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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

「8の字ダンス」をしているミツバチは、「意識」があるのだろうか?

ラマチャンドラン,ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(28)

ミツバチは、いわゆるミツバチの8の字ダンスを含む、非常に精巧な形式のコミュニケーションをすることで知られている。偵察係のミツバチは花粉のある場所を見つけると巣に帰り、精巧なダンスをして、巣の仲間に花粉のありかを示す。ここで、ダンスをしているミツバチは意識があるのだろうかという疑問が生じる。

ミツバチの8の字ダンスを聞いたことのある人は多いだろうが、ラマチャンドランのように「ミツバチに意識があるのだろうか」という疑問を抱いた人は少ないのではなかろうか。仮にそのような疑問を抱いたとしても、そんなことは科学では解明できないとして、科学で解明できることに集中するのが科学者なのかもしれない。

ラマチャンドランの話を聞く前に、ミツバチの8の字ダンスの話はおもしろいので、復習しておこう。次の説明が分りやすい。

昆虫たちは、主にフェロモンと呼ばれる気体の化学物質を出して、情報を伝達し合っているが、他にも、ホタルのように光を用いたり、セミのように大声で鳴いたり、いろいろな手段で情報交換している。それらの中でも、有名なのが、1967年にフリッシュ(Karl von Frisch)によって発見され解読されたミツバチの8の字ダンスである(彼はこの功績により1973年ノーベル賞を受賞した)。

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ミツバチは仲間の蜂たちに、新しく見付けた餌(花の蜜)のある場所を教えるために、巣箱の中で、8の字ダンスと云われる特殊な動きをする。その動きは、図のように、8の字を描くもので、真中の交差部分では激しく尻を振って歩く。これによって、巣箱から蜜のある花の方向と、そこまでの距離を示すのである。すなわち、 尻を振って歩く真ん中のジグザク線が、鉛直に対して作る角度により、蜜のある花の方向と太陽方向との角度を表し、尻を振る速さによって蜜の花までの距離を示す速く振るほど距離が近く、ゆっくりと振るほど距離が遠い。近いほど速く、遠いほど遅いと云うのは、車窓の風景である。近くにある電柱は飛ぶように後に流れてゆき、遠くにある山はゆっくりと動く。つまり、物差しで絶対的距離を測る代わりに、視覚的・感覚的に測定し表現するのである。(金谷信之)

http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/waggle_dance.html

この話を素直に受け取る(受け取らされる)のが、生徒である。ノーベル賞学者を疑えというのではなく、その説がどういう根拠で主張されているのかを理解する必要があるということは、いつ教育されるのだろうか。

Yahoo知恵袋の記事では、「ミツバチは、見て判断しているのではなく、音を聞いて、方向と距離を判断している」「ミツバチは、太陽の方向を認識していない」「ミツバチは、巣を出るとき、一番目立つ物体を記憶し、巣に帰る際も、目立つ物体をめがけて帰ってくる」という説を紹介している。(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1437354299

 

さて、ラマチャンドランは、次のように述べている。

ミツバチの行動はいったん作動すると変更不能であり、しかもあきらかに花粉のありかを表象する短期記憶に基づいて行動しているので、意識の3つの基準のうちの2つは満たしている。

意識の3つの基準とは? 

ラマチャンドランは、クオリアの特徴を3つ挙げていた。

  1. 入力側の変更不能性        (クオリアを伴う知覚は高次の中枢によって変更されない)
  2. 出力側の融通性               (生み出された表象をどうするかは決まってはいない。選択の余地がある)
  3. 短期記憶の保持               (短期記憶の中に、変更不可能な知覚像をもつ必要がある)

ラマチャンドランは、ここでクオリアの特徴を、「意識の3つの規準」としている。この言い換えに問題はないか。私にはこれは、ラマチャンドランの意識の定義のように思える。この3つをクリアしなければ「意識」とは呼ばないというわけである。

ミツバチの例では、1、3を満たしている。

あなたはここで、ミツバチは精巧なコミュニケーションの儀式をを行っているとき意識があるという結論に飛びつくかもしれない。しかしミツバチは、「融通のある出力」を書いているので、私の意見ではこれはゾンビである。別の言い方をすれば、たとえ情報が非常に緻密で変更不能であり、短期記憶に保持されていても、ミツバチはその情報に関してたった一つのことしかできない、たった一つの出力、すなわち8の字ダンスだけが可能なのだ。この議論は、情報処理の複雑さや緻密さだけでは意識が関与している保証にはならないことを示しているという意味で重要である。

ラマチャンドランによると、ゾンビとは、「盲目のダイアン」の手や指を正確に動かしている何かであって、それは、頭頂葉の「いかに経路」が正体であるという(ゾンビの姿が見えてきた! 「私」はどこにいるのか? 参照)。前回は、「いかに」経路=背側視覚路で、「腕を伸ばして何かを掴むなどの際に利用される、行動に関わる経路」である、という話であった(クオリアの特徴 ためらいと決断 参照)。

これは、話を面白くするために、「無意識の行動」に主体を想定して「ゾンビ」と呼んでみたのであろう(実は、意識とは関係ない神経経路の働きなのだが)。

ラマチャンドランは、「情報処理の複雑さや緻密さだけでは意識が関与している保証にはならない」ということに注意を促しているが、確かにそう思う。精巧なロボットが「意識」を持っているとは誰も言わないだろう。

しかしこのように書くと、直ちに次の疑問が生ずる。「私やあなた[人間]は、意識を持っていると思い込んでいるだけで、実はゾンビが支配しているロボットではあるまいか?」

これは「意識」をどう定義するかに関わってくるように思われる。ラマチャンドランの意識の定義に納得できるか

 

私の考えが意識に関する他の説よりも有利な点の一つは、以下のような疑問に曖昧さを残さずに答えられることだ。ミツバチはダンスをしているときに意識を持っているか。夢遊病者は意識をもっているか。…アリはフェロモンを検出するときに意識を持っているか。以上のどの場合も、意識にはさまざまな程度があるという曖昧な主張(これが標準的な答えである)をすることなく、指定された3つの規準を適用するだけでいい。…「意識」という言葉の正確な意味をめぐる際限のない意味論的なこじつけを回避することができる。

ラマチャンドランはこのように述べているが、私にはまだ分からない。「意識」に関して述べているいろいろな論者の主張を聞いてみなければならない。…私がいま思っていることは、「意識を持っているかどうかは、意識をどう定義するかによって異なってくる。意識という言葉に「正確な」意味というものは無い。何を解明しようとしているのかによって「妥当」かどうかが決まってくる。ラマチャンドランがしているように、意識概念を分節することは有効だろう」というものである。

 

ここであなたは「これはクオリアが脳のどこにあるのかについての手掛かりになるだろうか?」という疑問を持たれたのではないだろうか。意識の座前頭葉にあると考えている人が多いが、これは驚くべきことだ。前頭葉に損傷があっても、クオリアにも意識そのものにも劇的な変化はないからだ――患者の人格が大きく変化することはあるが。私はむしろ、意識の活動の大半は側頭葉にあると言いたい。意識の乱れを生じることが最も多いのは、側頭葉の障害や過活動によるものだからだ。例えば物事の重要性を見るには偏桃体その他の側頭葉の部位が必要であり、これは間違いなく意識の存在に不可欠である。この組織がなければ、あなたは、ある要求に対して一つの正しい出力をするだけで、自分がしたり言ったりしていることの意味を感じる能力のないゾンビになってしまう。

クオリアと意識が、網膜レベルの知覚処理の初期段階に伴うものではないことに異議を持つ人はいないだろう。また、行動が実際に行われるときの運動計画の最終段階にも伴っていない。クオリアと意識は処理の中間段階に伴っているのだ――安定した知覚表象(黄色、犬、猿など)がつくられ、それが意味(あなたがそこから最適なものを選べる、行動のための無限の含意と可能性)を持つ段階である。この段階は側頭葉とそれに関連する辺縁系で行われる。この意味で側頭葉は知覚と行為の接点である。

このラマチャンドランの主張に、私は何とも言えない。ラマチャンドランの言う「意識」とは何か。これまで「意識」とは何かを、明確に説明した箇所はなかったように思う。

意識は処理の中間段階に伴う」という。中間段階とは、「安定した知覚表象がつくられ、その知覚表象が意味を持つ段階」であるという。意味とは、「あなたがそこ[知覚表象]から最適なものを選べる、行動のための無限の含意と可能性」であるという。これは随分と抽象的な言い方である。「最適なもの」とは何か。「行動」とはどのような意味の行動か。「無限の含意と可能性」とは何か。「人間」の「意識」のことを考えているのか。もう少し詳しい説明がないと分らない。

ラマチャンドランは、意識の座がどこにあるのかに興味があるらしく、それは前頭葉でなく、側頭葉にあるということを説明しているが、これは省略する。私が知りたいのは、前頭葉であれ、側頭葉であれ、そこでどのような機序で「意識」なるものが生じているのか、ということである。

 

ここまでは哲学者が「クオリア」問題と呼ぶもの――プライバシーの本質に不可欠の、言葉では表現できない心的状態――について考え、これを哲学の問題から科学の問題に変えようと試みた。しかし私たちは、クオリア(感覚の「生の感じ」)のほかに、自己(あなたの中でクオリアを実際に感じている「私」)についても考えなくてはならない。クオリアは同じコインの表裏である。誰にも感じられずに自由に浮遊しているクオリアなどあり得ないし、クオリアをまったく欠いた自己というものも考えられない。

ラマチャンドランは、ここでクオリアを実際に感じている「私」=自己についても考えなければならないと言っているが、「自己」とは何か?

しかし自己とは何だろうか? あいにくなことに「自己」という言葉は「幸福」、「愛」といった言葉に似て、それが何でどんなものかは誰でも知っているが、定義をするのはおろか特徴をきちんと言うことさえ難しい。水銀のように、つかもうとすればするほど逃げていく。あなたは「自己」という言葉から、どんなことを思い浮かべるだろうか? いま私が「自分自身(私の自己)」という言葉について考えてみると、さまざまな感覚の印象と記憶を統合し(統合性)、私の人生を「管理」することを要求し、選択をする(自由意志を持つ)ものであり、空間的・時間的に単一の存在として存続しているものだと思える。またそれは自らを社会的文脈のなかにはめ込まれたものとみなし、自らの収支決算を行い、葬儀のプランまで立てようとする。私たちは実際に(幸福の特性を列挙するように)「自己」の特性を列挙したリストをつくり、それぞれの局面に関与する脳組織を探すことができる。そうすることでいつか私たちは、自己や意識についてより明確な理解を手にすることができるだろう――ただし私は、自己の問題について単一の「解答」が…はなばなしくクライマックス的に登場するとは思わない。

ラマチャンドランは、「自己」について、「それが何でどんなものかは誰でも知っている」と述べているが、それは「自己についてきちんと定義することはできないが、日常生活で「自己」や「私」という言葉を不都合なく使えている」ということだろう。

「自己とは何だろうか?」の問いに、唯一の解答はないかもしれないが、その問いを放棄しないで、ラマチャンドランがしているように、「自己を特徴づける特性」を探ってみてもよいだろう。…それは次回に。