気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

市場万能論(2) 手続きが適正であるなら、どんな悲惨な結果になろうと受け入れるべきなのか?

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(4)

今回は、「第2章 市場万能論のウソを見抜く 第2節 分配の根拠を示す」である。(引用は、文意を損なわない程度に、若干変形したところがある)

立岩 どういう配分の仕掛けを考えるのがよいのか。…ある種の結果の平等。…結果の平等っていうのは、この頃めちゃくちゃ評判が悪いんで、だから言っちゃおうという感じで言ってる部分もあるし、ぼくは言うぞみたいな感じでわざと言ってる部分もある。そこのところは稲葉さんは、違うと言うんじゃないかと思うんだけど…

稲葉 結果の平等と言う議論が評判が悪い理由の一つは、「厚生経済学の基本定理」が前提しているような初期状態によって人々はしているんだから、存在している以上は何とかなっているだろうという暗黙の前提があるからじゃないか。

稲葉は、前回、「市場」を「パレート最適」を実現するメカニズムとして肯定できるのは、「取引に参加しなくたって生き延びていける人たち」が初期条件になっていると言っていた。だから、結果の平等など必要ないということなのだろうか。(「パレート最適」の意味を忘れた方は、前回記事を「パレート効率的」で検索してみてください)。

稲葉 文明社会では最低限の貧民でさえ、狩猟社会の首長よりもいい暮らしをしている、いっぱい食べているし、衛生的だし、…つまり「底上げしている」「市場はパレート最適に社会を導いていく仕組みである」という議論。…この議論は有意義だが、おそらく万能ではなくて、底上げの議論が意味を持つためには、底上げしてますよだけじゃなくて、底上げする時の底上げの開始のゼロポイントもまずは「生きてますよ」って議論が成り立たなきゃいけない

これは前回と同じことを言っている。「結果の平等」をどう考えるかという立岩の問いかけに答えていない。そして初期条件にこだわった話をしている。

稲葉 ぼくがいま考えていることの中心は、

  • 市場は常に底上げ機能を発揮するとは限らない。
  • 底上げの出発点は、必ずしも「みんな生きてますよ」とは言えない。「ほっといたら死ぬ人もたくさん出ます」かもしれない。
  • 市場の底上げ機能がほどほどだったら、人が十分生きていけるような条件を提供しきれないかもしれない。
  • 本当に人々は、存在している以上は何とかなってますと言えないのではないか。

こういうことがきちんと言えれば、「結果の平等」論と言われているもののもうちょっと有力なサポートになりうるかなと思う。

何か立岩との議論を避けているような感じがするが、稲葉は「結果の平等」論のサポートになりうるような議論をしたいと思っているのだろうか。

稲葉 この議論をするためには、結果と出発点、初期条件とかいう言葉遣いも、たぶん改めなければいけない。というのは、立岩さんがおっしゃっている通り、初期条件」というのは本当はウソで、本当はその初期条件にも前史がある。さらに言えば、初期条件からたどり着いた結果というのも、その次の日からにとっての初期条件になるはずだというんで、もうちょっと良い言葉遣いを考えなくちゃいけない。

確かに、「出発点」とか「初期条件」という言葉には気をつけなければならない。「市場」に、そして「社会」に参入しようとするとき、私たちはすでに何か(財産や能力や社会関係など)を保有している。この何かを無視した議論はありえない。

稲葉 ここで問題になっているのは「初期」でも「結果」でもなく、プロセスにおけるその都度その都度のスナップショット(断片)的な状態である。例えばノージックの場合は、規範理論における「歴史原理」と「結果状態原理」の対比をするわけだが、「初期条件」というのは実はここで言う「結果状態」と同じく、スタティックな「状態」である。…どんな結果が与えられても、その手続きが適正である限りは受け入れると言えというのがノージックの議論の仕方である。それに対してロールズは結果状態原理である。

歴史原理と状態原理の解説がある。

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状態原理…「状態」即ちそこにおける人々の幸福や社会的分配の構造を評価の対象とする。

歴史原理…「過程・手続」の適正さのみを評価の対象とし、人々の社会の「状態」の良し悪しを評価の対象とすることを避けようとする。但し、歴史原理が「状態」に無関心かというとそうとも限らない。ノージック新古典派経済学の場合、「過程・手続」が適正なら、人々は自分が自分や社会の「状態」を改善しているはず、と期待しているのである。

「過程・手続」が「適正」であることは重要である。なぜなら、それは目的(人々の幸福等)達成のために必要なことだからである。従って、「過程・手続」の適正さのみを評価の対象とし、「状態」:目的(人々の幸福等)を評価の対象としないことはナンセンスである。目的(人々の幸福等)に寄与しなかったとすれば、「過程・手続」が「適正」ではなかったのではないかと反省しなければならない。…「どんな結果が与えられても、その手続きが適正である限りは受け入れる」というのはありえない。結果が不当だと判断されるならば、手続に問題があるのではないかと疑わなければならない。それで手続に何ら問題なしと考えられれば、結果が不当だという判断は正しかったかと考え直さなければならない。

稲葉 「状態」というのは、普通に言う意味での「結果」であるとは限らなくて、もしかすると「初期条件」、出発点かもしれないし、あるいは途中経過かもしれないけれども、その途中経過におけるスナップショット的な状態というものがどんな状態を満たしていなければいけないかということを考える必要がある、というのがロールズの、あるいは功利主義者の考え方である。ノージックの議論はプロセスに注目して、プロセスが少なくとも前よりはいい状態に人々を導くわけだから、何でもいいじゃないかと。それを安心して言うためには、その状態状態が少なくとも出発点において人々は生きてますと、生きていて何とかなってます、だから状況を改善すればいいじゃないかと。

立岩 結果がよくなっているはずだからっていうのが暗黙に入ってるってことでしょ。

稲葉 そうそう、自覚が足りないわけですよ。

稲葉はノージックをどう思っているのか。稲葉の主張は何なのか。

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立岩 さっきの話の繰り返しになるけど、ある条件のもとでは、市場なら市場交換のもとで、人は生き難くなっていく。これははっきり言えるだろう。そういう意味では、常に良いことしか起こらないという話は、基本的には否定されるに決まっている。最低限自分の身体に関係する使用権が各自に配分されていても、必ずそうなる。…だから自身の労働力を独占できてもそうありがたくない。また独占権がその人にあるなら、自分の労働では足りない別の人は請求できないことになる。これは困る。

同時にこれはもう一つの論点だが、格差は広がるけれども底上げするからいいじゃないかっていう議論、これをどう評価するか。…いま隣に生きてる人との相対的な関係の中で、貧しいだの豊かだのいい暮らしだのそこそこだの言っているわけだから、だんだん良くなっていくって言われたって、それはそれでオッケーって話じゃないでしょって人はいるよね。そういうときに、稲葉さんだったらその件にたいしてどう答えるのかな。

稲葉さん、どう答える?

稲葉 貧乏人が金持ちを批判する根拠はただの羨望・ひがみだ、というのは確かにおかしい。…人間の本性は、そういう醜い嫉妬をする悪いものだから、それを受容して多少は平等にしないと社会はもちませんよ、ということで話をするのがリアリストだと思う。ハイエク的な保守的自由主義者っていうのは、一面では人間は弱く、十分な合理性を持ってないから社会主義は作れません、自己利益を優先して生きざるを得ない生き物であるということを強調する一方で、人間は弱いから他人と比べてしまうとか、他人と心理的に依存しあわないと生きていけないというところは軽視する向きがあるんです。だけどリアリズムを標榜するんだったら、両方をもちろん考えるべきであって、自己の利益が大事なので、市場経済にまかせておくのがいいということは事実である一方、他方であんまり不平等で格差の大きい社会は…。

稲葉は、ここで稲葉の言うリアリストの主張を、自身の主張の代弁者としているのだろうか。それにしては、当たり障りのない(凡庸な)主張をするリアリストだ。

立岩 嫉妬が醜いかどうかは価値判断の問題だ。他人のことを羨ましいと思うのが本来は悪いことだって言わないと、醜い嫉妬心とは言えない。

エガリタリアン[平等主義者]を批判する人って、その類の話をよくするじゃない。他人より自分の方が少なくしかもってなくて、羨ましいなあ、ぼくも欲しいなあって思うのがいけないことだって言うんだけど、なぜいけないかってそんなにちゃんと言えてないんじゃないか?

稲葉 感情がいけないと言われる理由は、だいたいそういう状況の誤適用なのであって、その中で嫉妬なるものもむしろニュートラルに考えるべきもので、頭から悪いものだと見るべきではない。

 

立岩 ぼくは今日ずっと同じことを言っている。稲葉さんは『「資本」論』で、自分としての規範的な立場、資源の配分というか、分配的正義論に関するある種ポジティブな立場を書かれてるんではないかと思い、なおかつそれはぼくの立場とはだいぶ違うように思い、とするとそこで争いが起こり、それを見ている人も楽しいかな、とか思っていて、その話をしようとしてきたんだけれども、それはどうなのかということが一点ね。…私の立場のどこがおかしいっていう言い方でも、どっちでもいいですから言ってくれると…。

立岩は建設的な議論をしようとしているのに、稲葉ははぐらかしてばかり。いい加減イライラしてきたのではなかろうか。

稲葉 ですから、「結果の平等」原理っていうのは、有意義で有効な局面とそうでない局面が実はあって、そこをきちんと見分ける議論がまだ十分になされていないままに、人はそれを批判しているという印象があるんですね。ただ、「結果の平等」原理、あるいはその前提となり、ノージックが批判的に「(結果)状態原理」と呼んだ思考法というのはおそらくオミット(無視)できなくて、「状態原理か歴史原理か」の二者択一ではなくて、両方併用しなければならない。ただ、どっちに重点を置くかという議論の立場の違いはあるとして、おそらく立岩さんは状態原理重視なのかなと。ぼくは、少なくとも現時点まで、歴史原理的な発想に軸足を置きながら議論をしていて、そうすると市場というのは基本的によいものだと言っちゃわざるをえないんですけど、市場が歴史原理的、手続原理的に見て是認しうるようなシチュエーションは、少なくとも社会全体をパレート的な意味で改善していくときにのみ言えるのであって、これは常に言えるのではないということが一つ大きな問題としてある。

ようやく稲葉の主張が出てきたかな。つまり、「市場は基本的に良いものである。但し、社会全体がパレート改善していく状況にあるときのみ、市場は歴史原理的・手続原理的に見て是認し得るものである。」と。

 

立岩 稲葉さんとしては、プロセスを大切にして、歴史原理として肯定するという場合、それは基本的にパレート改善に近いイメージを想定しているわけですか。

稲葉 そうです。近いイメージです。…貧乏で天井が低い状態で強引な再分配をすると、絶対に社会に混乱が起きる。再分配を行うためには、だいたいみんな余裕があるような状況で、純粋に損をする人も「しかたがないな」くらいの愚痴ですましてくれるような状況でないとまずいという判断はあるわけですよね。再分配の発想というのは、どうしても状態原理的な発想に立脚して行われるものだと思うんですけれども、それを摩擦を起こしにくい状況の中で行うべきだという判断は、政策判断として少なくともあるし、政策以上にある種の準則、原則ぐらいのレベルで「再分配はダメ」とは言わなくて、時と場合によってはやるべきだと。

恐らく社会的政治的安定の観点から見ると、あんまり社会っていうのは格差が大きくない方がいいに決まってるんです。それはなぜかと言うと、格差が大きくなりすぎるとコミュニケーションが成り立たないわけですよ。市場っていうのは、実はコミュニケーションの透明性を大前提に成り立っている仕組みなのであって、不平等を許容すると言いながら、その一点においてはどこかで格差の範囲がある程度以下であることを前提としているわけですよね。…貧乏人と金持ちは、お互いにお互いが何を考えてるかわかる程度には同質な存在でなければいけないということが大前提になっている。そういうような意味合いにおいて、状態の不平等をある範囲内に抑え込むことは必要だろ思ってるんですが、ただそのためのポジティブなアクションをいかなる状況でいかなる範囲で行うべきかに関して、けっこう保守的に考えていた。

「貧乏で天井が低い状態で強引な再分配をすると、絶対に社会に混乱が起きる。」…どうしてこんな曖昧な言い方をするのだろうか。「貧乏で天井が低い状態」とは、恐らく、「GNP/GDPが小さい(低い)状態」をイメージしているのだろうが、どのくらいの規模で「貧乏で天井が低い状態」になるのだろうか。「強引な再分配」とは何だろうか。どのような再分配の手段を考えているのだろうか。累進課税のことか。「強引な」とはどういう意味か。法的手続きによらないという意味か。民主的な法的手続きによるものであっても「強引な」と言うのだろうか。「絶対に社会に混乱が起きる」などとどうして言えるのだろうか。「強引な再分配」で不利になる「富裕者」が反乱を起こすとでも言うのだろうか。

また、稲葉は「国民経済」(一国経済)のレベルで考えているのではなかろうか。グローバルなレベルで、格差の問題を考えているのだろうか。(http://ja.wfp.org/hunger-jp/map 参照)

稲葉は、「格差が大きくなりすぎるとコミュニケーションが成り立たない」、「貧乏人と金持ちは、お互いにお互いが何を考えてるかわかる程度には同質な存在でなければいけない」と言うが、これはよくわからない。誰と誰がコミュニケーションをとる必要があると言っているのか。なぜ、貧乏人と金持ちは、お互いにお互いが何を考えてるかわからなければならないのか。どんな考えをわかり合う必要があるというのだろうか。何を考えているか分れば「同質な存在」になるというのだろうか。稲葉はこれが市場の大前提だというが、何を言っているのか分らない。抽象的な市場モデルのことを言っているのか、現実の市場経済のことを言っているのか。市場の大前提だというのは、現に大前提になっているというのではなく、大前提とするということではないのか。

「状態の不平等をある範囲内に抑え込むためのポジティブなアクションをいかなる状況でいかなる範囲で行うべきかに関して、けっこう保守的に考えていた」というが、現在はそうではないということか。

稲葉の説明にいろいろ疑問をあげてみたが、立岩はどのように突っ込みを入れるのかな。