浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

市場万能論(3) 投資、投機、バブル

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(5)

立岩 この『「資本」論』[稲葉の著作]について言えば、ある種ポジティブな、いま考え中っていう以上のメッセージを受け取ってしまう。それは誤読であるということで終わるんだったら終わっていいし、そこのところで私に対する批判的なコメントでもいいし、自説に関するなにがしでもいいし……。

稲葉がまともに答えないものだから、立岩はまた同じことを聞いている。

稲葉 状態原理に軸足を置いて考えずに、プロセス優位の考え方、歴史原理なりプロセス原理なり中心でものを考えてってことはその通りである。プロセスっていうのは状態から状態への移行としてしか定義できないので、状態的な思考はオミットできない。…これがいい状態だっていうきちっとした判断がちょっと難しいのでうまく作ることができなくて、とりあえず昨日より今日が良くなっていれば良しというふうなものの見方、考え方でもって、そういうことを許容するなり奨励するような社会の仕組みの方をまずよい仕組みと考えようと。その考え方でやっていますね。

状態原理と歴史原理については、前回、稲葉の説明があった。

  • 状態原理…「状態」即ちそこにおける人々の幸福や社会的分配の構造を評価の対象とする。
  • 歴史原理…「過程・手続」の適正さのみを評価の対象とする。ノージック新古典派経済学の場合、「過程・手続」が適正なら、社会の「状態」を改善しているはず、と期待している。

稲葉がここで述べていることは、「どういう状態が「いい状態」かを判断できないので、「昨日より今日が良くなっていれば良し」という考え方をしている」ということだろう。そして「そういうことを許容するなり奨励するような社会」がよいと言っている。私にはこれは「現状肯定」以外の何物でもないように聞こえる。さらに言えば、「状態」がどうのこうのという割には、「人々の幸福や社会的分配」のことをまともに考えていないように聞こえる。しかし、稲葉は「市場原理主義者」を批判する。

稲葉 なぜ経済学者は「市場は素晴らしい」と礼賛してきたかというと、「それはパレート最適に導くから、底上げするから素晴らしい」って言ってたわけですね。社会を豊かさにおいて底上げしないような市場は失敗してるというわけです。

パレート最適(パレート効率的)とは、

誰かの状況を改善しようとするとき,必ず他人の状況を悪化させてしまうような状況はパレート効率的であるという。全ての人の状況を同時に改善できるとき(あるいは同じことだが,少なくとも1 人の状況を改善でき,残りの全ての人の状況を悪化させないことが可能なとき),パレート改善の余地があるという。パレート改善の余地のないような状況がパレート効率的な状況である。(http://fs1.law.keio.ac.jp/~aso/micro/micro4.pdf

「社会を豊かさにおいて底上げしないといけない」というのが、当然の前提になっているようだが、その社会的な豊かさをどう測定するのかが問題である。(こんな基礎的なことは、とっくに承知の上で言ってるのだろうが、「いい状態が判断できない」などという発言を聞くと「ん?」となる)

稲葉 でも、完全競争的でかなり円滑にいってるような市場でも、システマティックに社会をドツボに追い込んでいくようなシチュエーションがある。いわゆるマクロ経済的な不況はその典型であるということです。そうなると、市場をうまくいってないときに無理やり使うのは、一種の倒錯なわけです。でもいわゆる「市場原理主義者」って言われる人たちは、結局そういう倒錯に陥っている。…市場は基本的に景気がいい時のほうがうまく働くし、「不景気のときには人間我慢を覚えたりする」なんてことは、すくなくとも一般論としては言うべきじゃない。だから「市場原理主義」じゃなくて、あくまでも道具としての市場を上手に使いこなすことを考えましょう、というわけです。これが結論として暫定的に言えるようになってから、…「社会がパレートの意味でいい方にいってるのか、悪い方にいってるのか」「人々が互いに足を引っ張り合い、食い合いをしてるのか、それとも食い合いではなく、ポジティブ・サムの、共存共栄状態にあるのか」という違いは、けっこうクリティカルな違いかなと言えるようになった。

どうも稲葉の話は分からない。理論的な話をしているのか、現実経済の話をしているのか。「マクロ経済的な不況」は、理論(完全競争市場)の話か現実(不完全競争市場)の話か。「市場原理主義者が、市場を、うまくいってないときに使う」とはどういう意味か。稲葉が言う「道具としての市場」とはどういう意味か。「市場」とは、もともと「道具」(制度)ではないのか。

不況とは、

経済の全体的な活動状態が沈滞していること,またはその時期のこと。不景気ともいう。反対に経済活動が活発であること,またはその時期を好況prosperityという。近代の歴史をみると,好況と不況が交互に,しかもある程度の周期性をもちながら現れてきているが,その現象を景気循環という。不況期には生産が減少し,雇用も減退する。さらに企業の倒産や失業が増加する。このような状況が経済全体に急激に現れるときのことを恐慌という。(世界大百科事典

という理解が一般的かと思うが、だとすれば、稲葉の言わんとすることは、不況時には市場に任せないで、政府による介入、財政政策等が必要ということだろうか。現在の経済のしくみで「良し」、ということだろうか。

稲葉 社会っていうのはダイナミックであった方がいいんだけれども、そのダイナミズムはある種の安定性の中になければいけない。例えば食い合いとか奪い合いとか殺し合いを含めたようなダイナミズムは受け入れたくないわけですよ、当然ね。

ダイナミックが「活動的」の意味であるならば、何を当たり前のことを言ってるのかと思う。

稲葉 単なるカオティックな混乱ではないけれどもダイナミックであるような状況、それはどういう状況なのか、それを次に考えていかなきゃいけないだろう。そういう意味で言うと、守らなきゃいけない秩序ってのはどうもありそうだというところに話は落ち着いてきていて、そういう意味で保守主義になっているなとは思うんですけど、ある原理原則はどんなひどい状態でも守んなきゃいけないんだっていうタイプの思考は絶対にまずい、というところに今のところ落ち着いてます。

稲葉のいう「守らなきゃいけない秩序」がどういうものかよくわからないが、「食い合いとか奪い合いとか殺し合い」が起こらないような秩序であるようだ。それは全く当たり前のことだと思うが、それを「保守主義」というのは、言葉の使い方がおかしいだろう。私は逆に「食い合いとか奪い合いとか殺し合い」が起こらないようにするのは、たいへんなエネルギーを要する難事だと感じている。

 

稲葉 例えば価格を固定するとか、取引を規制すると言うことに関しては、ぼくは原則的にはこれはまずい、緊急避難的なものとしてはともかく、まずいことが多いだろうと思う、農産物価格の固定とか、あるいは最低賃金制でさえ原則的にはまずいと言っちゃっていいんじゃないかと思います。

稲葉が「まずい」というとき、「原則的に」と留保条件をつけている。問題は、この「原則的に」の内容だろう。その内容を明確にしない限り、「まずい」と言っているのか、「まずくない」と言っているのかよくわからない。

 

稲葉 ものの値段は原則として融通無碍に動いている方がいいんだけれど、物価というマクロ的なわけのわからないものは、安定していなければいけない。そういう安定していなければいけないもの、守らなければいけないものがぼくのイメージとしてあって、例えばこれは取引しちゃいけませんとかね、このものの値段はここで決めますとかいうかたちの固定性はたぶんまずいんですよ。でもやっぱり安定していなきゃいけない。その安定性って何? どう定義するの? っていう明瞭な定義の仕方をもうちょって洗練していかなきゃいけないなと。

稲葉の言っていることがどうもよく分らない「わけのわからないもの」が安定していなければならない、とはどういう意味だろうか。わけがわからなければ何も言えないだろうに。

ただ雰囲気としては稲葉の言わんとすることは何となく分る。個々の物の価格はフレキシブルでなければならない。但し、個々の物の価格の総合である物価は安定していなければならない。しかし、その物価の安定のために個々の物の価格を固定してはならない。「安定しているべき物価」の定義を洗練しなければならない。ということかな。

現実には「物価」は明確に定義されている。

物価とは、通常個々の財の価格ではなく,経済全体での一般的な物価水準を指す。もちろん現実経済に一般的な物価というものが存在するわけではなく,それは統計的な指数(多くの財の価格の平均)によってとらえられるものである。たとえばどのような財の価格を指数に取り入れるかによって,消費者物価指数,卸売物価指数,GNPデフレーター等があり,これらはそれぞれ目的に応じて使い分けられている。(世界大百科事典

例えば、消費者物価指数は、

消費財の価格の変動を示す指数。基準時に対する価格の比率を各品目ごとに求め,消費支出額に基づいて加重平均した数値。(大辞林

このように物価は、マクロ的に「わけのわからないもの」ではなく、明確に定義されたものである。このような消費者物価指数が「安定」していることが望ましいのは直観的にわかる。では、どうすれば安定するのか。市場経済を前提とする限り、個々の物の価格を固定するというような非現実的な解はありそうもない。では稲葉は、そういうありそうもないことを仮定してそれに反対だといっているのだろうか。

物価の安定性? 例えば消費者物価指数の上昇が2%未満となるよう政策を打ちだすというようなことを想定しているのだろうか。(日銀は、2013年1月に、デフレ脱却のため、「物価安定の目標」を、消費者物価の前年比上昇率2%と定めた。なお、立岩・稲葉のこの対談は2005年に行われた。)

 

稲葉 確かに賃金が激変するってことは人の生活にとってよくない。雇用が不安定なのはよくないってことは明らかにある。法的にがっちり規制するのはよくない。だけど慣行として保たれてんだったら保たれている方がいい。この二律背反をどうするかということが、いま考えてる非常に重要なことです。

賃金が激変しないよう、そして雇用が不安定にならないよう、法的に「ゆるやかに」規制するのはよいのだろうか。「がっちり」規制するのがよくない、というのを聞くと、「ゆるやかに」規制するのはいいのだ、というふうに聞こえる。では、「がっちり」と「ゆるやか」の線引きはどうなるのか? よくわからない。不況時の解雇をどう考えているのか。不況時の就職難をどう考えているのか。

「慣行として保たれる」というのは何が保たれるのだろうか。雇用のことだろうか。大企業の終身雇用制のことだろうか。解雇法理のことを知って言っているのだろうか。

「二律背反」というのは、何と何が背反しているのだろうか。

 

稲葉 多くの商品の価格が激しく変動している。つまりは価格体系がマクロ的に不安定であるような状況[わかりやすいのはインフレやデフレ]では、個別の価格の変化が、取引を誘導してバランスさせるシグナルとして働いてくれない恐れがある。…厚生経済学が想定しているような理想的な価格メカニズムの基本は、ネガティブ・フィードバック、つまり一方に揺れたら反対方向への揺り戻しが起こり、全体として揺らぎが増幅されずに取引がバランスしていく、というものです。しかしこうしたインフレ、デフレにおいてはその反対に、揺らぎを増幅するポジティブ・フィードバック現象が起きている。

稲葉はただ単に表面的な現象を話しているような印象を受ける。インフレやデフレが(いつのまにか)生ずることを前提に話しているようだが、(市場)価格メカニズムとインフレやデフレとの関係(なぜインフレやデフレが生ずるのか)こそが問題だろう。私は、政府の介入がなければ、インフレやデフレは必然であるように思う(政府の介入があっても、インフレやデフレの回避が難しい局面があるように思う。不勉強でその理由を説明できないが…)

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稲葉は、「投機」についても話している。投機とは、

ある「財」を価格の低いときに購入し,価格が上昇したところで売却して,その価格差から利益を得ようとする行為。為替レート,土地,証券類,貴金属,穀物,鉱産物など,価格の変動が大きく市場での売買が容易なものであれば投機の対象となる。(ブリタニカ国際大百科事典)

投資手法に、「順張り」と「逆張り」がある。

近い過去から現在までの間に、相場が上がっている時に買い、下がっている時に売るやり方が「順張り」で、上がっている時に売って、下がっている時に買うのが「逆張り」だ。将来の相場を見通すことが出来れば、その見通しに対して順張りすればいいのだが、残念ながら、そのように好都合な事が出来る人はいない。

ファイナンス理論の世界の理屈で考えるなら、順張りが有利か、逆張りが有利かについては、結論が出ることはない。

株式や債券に投資する場合のような「投資のリスク」と、FX(外国為替証拠金取引)などを含むゼロサム・ゲーム的な外国為替のリスクを取る「投機のリスク」について、両者の違いが十分に理解されていない場合があるが、お金の運用を考える場合に、これらを適切に区別することは重要だ。但し、順張り・逆張りという観点にあっては、一方が有利だという固定的な結論が出ない点では、投資も投機も同じである。

https://www.rakuten-sec.co.jp/web/market/opinion/yamazaki/yamazaki_20120406.html

 

稲葉はこう言っている。

稲葉 経済の実態についての予想をもとに投資してくるんじゃなくて、ただ単に市場の中の値動き、価格の動きだけを頼りに、つまりはまっとうに予想して勝負してる投資家の尻馬に乗って儲けようという奴らが出てくる。そうするといわゆる「バブル」がおきるんですね。

会社や土地の将来性そのものに賭けるんじゃなくて、「とにかく現在値上がりしてるんだから、どんな会社(土地)だかよくわかんないけど、きっといい会社(土地)なのだろうから買っちゃえ」という、付和雷同の投資家たちが出てくる。そうすると問題の株価や地価が、本来の実体的な価値から大きく乖離して膨張していく。恐慌・不況の場合はこれと逆のことが起きるわけです。

稲葉の話を聞いていると、「順張り」の投資手法を取る者は、「まっとうに予想して勝負してる投資家の尻馬に乗って儲けようという奴」のようだ。そして彼らがバブルの元凶であるようだ。なぜ上がっているときに買うのか(下がっているときに売るのか)、それは、これから先も上がる(下がる)と予想しているからである(「逆張り」も、これから先に上がると予想するから買う。下がると予想するから売る。)。このような合理的思考で投資する者が、なぜ「投資家の尻馬に乗って儲けようという奴」と侮蔑されなければならないのか。(結果として、侮蔑している者が大損をし、侮蔑された者が大儲けするということがままある)。逆張りは「投資」で、順張りは「投機」とでも言うのだろうか。

株価や地価の「本来の実体的な」価値? そんなものがどこにあるというのだろうか。東京都中央区の銀座4丁目にある山野楽器銀座本店前の公示地価(日本一高い)は、1平方メートルあたり4010万円(2016年)だったが、「本来の実体的な価値」はいくらなのだろうか。公示地価と実勢地価は異なるが、例えば5000万円で買おうというものが現れたとすると、彼は「投資家の尻馬に乗って儲けようという奴」なのかどうか。

 

稲葉 こうしたバブル的取引があまりにも盛んになれば、それが先ほど指摘したインフレ・デフレと同様、市場経済全体のネガティブ・フィードバック・メカニズムを歪めることもありえます。株や土地、あるいは外国為替などの資産取引の市場では、そうしたバブルが生じやすいのです。

ですから、市場に対するある種の制限、投資介入は、必要なときがある。ただ、制限のしかたをどう理解していくのがいいか。…そういう中で国家のすべきこととは何なのかとかという問題が出てくるわけですね。

「バブル」をどう定義するかの問題はあるが、例えば、全国的に地価が高騰したら、どんな人にどんな影響があるのか、そこに言及しないで、「市場に対するある種の制限、投資介入」で済ましてよいのだろうか。何のための「制限、介入」なのか。「価格メカニズム」を維持することが目的なのだろうか。わからない。

 

立岩の問いかけに対して、稲葉はこのように応答している。明らかに立岩を批判していない。では、自説を積極的に展開しているか。素人にもわかるように、感心するような話があるのかな思っていたのだが…。

 

この後、立岩が少し話しているが、これは次回に。