浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

リベラルな(自由放任の)正義論?

平野・亀本・服部『法哲学』(19) 

今回は「第3節 リベラルな正義論と倫理学」である。

「よい行為・正しい行為とは、ルールに従った行為である」という考え方がある。

西洋の倫理思想上最も有名なルールは、黄金律であった。その肯定的な形態は、「他人からしてもらいたいと思うことを、自分も他人にせよ」であり、否定的な形態は「他人からされたくないことを、他人にもするな」である。

キリスト教倫理の中心にあるのは「良心」に関する教説であり、道徳的に正しい行為が本当に正しいといえるためには、ルールの要求するところと行為が結果的にたまたま一致したということでは不十分で、当該ルールに従うこと自体が正しいと行為者本人が確信して行為したのでなければならない、という考え方である。ここから、行為とその動機を区別し、動機のほうを重視する倫理感が生まれてくる。道徳の内面性、法の外面性という、法と道徳の区別に関する有名な定式も、このような考え方に対応するものである。このような思想の根底には、人格が自由な意思を持つこと、そして自由意志に基づく行為が(自然法の)ルールに違反した場合、(神に対して)責任を負うという考え方がある。

私は、「神に対して責任を負うという考え方」をとらないが、「当該ルールに従うこと自体が正しいと行為者本人が確信して行為したのでなければならない」には賛成する。なぜそのようなルールが制定されたのかを考えてみなければならない。そのルール制定の趣旨を理解すること、それが「確信」につながる。そこにルールがあるから従うのではない。…では、「殺せ」というルールがあり、それが正しいと確信し、そのように行為したとしたら、それは道徳的に正しいと言えるのかどうか。またルールに従わないことが正しいと確信し、そのように行為したとしたら(市民的不服従)、それは道徳的に正しいと言えるのかどうか。

近代における法と道徳の分離、従って法学の倫理学からの離脱を倫理学との関係で考えると、それは第1に、法及び法学における徳の要素の軽視、第2に、ルールの倫理学の優越、第3に、人格と責任の倫理学の限定的転用と結びついている。つまり、法は個人の道徳的徳性の完成には第一義的な関心を持つものではなく、個人の行為が実定法のルールに従っているかどうかに主要な関心を向けるのであり、しかもルール遵守の動機は原則的に問わない、とされるようになったのである。近代法学では、責任の根拠は人格の意志自由にあるとされるものの、動機は必ずしも問わないとする点で、「人格と責任の倫理」も、近代法学には完全な形では入ってこなかった。

次の点に注意しておかなければならないと思う。

  • ここに述べられている法は、既に制定されている法のことであろう。しかし「立法」について考えてみれば、「徳/倫理」が基本的な価値前提になっているように思われる。近代法学は、「立法」を政治学に委ね、対象外にしたのだろうか。
  • ルールには基本的な道徳が取り込まれている。基本的な道徳とは、黄金律である。(ここで言う黄金律については、事実認識と価値評価(3)普遍的な価値判断 (キリスト教の黄金律?)参照)
  • ルールを遵守しない動機(犯罪の動機)は、量刑決定においての考慮事項である。

 

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亀本は、本節で「倫理学法哲学的正義論とはどう違うか」について説明している。(以下の話は、あまり面白くない。まあ、物好きな人は読んでみて下さい)

そのために、まず「古典的リベラリズム」について、

近代における国民国家の主要な役割は、平和の維持・紛争の解決と、市民社会の中での個人の自由な活動とりわけ経済活動の維持促進とされ、これらの手段として法は位置づけられた。そこでは宗教諸派からの中立と、各個人の経済活動に対する中立が要請された。これを一言で言えば、個人の生き方には介入しないという要請であり、それは国家が徳の倫理の実現において主要な役割を担うことを放棄することを求める。…このような経緯で、中立的なルールの制定とその執行を国家の主要任務とする、いわゆる「古典的リベラリズム」の思想と実践が成立した。

古典的リベラリズムについて、wikipediaは次のように述べている。

古典的自由主義は、個人の自由小さな政府を強調する思想であり、伝統的自由主義、レッセフェール自由主義、市場自由主義、また英語ではリバタリアニズム、英米以外では単に自由主義リベラリズム)と呼ばれることもある。

古典的自由主義は、18世紀末から19世紀にかけての経済学的自由主義と政治的自由主義が融合したものである。古典的自由主義の規範の中心となるのは、レッセ・フェール(自由放任)の経済によって、内在的秩序、すなわち見えざる手が働き、社会全体の利益となるという考えである。ただし、国家が一定の基本的な公共財公共財となる物は、非常に限定的に考えられているが)を提供することには必ずしも反対しない。

古典的リベラリズムは、「小さな政府」を強調する。経済活動には介入しない。介入しないということは「自由放任」ということであり、その結果どういう事態を招こうと知ったことではない、ということになるが、これを「各個人の経済活動に対する中立」とか「中立的なルールの制定」と呼んでいいのだろうか。

 

以下、亀本がリベラリズムというとき、このような「古典的」リベラリズムと理解しておこう。(古典的でないリベラリズムの説明はない。)

正義論との関係で、ここで問う必要があるのは、近代の法思想ないし政治思想としてのリベラリズムと、倫理学とがどのような関係にあるのか、ということである。…倫理学の使命は、行為の正しさをつねに探求するものと観念されていた。正義も、倫理的価値の一要素もしくは中心要素である以上、倫理学の一分野としての正義論においても、正義にかなう行為が何であるかを追求することが課題とされていた

 

亀本は、「法哲学の一分野としての正義論」と「倫理学の一分野としての正義論」との違いを際立たせるために、「リベラルな倫理学」と「リベラルでない倫理学」という区別を導入している。

リベラルな倫理学とは、行為の正しさを、必ずしもつねには追求しない倫理学である。

リベラルな倫理学すなわち「個人の自由と小さな政府を強調する」倫理学は、「行為の正しさを、必ずしもつねには追求しない」(A)。はあ? 先ほど、「倫理学の使命は、行為の正しさをつねに探求するものと観念されていた」(B)と言っていたではないか。以下は、(A)と解釈する。

亀本は具体例を挙げている。

例えば、二人の人が溺れている(自分の親しい人と赤の他人)…いずれの人を優先的に救助すべきかの問いに対して、どちらを救うべきかは本人に任せる、という解答を場合によっては認める。要するに、リベラルな倫理学とリベラルでない倫理学との決定的な違いは、少なくともいくつかの実践的問題に対して、どちらでもよいという解答を許容するか否かにある

亀本は、リベラルな倫理学は、行為の正しさを追求しないと言っていた。ならば、このような救助問題については「考えない」ということであって、「どちらでもよい」というのとは違うと思われる。(「どちらでもよい」というのは、助けないのではなく、どちらでもいいから助けるという行為が正しい、ということだろう。)

もちろん、そうした解答をどのような問題に対して許すかに関する線引き問題については、リベラルな倫理学の内部で争いがありうる。リベラルな倫理学に属するリベラルな正義論は、そうした線引き問題を、「公私の区別」、「公益と私益の区別」、「正と善の区別」などとして表現してきたその際、どちらでもよいという解答を「私」の領域に認めても、「公」の領域では認めなかった。リベラルな正義論は、中立性を標榜しつつも、実際には、公共の利益や公共の福祉に関する問題については、異論がありうると言う意味で、必ずしも中立的でない判断を下すのである。

リベラルな[個人の自由と小さな政府を強調する]正義論は、「私」の領域では「行為の正しさ」を考えない(自由放任=検討対象外にする)、「公」の領域では「行為の正しさ」を考える、ということだろうか。

「リベラルな正義論は、公共の利益や公共の福祉に関する問題について、必ずしも中立的でない判断を下す」と言うが、いかなる判断を指して中立的でないと言っているのか分らない。

 

では、リベラルな[個人の自由と小さな政府を強調する]法学ないし法哲学と、リベラルな倫理学[行為の正しさを、必ずしもつねには追求しない倫理学]とはどのように異なるのであろうか。両者の違いは、一言でいって、国家権力の行使の範囲を問題にするかしないかにある。リベラルな倫理学は、ある種の問題を倫理学の射程から除外する。リベラルな法学は、リベラルな倫理学が解答を与えた道徳問題について、更にその一部を国家権力による強制を伴う法によって扱うにふさわしくない事柄として、法律問題から除外する。「法は道徳の最小限」という定式は、このような考え方に対応するものである。

「リベラルな倫理学[行為の正しさを、必ずしもつねには追求しない倫理学]は、ある種の問題を倫理学の射程から除外する」というが、「ある種の問題」とはどのような問題であろうか。「リベラルな倫理学[行為の正しさを、必ずしもつねには追求しない倫理学]が解答を与えた道徳問題」とは、どういう道徳問題だろうか。行為の正しさを「例外的に」追求して解答を与えた道徳問題だとしたら、それはどういう問題だろうか。

リベラルな倫理学[行為の正しさを、必ずしもつねには追求しない倫理学]が解答を与えた道徳問題のうち、一部は「国家権力による強制を伴う法によって扱い」、一部は「国家権力による強制を伴う法によって扱わない」と言うが、それぞれどのような道徳問題が念頭にあるのだろうか。具体例がないので理解しがたい。

「法は道徳の最小限」というのは、漠然と「たぶん、そうだろうな」と言う気はするが、これでは話が先に進まない。

 

 政治学や法学の分化に伴い、近代の倫理学は、専ら一個人の行為がよいかどうか、正しいかどうかを、権力問題を捨象して、徳やルールの観点から考察対象とするようになった。そこでは、リベラルでない倫理学[どちらでもよいという解答を認めない]が概して支配的であり、リベラルな倫理学は正義論の文脈でしか登場しない。そのような近代倫理学のあり方に対して、近代の法哲学は、たとえ行為が倫理的に正しいとしても、それを国家権力によって強制したり、促進したりすることが許されるかどうかを考える使命を担うようになった。

 

近代の倫理学がどういうものであるか不勉強でよく知らないで言うのだが、個人の行為を「徳やルールの観点から」考察するのであれば、「社会のなかの個人の行為」であるから、「権力問題」を捨象して論ずることはできないように思う。(私は権力を広い意味に捉えている)

「倫理的に正しいとしても~」と言うが、誰が「倫理的に正しい」と判断するのか。「倫理的に正しい行為」が無条件に与えられるわけではない。

「国家権力による強制」とは何か。民主的議会による罰則付き法律の制定をも、国家権力による強制と言うのだろうか。

 

亀本は、ロールズの『正義論』を素材にして、それが法哲学に属するのか、倫理学に属するのかを検討している。ロールズの『正義論』は、いずれ取り上げるが、私には亀本のような問題意識はない(どの学問分野に属しようがどうでもよい)ので、以下の亀本の説明は省略する。

 

亀本は、本節の最後に「倫理学法哲学的正義論とはどう違うか」のまとめをしている。

倫理学には相対的にリベラルなものとリベラルでないものがありうるが、今日でも多くの倫理学は、その射程をできるだけ広げようとするかぎりでは、リベラルではない。これに対して、法哲学的正義論はリベラルな倫理学[行為の正しさを、必ずしもつねには追求しない倫理学]に属し、後者と同様に射程を限定するが、公共性に無関係と思われる生き方への不介入・最大限の自由の許容というリベラルな倫理学[行為の正しさを、必ずしもつねには追求しない倫理学]の自己限定をこえて、国家の権力行使の限界問題という観点から射程をさらに限定する。

折角まとめてくれているのだが、私にはよくわからない。法哲学的正義論は、どんどん射程を狭めて、どんどん魅力が失せていくもののようだ。