパルスは、自己(人)とモノ(物、者)とのコミュニケーションの媒介となるのではないか。

 

問題は、私はあなたに、つまり色盲の大科学者に、私のクオリア(赤を見るという体験)のことを告げるのに、話し言葉を使うしかないということだ。言葉で表現できない「体験」そのものは翻訳の時に失われてしまう。赤の実際の「赤さ」は永久にあなたに届かないままだ。

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http://efdreams.com/data_images/dreams/red/red-05.jpg

 

言葉で表現できない「体験」を、言葉に翻訳する。この画像を見たときの「感覚」をどう表現するか。「色」だけに限定したとしても、その人の記憶-全歴史を背景にして「色の感覚」が生じていることは、容易に想像できよう。さらに言えば、その人の全歴史のなかには、他者・他物とのコミュニケーションがあり、…ということは全世界の全歴史を背景にしているということである。それを単純な「言葉」や「文」に言語化(翻訳)することは、「感覚」、「体験」を失うことを意味しよう。

 

だがもし私が、コミュニケーションの媒体としての話し言葉を省略し、私の脳の中の色を処理する領域と、あなた[先の色盲の大科学者]の脳の色を処理する領域を、神経線維(これは組織培養をするか、別の人からとってくる)で直接つないだらどうなるだろうか。(あなたの眼は色の受容体がないので、波長を識別することができないが、脳は色を見る機構を持っている)。神経線維は色の情報を、私の脳からあなたの脳のニューロンに、翻訳を介することなく直接にとどける。これはありそうもないシナリオだが、理論的に不可能なところはない。

さきに私が「赤」と言ったとき、あなたがさっぱり意味をつかめなかったのは、「赤」という単語を使うこと自体が翻訳だったからだ。しかし翻訳を飛ばして神経線維を使えば、神経インパルスそのものがじかに色の領域に届くので、恐らくあなたは「これは驚いた。あなたの言っている意味がよくわかった。初めての素晴らしい体験だ」と言うだろう。

このシナリオは、クオリアを理解するには超えられない壁があるという、哲学者の議論を打破する。原理的には、あなたは他の生き物のクオリアを体験することが出来る。電気ナマズクオリアでもだ。

ここで要になる考えは、クオリア問題は心と体の問題に特有ではないということだ。どんな翻訳にでも生じる問題と、種類において全く違わない。従って、クオリアの世界と物質の世界のあいだに分水嶺を引っ張り出してくる必要は全くない。一つの世界に翻訳の障壁が多数あるだけなのだ。翻訳の障壁を乗り越えられれば問題は消滅する

翻訳しないで、神経線維を直接つなぐアイデアはおもしろい。ラマチャンドランは、翻訳しないで、神経線維を直接つないだら、同じ感覚を持つことができるような言い方をしている。しかし、私の脳の中の色を処理する領域とあなたの脳の色を処理する領域を直接つないだら、「同じ感覚」をもつことができるのだろうか。私には決してそうは思えない。「色の感覚」といっても決して単純なものとは思えない。全世界の全歴史が影響している。ただ、これは極端すぎる言い方かもしれない。これは程度問題であって、「ほぼ同じ感覚」と言っておけば、ラマチャンドランの主張は妥当かもしれない。

だが、これでクオリア問題は解決したのだろうか。クオリア問題とは、「いかにして、物質が感覚(意識、精神)を生み出す(変化する)のか?」という問題であった。上述の説明は、物質の説明をしているだけで、「感覚(意識、精神)」の説明をしていないのではないか。神経線維をつなごうが、つなぐまいが、「感覚(意識、精神)」はあるだろう。翻訳以前の状態に戻したところで、物質から感覚の生成を説明していることにならないのではないか。

もう少し読み進めないと、なんとも言えない。

 

(付記)

ラマチャンドランは、思考実験には、論点先取の前提が隠れていることが多いと言っていた。では上記の二つの思考実験においては、どのような論点先取りがあるのか。私には、二つの実験とも、神経生理学的な事実の解明を意図したものであって、「感覚」を解明しようとする実験ではないと思われる。従って「感覚」が解明されないのは当然である。…違うかな?

 

*1:ラマチャンドランは、思考実験は、論点先取の前提が隠れていることが多いので、非常に誤解を招きやすいという。論点先取とは「証明すべき命題が暗黙または明示的に前提の1つとして使われるという誤謬の一種」(wikipedia)である。思考実験が出てきたら、証明すべき命題が暗黙または明示的に前提の1つとして使われていないか、とチェックする必要がある。しかし、ここでは論点を明確にするのに役立つので、クオリア問題をわかりやすく紹介するために思考実験を使うとしている。