浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

野獣たち(フォーヴ) 色彩の奇行のなかで錯乱している

末永照和(監修)『20世紀の美術』(1)

最近、宇佐美圭司の「20世紀美術」を読み始めたばかりであるが、本書と並行して読むことにする。

ただ単に本書の内容を紹介・要約しようというのではない。本書の記述を参考に、「作品」を見て(WEB上でしかないが)、思うところを述べようというものである。(素人の入門者であるから、幼稚なことを言ったり、誤解したりするだろうが、それは本ブログのすべての記事についていえることだから、どうということはない)

 

第1章は「さまざまな表現主義」で、フォーヴィズム、ドイツの表現主義、オーストリアの表現主義者が取り上げられている。まず最初に「フォーヴィズム」である。

 

フォーヴィズムと言えば、アンリ・マティスであるが、彼の作品を観ても、全然おもしろくない。一体、何が良いのだろうか。

1905年10月、第3回サロン・ドートンヌ(秋の展覧会)の第7室で、強烈な色彩表現を示す一群の絵画が人目を引いた。マティス、ドラン…らの作品にはチューブからしぼりだしたままの、いわゆる純粋色による荒いタッチ、形体の単純化や大胆な変形がみられ、伝統的な写実的表現が消えていた。ただちに批評家ヴォークセルが「ジル・ブラス」紙上で、彼らを「原色の狂宴」のなかにいる「野獣たち」(フォーヴ)の集まりだと嘲笑的に書いた。それ以後、この画家たちと様式が「フォーヴィズム」(野獣派、野獣主義)と呼ばれる。

とくに中心人物とみなされたマティスは「帽子の女」などを出品して酷評され、批評家ジュフロワに「色彩の奇行のなかで錯乱している」と書かれた。

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さすがヴォークセルやジュフロワはうまいことを言う。私のように「おもしろくない」といっても、そんな感想は全くおもしろくない。

余談だが、wikipediaは、ヴォークセルが「あたかも野獣の檻(フォーヴ)の中にいるようだ」と評した、と書いている。これでは評価に値しないと言ったのか否かよくわからない。「嘲笑的」かどうかは、ヴォークセルの言葉の「解釈」かもしれないが、wikipediaの記述が「中立的」で、「客観的」で、「正確」と言えるかどうか。

 

彼らの芸術は、狂気の沙汰冗談であるとしか見えない(ルイ・ヴォークセル)

これは、「無理解」な批評か、それとも「素直な反応」か。

 

彼らはある明確な主張や目的を掲げて結成されたグループではなかった。それぞれが伝統に縛られない色彩の自立、感情の解放を求める態度で一致していた。彼らが同じ芸術的段階を経てきたからである。スーラ、シニャック、クロッスら新印象派の純粋色による点描、ゴッホの感動的な色彩による自己表現、ゴーギャンの野生の心と平面的な色彩様式に大きな啓示を受けていた。

フォーヴィズムは1903年頃から1907年頃にかけての短命な絵画傾向だった。当初の非難は激しかったが、先見の明のある画商たちに支援されるのも早かった。明確な理論や声明に支えられていなかったが、彼らの純粋色の鮮やかさ、筆さばきの激しさは、20世紀初頭に感じられた近代的なダイナミズムの気分に十分応えていたのである。彼らは青春の爆発を終えたかのように、その後は色調を変え、技法を変えながら、それぞれの方向へ進む。

先見の明のある画商は、「伝統に縛られない色彩の自立、感情の解放を求める」というようなフレーズで、そこに商機を見出したのかもしれない。

私には、「伝統に反発してみせる若者」たちの、一過性の「狂気」ないし「冗談」であったという評価が妥当な気がする。