浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

クオリアの特徴 ためらいと決断

ラマチャンドラン,ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(27)

クオリアの話の続きである。クオリアとは、主観的感覚(「痛み」「赤」「トリュフ添えのニョッキ」といった主観的性質を感じる生[なま]の感覚)のことであった。このような主観的感覚は、どのような特徴を持っているのか。

なぜ、こういう話が面白いのか? 再確認しておこう。

クオリア問題とは、「物質(イオンの流れや電流)が、目に見えない感覚を生み出すのは何故か?」という問いである。ここで感覚という言葉は、目に見えず・非物質的で・精神的なものという意味で使われている。そうすると、クオリア問題とは、「いかにして、物質が感覚(意識、精神)を生み出すのか?」という問いであると考えて良いだろう。ラマチャンドランは、次のような言い方をしている。(クオリアとは何か? クオリア問題とは? 翻訳とは? 参照)

どんな魔法で、物質が目に見えない感性や感覚の織物に変わるのだろうか?

 

さて、クオリアの特徴の話だが。

仮にあなたが昏睡状態にあって、私があなたの眼に光をあてたとする。もし昏睡がそれほど深くなければ、光が引き起こすクオリアを主観的に意識することが全くないにもかかわらず、瞳孔が収縮する。この反射弓[生理学上の反射に際して神経信号の通る全経路をいう]はクオリアを伴わないが、変更不能である。

 

前回、黄色いドーナツと満月の話があった。この例でも、盲点に黄色が書き込まれるのをどうすることもできなかったが、クオリアを感じる。上例と何が違うのか。

決定的な違いは、瞳孔収縮の場合は可能な出力(最終結果)が一つしかなく、したがってクオリアがない。黄色の円盤の場合は、生み出された表象は変更不能だが、あなたには選択の余地がある――その表象をどうするかは決まっていない。例えば、あなたは黄色のクオリアを感じたとき、黄色だと言うこともできるし、黄色いバナナや黄色い歯、黄疸の黄色い皮膚などを思い浮かべることもできる。…どうやらあなたが選べるものに制限はないらしい。クオリアを伴う感覚には選択の余地というぜいたくがある。これがクオリアの重要な特徴の二つ目である。

あらためて、クオリアの特徴を書いておくと、

1 入力側の変更不能性     (クオリアを伴う知覚は高次の中枢によって変更されない)

2 出力側の融通性           (生み出された表象をどうするかは決まってはいない。選択の余地がある)

 

クオリアの重要な特徴は、この他にもう一つあるという。

クオリアを伴う表象に基いて判断をするには、あなたが処理をするのに十分なあいだ表象が存在する必要がある。つまりあなたの脳は、表象をバッファ(緩衝記憶装置)、すなわち即時記憶[短期記憶]に保持しなくてはならない。…生体システムが情報をバッファに保持する理由は、選択をするためという理由のほかにもある。例えばハエジゴクという食虫植物は、内部にある感覚毛が二度続けて刺激されたときだけ素早く閉じる。最初の刺激の記憶を保持し、二度目と対比して何かが動いたと「推量」する。この種のケースに一般的なことだが、可能な出力は一つしかない――ハエジゴクはつねに素早く閉じる。そうするほかにないのだ。クオリアの第二の重要な特徴である選択が欠けている。汎心論とは反対に、植物は虫の検出に結びついたクオリアを持っていないという結論を出しても差し支えないようだ。

 

ラマチャンドランは、「視覚系の一部分(「何」経路)が記憶を持ち、もう一つの部分(「いかに」経路)が記憶を持っていないのはなぜか?」と問うている。「何」経路と「いかに」経路については、以前に説明があった。(ゾンビの姿が見えてきた! 「私」はどこにいるのか? 参照)

 

一般的には、ラマチャンドランが言う「何」経路は腹側(ふくそく)経路(大脳の視覚野と呼ばれる約30の領域のうち、大脳の腹側に位置する経路)、「いかに」経路は背側(はいそく)経路(大脳の視覚野のうち、大脳の背側に位置する経路)と呼ばれるようだ。

 

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wikipediaは、次のように述べている。

視覚野は腹側皮質視覚路と背側皮質視覚路に分けられ、腹側視覚路は視覚対象の認識や形状の表象(意識にのぼる映像)と関係している。一方の背側視覚路は対象の位置や動きの把握と関係している。これらの経路の特徴から、腹側視覚路をwhat経路(回路)背側視覚路をwhere経路(回路、how回路とも)と呼ぶことがある。腹側視覚路は内側側頭葉(長期記憶を蓄える場所)や大脳辺縁系(情動をつかさどる)、背側視覚路(視覚対象の位置や動きを処理する)と強く関連している。

背側視覚路には空間の認識と、物に手を伸ばすというような行動の指標となる働きがある。この視覚路には、視野に対する詳細な地図を持ち、そこでの運動をうまく察知し分析している、という二つの際立った機能的特徴がある。

 

ラマチャンドランは、この視覚経路と「記憶」の関係について、次のように述べている。

クオリアを伴う「何」経路が記憶を持っているのは、知覚の表象に基づく選択をすることに関わっているからだと考えられる――選択には時間がかかる。一方、クオリアを伴わない「いかに」経路は、しっかり閉じたループを流れる連続的なリアルタイムの処理に従事している――あなたの家にあるサーモスタットのように。「いかに」経路は実際の選択に関わっていないので、記憶はいらない。

  • 「何」経路=腹側視覚路(知覚に関わる経路)…選択をすることに関わっている → 記憶を持つ
  • 「いかに」経路=背側視覚路(行動に関わる経路)…選択をすることに関わっていない → 記憶を持たない

「知覚」「行動」と言い換えると分りやすい気がする。ここで「行動」とは、何も考えずに(無意識に)、DNAで定められた通りに動くというイメージである。サーモスタットと同じである。

「何」経路が選択をすることに関わっているので、記憶を持っているというのはわかりやすい。選択の余地がなければ、記憶の必要がない。しかし今はクオリアの話である。これが意外と難しい。あわてずに、ゆっくりと見ていこう。

 

クオリアが存在するためには、短期記憶の中に、潜在的に無限の含意(バナナ、黄疸、歯)を持ちながら、安定で限定された変更不能の表象(黄色)を出発点として持つ必要がある。もし出発点が変更できるものだったら、表象は強くいきいきとしたクオリアを持たない。

「変更不能の表象(黄色)」とは「クオリア」のことではない。表象とは、

直観的に心に思い浮かべられる外的対象像をいう。知覚的、具象的であり、抽象的な事象を表す概念や理念とは異なる。心像。(デジタル大辞泉

と理解しておこう。「知覚像」である。

クオリアが存在するためには、変更不能の「知覚像」を出発点として持たねばならない。言い換えれば、変更可能な知覚像(いろいろ想像できる知覚像)であれば、その知覚像は「強くいきいきとしたクオリア(感覚)」を持たない。

ラマチャンドランは、ここで例を挙げている。…ソファの下から尻尾だけが見えているとき、猫や猿を想像する。それは不鮮明なイメージであり、強くいきいきとしたクオリア(感覚)を持たない。それはライオンかもしれないし、「猫の尻尾を移植した豚」かもしれない。いろいろな可能性を考えることが出来る。直ちにどうこうするという状況にはない。

しかし、状況が切迫していて、何か直ちに行動しなければならないといったときには、不鮮明なイメージでは何をしてよいかわからないので、「強くいきいきとしたクオリア(感覚)」を伴った明確な知覚像が必要となる。

 

現実の知覚が生き生きとした主観的なクオリアを必要とするのは、それが決断の動因になっているからで、ためらっている余裕はないからだ。これに対して信念や内部のイメージは、変更できる仮のものでなくてはならないので、クオリアを持たないほうがいい。

 

ここではクオリアがなぜ必要かを述べている。言い換えれば、何かを決断しなければならないとき、「強くいきいきとしたクオリア(感覚)」があらわれると言って良い。

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http://gigaplus.makeshop.jp/meriaroommen/img/detail/cinderella_shoe/blue/photo_03.jpg

 

もう少し正確に言えば、

クオリアを変更不能にすることに、どんな機能上のあるいは計算上の利点があるのだろうか? 一つは安定性である。もしクオリアについてしょっちゅう気が変わったら、可能性のある最終結果(すなわち「出力」)の数が無限になり、行動を制約するものが何もなくなってしまう。ある程度のところで「それだ」と言ってそこに旗を立てなくてはならないが、私たちがクオリアと呼んでいるものがその旗立てである。知覚系は次のような論理に従う。手持ちの情報を考慮すると、90%の確かさで、いま見ているのは黄色だ(あるいは犬、雨など何でも)。従って私は、議論を進めるために、それが黄色であると言うことに決めてそのように行動する。「これは黄色かもしれない」と言い続けていたのでは、適切な行動思考の進路の次の段階を選択することができないからだ。つまり知覚を信念として扱うと訳が分からなくなる(そして決断ができず動けなくなる)。クオリアが変更不能であるのは、ためらいを排除して決断に確信をもたせるためなのだ。そしてこれは、まずどの特定のニューロンが発火するか、どのくらい強く発火するか、どこに発火するかによると考えられる。

「強くいきいきとしたクオリア(感覚)」は変更不能である。それは「ためらいを排除して決断に確信をもたせるため」である。逆に言えば、「ためらいを排除して決断に確信をもたせる」必要がある状況では、「強くいきいきとしたクオリア(感覚)」が生じる。

 

ちょっと区切りが悪いが、今回はここまで。