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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

市場万能論(1) 取引しなきゃ死んじゃうよ

読書ノート 私たち

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(3)

今回は、「第2章 市場万能論のウソを見抜く 第1節 市場のロジックを検証する」である。(引用は、文意を損なわない程度に、若干変形したところがある)

最初に、市場における取引の話があり、

稲葉 譲渡できるものと譲渡できないもの、譲渡した方がいいものとしない方がいいものがある。…「譲れない」というのは、売れないこと、あげられないことなのか、あるいは貸せないことまで含むのか。「ちょっと使わせて」もダメよ、ということまで含むのか。…人格の尊厳だとか、生存のために侵してはよくない、いわば人権のレベルに属するものとしてあるものというのは、売っちゃいけないものの領域なのか、それとも貸しちゃいけないものの領域まで踏み込んで考えるのか。そのへんのことが突き詰めないといけない問題としてある。

 稲葉はこう言っており、取引してはいけないものの話は面白いのだが、突っ込んだ話がないようなので省略する。

 

稲葉 他人がいるということ、他者と共存するということは邪魔でもあると同時に、幸運でもある。それがせめぎあい、相手と私の間に境界線が引かれると、こっち側は私のもの、そっち側はあんたのものとなり、相手が邪魔になるけれど、邪魔だから殲滅する、征服する対象になるわけではない。で、相手がいてくれるということは一面幸せなんだけれど、だからといって相手に飲み込まれていいと思っているわけじゃなくて、飲み込まれたら幸せを感じる私も消えるということで、そこで線を引くと。そういうかたちで所有を社会的な枠組みとして私たちはお互いに線を引きあうと、『私的所有論』はそんなような話なんだなと考えている。それは言ってみれば、ぼくの解釈ではすごくネガティヴィズム、保守的な、控えめな議論として受け止められる。たとえ相手がいいと言っていても、うっかり手出しをするなとか、自分自身に対してさえそうふるまえ、自己の身体もある意味他者だから、あんまり身体をいじめるものじゃないよとかね、…そういう本として読める。

稲葉は、立岩の『私的所有論』を、保守的な・控えめな議論として読んでいるが、それが正しいかどうかわからない。

 

稲葉 この理屈が所有の話にとどまる限り、「ゆめゆめ手出しはすまいぞ」とか、「乱暴に扱うものじゃありませんよ」という控えめな議論は、たいへんうまくいくんですが、問題は所有から先の、市場がまさに典型であるような、取引の話をし始めると、『私的所有論』を貫く精神をうまく延長していくのは結構難しい。

「オレがオレが」の契機によって市場は動かされていると同時に、取引って相手のあることだから、相手を踏みにじったら取引にならないということで、両方の契機が働いていることには間違いない。立岩さんのように「所有」をまずは「他者による所有」として理解しようというロジックならば、まさにもってるものの境界線というのはスタティック(静的)なものとして理解した方がいい。だけど、市場っていうのはダイナミック(動的)な取引の場である。市場に限らず、取引っていうのはダイナミックなものなので、ダイナミックな領域においては、「オレがオレが」のロジックの方がわかりやすい。…(これは)市場における「べき」論、規範理論である。

私は立岩の『私的所有論』を読んでいないので、「所有」をまずは「他者による所有」として理解しようというロジックとはどういうロジックなのかよく分らない。…「オレがオレが」とは「利己心」のことかと思うが、何故、ダイナミックな領域においては利己心のロジックが分りやすい、と言えるのかも分らない。…これは規範理論だというが、どういう意味の規範理論なのかもわからない。

 

稲葉 市場というのは譲渡していいものだけが回る領域だという理屈…これは非現実的だ。その非現実性っていうのは、単に現実がそうなってないというだけじゃなくて、掟のレベル、「べき」論のレベルで言っても、いわば絵に描いた餅になりかねない。もう少し現実を無視しない「べき」論を組み立てたいという気持ちがある。

何故、「非現実的」なのか。あるべき理想として認めるならば、現実を無視しない方策を考えることは当たり前のことである。「絵に描いた餅になりかねない」などといって、本当は「あるべき理想」として認めたくないのではないかと疑わせる。

 

そもそも譲り渡しちゃいけないものを人は苦しいとき、窮迫してるときについ譲り渡してしまうと。そういう人の弱みにつけこんで商売する奴を責めてもいいかもしれないが、弱みにつけこまれた人を責めるようなタイプの議論、つまり本来「譲っちゃいけないものを譲った」と言って誰かを責めてしまうような余地のある議論は作りたくない。

稲葉のこの言い方には賛同できない。第1に、「そもそも譲り渡しちゃいけないもの」があるならば、そのような「譲り渡し」の行為は犯罪として処罰すればよい。第2に、そのようなルールがないとしたら、「譲り渡しちゃいけない」ということの社会的な合意ができていないということであって、「そういう人の弱みにつけこんで…」というのも社会的な合意をえられる主張ではない。第3に、「譲っちゃいけないものを譲った」と言えるかどうかは、個別事案を具体的に検討しなければ分らない。

 

立岩 市場において取引されるものと、されないものっていうのは、きっちり決められるかどうかは別として、決められないことはないだろう。どうやって決めるか。譲渡したくないものを譲渡しなくて済むだけ基本的な財が一人一人に備わっているという条件を満たしたうえで、人が譲渡したくないものが譲渡を求めてはならないものである。これで世界が分れるのかっていうくらいいい加減に思える分割線なんだが、ぼくはこれでけっこういけるのかなと思っている。例えば臓器の売買はちょっとやめとこうって話にいったんしちゃったら、それは市場に出回らない。良し悪しは別として、話はすっきりはする。そうじゃなくて、そういう単純な話ではいけないはずの何かが、具体的に稲葉さんにとっては何なのか

立岩のこの取引可否の分割線は興味深い。条件付きで、「人が譲渡したくないものが、譲渡を求めてはならないものである」という分割線は考慮に値しよう。ただ、私たちが共に生きるこの社会で、「私が譲渡したくないものは、私に譲渡を求めてはならない」と言っていいものかと考えた場合に、立岩の分割線は検討の余地があると思う。

 

稲葉 立岩さんの話のベースライン[基準線]になっているのは、「厚生経済学の基本定理」っていう教科書的な話で想定されている状況と、根本的にあまり変わっていない。

稲葉の立岩解釈が正しいのかどうかは分からない。ここで「厚生経済学の基本定理」という言葉が出てきたので、予備知識を仕入れておこう。但し、経済学の勉強をしようというのではないから、できるだけ簡略に済ませたい。

 

厚生経済学(welfare economics)とは、

経済的厚生もしくは経済的福祉の最大化を基準にして,経済機構や経済政策の成果の良否を判断したり,その改善の方法を見いだすことを課題とする経済学。(大辞林

規範経済学ともよばれ,所与の価値判断に照らして経済組織の運行機能を評価することを課題とする。厚生経済学は,特定の価値判断を提唱ないし主張するものではなく,考察に値すると思われる所与の価値判断の帰結を示すことがその課題である。これまでに考察された価値判断の中で中心的なものはパレート改善の基準である。(世界大百科事典

Welfare を「厚生」と訳しても良いし、「福祉」と訳しても良いだろう。日本語の語感としては、「福祉」がぴったりくるように思われる。この福祉は「幸福」と言い換えても良いだろうから、ここでは厚生経済学を「私たちの幸福に関する経済学」、簡略に「幸福経済学」と理解しておこう。(内容をきちんと把握するならどちらでも良いのだが、幸福経済学と称すれば、何か身近なものとなるような気がする)

厚生経済学の基本定理とは、*1

 <第1定理>

  1. 市場の失敗が存在しないとき,市場において実現する資源配分はパレート効率的である。
  2. 個人や企業が勝手に利己的な行動をしても、市場メカニズムを通じて、社会として最も望ましい状態になる。

<第2定理>

  1. 任意のパレート効率的な資源配分は,適切な所得再分配を行えば,市場メカニズムで実現できる。
  2. 適切な再分配を行うことで、最も望ましい状態というのは、市場での価格調整を通じて実現する。

1の説明は分かりづらい。2の説明は直観的かもしれないが分かりやすい。

パレート効率的という言葉は覚えておきたい。http://fs1.law.keio.ac.jp/~aso/micro/micro4.pdf

誰かの状況を改善しようとするとき,必ず他人の状況を悪化させてしまうような状況はパレート効率的であるという。全ての人の状況を同時に改善できるとき(あるいは同じことだが,少なくとも1 人の状況を改善でき,残りの全ての人の状況を悪化させないことが可能なとき),パレート改善の余地があるという。パレート改善の余地のないような状況がパレート効率的な状況である。

具体例があげられている。

ひとつのパイを2 人で分配するとき,分配し残した部分があれば,その部分をどちらかに与えれば,一人の状況は改善でき,他の人の状況は以前と同じにとどまるから,パレート改善の余地がある。しかし,パイを余りなく分配していれば,片方の分配分を増やそうとすれば,もう片方のパイの取り分を減らす。これは,パレート効率的な状況である。つまり,パレート効率性は資源が無駄なく使われているという意味で望ましい状況を表すが,分配の公平性とは無関係な概念である。たとえば,ひとつのパイを独り占めするような状況もパレート効率的である。

限りある資源を有効に効率的に使おう、というのは恐らくほとんどの人が合意できるだろう。しかし、分配の公平性とは関係ない(独り占めでも、パレート効率的だ)と言われれば、「私たちの幸福」を追求する経済学としては、「ちょっと、おかしいね」ということになる。そこで、第2定理が登場する。

厚生経済学の基本定理の第2 定理は,分配の公平性を満たすようなパレート効率的な資源配分も,適切な所得再分配を行えば市場で実現できることを主張している。ただし,実際の所得分配は,例えば,労働所得に累進税を課すことで再分配を実現しようとすれば,租税が労働供給の決定に歪みをもたらし,パレート効率性は保障されなくなる。ここでいう,適切な所得再分配とは所得効果のみをもたらし,代替効果をもたらさないような再分配である。

これだけの引用ではとても「厚生経済学の基本定理」がどういうものか分らない(市場の失敗? パレート効率性(状況?)、市場メカニズム(価格メカニズム?)、適切な再分配?)のだが、何を言わんとしているのか、雰囲気がつかめれば良しとしよう。…経済学者の誰それがこう述べている、というのではなく、「厚生経済学の基本定理」(私たちの幸福に関する経済学の基本定理)に基づき、現在の日本及び世界の経済システムをどう評価し、経済政策がどうあるべきか、を述べることができてはじめて、「基本定理」を理解したと言えるのではないだろうか。「A先生がこんなことを仰っています」という知識をみにつけたところで、「ふうん、それで?」の質問に答えられるだろうか。

 

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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/de/The_Source_London_Stock_Exchange.jpg

 

稲葉 基本定理が考えているような初期条件というのは、まず人は市場で取引に参加する以前にすでに存在している、生きているという状況である。だから、そのような人びとが取引に乗り出すからには、少なくともそのことによって、取引しないでいるよりもいい結果がもたらされるか、あるいはしてもしなくても現実的に同じなんで、じゃあちょっと気分的にしてみるかという状況にある。つまり、取引に参加しなくたって生き延びていける、ある種自給自足に近いような条件が想定されている。これはトリッキー[奇をてらう、巧妙、人を惑わす]だ。市場取引に参加しない自給自足ではなく、すでに市場的な取引の中で生きている人が、その取引パターンが昨日も明日もえんえん変わらないようなルーティン的な取引を続けているような状況について考えてみよう。ご近所の商店街だけ買い物に行くのではなく、たまには遠くのスーパーに行きましょうということをあえて人がするのは、スーパーに行くことによって新しくいいことがありそうだ、恐らくあるはずだと思うときにのみするのであって、別にしなくてもいい。遠くのスーパーまで行かなくても、近所の商店街で死ぬまで買い物してそれで終わったとしても、人は十分生きていける、というようにまず出発点の現状が、少なくともそこで人は最低限生きていけるし、そこにおいて満足してますという状況である。取り引きしてもいいし、しなくてもいい。経済学の教科書に書いてあって、市場経済バンザイ、オッケーという議論が展開されるときに想定されているのは、実はそういう状況である。だから、彼らは非常におめでたく市場を「パレート最適」を実現するメカニズムとして肯定できるわけである初期条件というのは、ある種幸福な条件である。それはつまり、踏み出さないと取引できない、取引しないと後がない、死ぬか取引するか、ではない

稲葉は、「市場」を「パレート最適」を実現するメカニズムとして肯定できるのは、「取引に参加しなくたって生き延びていける人たち」が初期条件になっていると言う。おもしろい見方だ。

 

稲葉 「厚生経済学の基本定理」のような話が、おめでたく受け入れられるようになるためにこそ、立岩さんが要求するような条件が満たされていなければならない。で、現実はなかなかそうはいかないってことも事実である。「取引したくなきゃ取引しなくていいよ」と言えたとしたら、それは実はかなりユートピア的な状況である。

先ほど、立岩は「譲渡したくないものを譲渡しなくて済むだけ基本的な財が一人一人に備わっているという条件を満たしたうえで…」と言っていた。立岩のこの条件は、稲葉の言うように「ユートピア的な状況」だろう。現実のこの世の中では、「基本的な財」ですら、取引なしには入手できない。

 

稲葉 しかし、なぜ現実には「取引しなきゃ死んじゃうよ」とかという状況の方がふつうで、「取引したくなきゃ取引しなくていいよ」とは言えないのか。現実には、いきなり会社をリストラされることもありうる世の中で、同じ相手とばかり取引して、同じ会社でずっと働いて、同じ店で買い物し続けて、死ぬまでやっていけますよとは言えない状況であるならば、なぜわれわれはそんな不安定な世界に、実は無視できない人々が生きているような状況に……。

立岩 あるのかってことですよね。ナゾナゾみたいなものだよね。経済学が、市場というのはみんな得する世界なんだから、得するか、得も損もしないのどちらかだから、それを続けていれば、みんなハッピーになってという話をする。今よりはよいことがあるから取引するっていう話は、なるほどそうかな、と。したくなかったら、何もしないでさぼってればいいんだから。すると、だんだん良くなるって話が一瞬本当に思える。でも、実際にはそうじゃない。小学生向けのナゾナゾのような気もするし、もうちょっと高級なような気もする。そのナゾナゾにどうか答えるか。ぼくの答

えもあることはあるが、稲葉さんの答えは?

稲葉はこれに答えていない。

これは小学生向けのナゾナゾではないだろう。経済学部の学生でも答えられないかもしれない。

  • なぜ、「取引しなきゃ死んじゃうよ」とかという状況の方がふつうなのか?
  • なぜ、「取引したくなきゃ取引しなくていいよ」とは言えないのか?
  • なぜ、「市場経済」で、みんなハッピーにならないのか? だんだん良くなっていかないのか?

 

立岩 人間が生きている世界の中で、パレート改善ならうまくいくじゃないかというのは、それは明らかに現実に反していると稲葉さんが考えているのか、そうじゃないのかそれはわからないけれど、ぼくは明らかに現実に反していると思っている。「だんだん得していく」って話は、人間が時間の中にいて、消費して、すでにあるものを減らしながら生きている、というものすごい単純な現実を場合によっては忘れてる可能性がある。実際には差引でマイナスになることがある。というか、ゼロを下回った時点で人間は死ぬ。時間の中に人間は生きており、消費しながら生きていく人間である。これが第一点。

その上で、生産するためには、人間の身体は生産するための一つの資源だし、ほかに自然の物体がある。するとまず前者について、身体を動かして取ったものはその人のものと決まっているなら、身体が動かない人は取れない。それから後者、それ以外の自然物、その中には土地もあるし、原料もある。経済学者が所有の初期条件として何を考えているか、俺にはとってもわからないっていうのはそういうことでね。土地なら、自分が耕す土地として所有が認められなかったら、その土地を耕せなかったりする。それが足りなければ、あるいはそれがなければ、そして自分が必要な消費より現実の生産の方が下回れば、人間は死んじゃう。すぐ死ななくても、だんだん生活は圧迫されていく。

経済学者が所有の初期条件として何を考えているか? 何も考えていないか、考えていても言えないのか。

 

稲葉 第一点は単純素朴だがとても大事な話だ。つまり「現状」とは何かって話。さっき「初期条件」の話をしたときに問題となっていたのも、結局はこの問題である。世界におけるナチュラルな「現状」とは何かと言ったときに、どうにかこうにか食いつないで生き延びていけるのが自然な現状であると考えるか、そうではなくて何もしない人間は飢えて死ぬというのがベースであると考えるかで、結構重要な問題である。

経済学の教科書レベルの話でいくと、ベースライン[基準線]となっているのが、今日も明日も同じ日々が繰り返されるという「初期条件」で、そこに新しい何かを導入するチャンスの場が市場だ、っていう話になってるんだけど、われわれの現実の世界は、むしろもう市場に骨がらみになっちゃってるから、「市場に参加しない」という選択がベースラインなんじゃなくて、もう市場なしには生きていけなくて、もし市場から離れたら、あとは崩れて死んでいくだけですよ、という局面にベースラインはすでに移行してしまっているかもしれない。

私たちは、もはや「市場」なしには生きていけないのかどうかはわからない。何を「市場」と称しているかによる。稲葉がそう思っていないとしても、「もし市場から離れたら、あとは崩れて死んでいくだけですよ」という言い方は、「だから、私たちは市場から離れられない。離れるべきではない。」というふうに聞こえる。…私は、「人為的なもの」(制度やルール)は、いかようにも変えられるはずだと楽観視している。

 

稲葉 市場がいったん当たり前の仕組みとしてできあがると、社会のファンダメンタルな構造、人間社会のあり方や生態系や物理的な自然までも変えていっちゃう。変えていったときに何が起こるかというと、市場の基礎の方を変えてしまう。所有の仕組みができ、市場に仕組みができ、社会の仕組みができあがったときに、ある何か壊滅的な変動が起きて――それは革命でもいいし災害でもいいし何でもいい――市場が崩壊したらどうなるかと。

稲葉はここで何を言いたいのか、よくわからない。

 

立岩 その前に、論理的にも現実的にも、所有に対する権限があって、権利の確定があって、その中で合法的な市場での取引が発生する。…確かに市場が壊れたらそのときには何かが起こるでしょう。だけど、稲葉さんが言ったのは、市場が機能すること自体において、何かフィードバックがあるっていう話なの?

稲葉 ホッブス、ロック的な「自然状態」から所有の秩序が生じるという話のレベルにおいて、まず所有が生じたという世界はどんな世界かというと、恐らくかなり自給自足っぽい世界である。で、自給自足っぽいところから、それだとつまらないから取引が始まって、それで取引が広く安定的に普遍的に行われるようになれば市場になる。かつて自給自足していた人たちが市場に依存し始めると、贅沢品が欲しいから余ったものと引き換えにっていう形からやがて取引が始まるんだけど、そのうちそうではなくなっていって、自分のところでは食べ物とかを作らなくなっていくわけだ。つまり市場に依存するっていうのはそういうことなわけである。基本的に自給自足で生活するんだけど、余ったものを売り買いできて、生活が楽になります、ってことじゃすまなくなる。そこまで社会がいったん突き進んだときに市場だけが崩壊して、だけど所有に関する仕組みは残ってますよといった場合に何が起きるかというと、社会は壊滅的なダメージを被るというか、自給自足に戻れない。自給自足に戻れないというときには何が起こっているかというと、かってのスキルが失われる。多くの場合。

稲葉は、ここで市場が崩壊すると言うとき、「恐慌」をイメージしているのだろうか。

 

立岩 いや、それは完璧にわかる話で、その通りだと思うんだけど、その話の落としどころというか、つまり、いっぺん市場の交換関係がバサッと切られちゃったら、明日から食うものがなくなるって言う人も都市部とかでたくさん出てくる。そのままにしてたら本当に死んじゃう。だから、それ[市場]を安定的に維持しなきゃいけないって話はすぐ出てくる。ぼくは市場はよいって言ってる。稲葉さんは、それ以外の話がしたいのか、それ以上の含みを持たせたいのか。

立岩は稲葉にこう問うて、稲葉はこれに対して何やらしゃべっているが、何を言ってるのか分らない。それ以外の話がしたいのか? それ以上の含みを持たせたいのか?

 

立岩 今の話だと、市場のネットワークの中である種の分業が機能してたものが、天災か何か外的な要因によって切断されると、切断されたことで窮乏が起こるというのは、さっきの話と基本的に同じだと思うから、わかるんだけど、そこから何を言いたいのかがやはりわからない。

第三世界といったらいいのか途上国といったらいいのか、そこにおける貧困がなぜあるのか、なぜ存続し、少なくとも多くの地域では拡大するのかっていう問いは、ものすごいシンプルに答えられてシンプルにわからないか、ぼくみたいな単純な人間にはわからないようなことを言われるか、どっちかになることが多いような気がして。中学生ぐらいが理解できるレベルで、ちゃんとした、簡単で、でもちょっと複雑な説明というのは必要だなと思っていて、ぼつぼつやっていきたいと思う。

厚生経済学の基本定理」を厳密に数学的に証明できる人は、貧困や格差の問題について、「中学生ぐらいが理解できるレベルで、ちゃんとした、簡単で、でもちょっと複雑な説明」をしてほしいと思う。