浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

ヒュームの法則は論駁されたのか?

加藤尚武『現代倫理学入門』(16)

<……である>から、<……べきである>を導き出すことはできないか の話の続きである。

加藤は、自然主義的誤謬批判の立場とサルトル(フランスの哲学者、1905-1980)の実存主義とは、まったく変わりがないとして、サルトルの説を簡単に紹介しているが、簡単すぎてよくわからない。また、サルトルの説を紹介して、加藤は何を言いたいのかもわからないので、省略する。

 

 「女は女らしくすべきだ」と言うことには、実は論理的な誤謬は何も含まれていない。「……である」から、「……べきである」を導き出そうとしたと言うこともできない。

「Aなのだから、Bであるべきだ」と言うことには、何の理由もないが、「女だから女らしくしろ」と言うと、まるでAであることがAであるべき理由となるみたいな表現の面白さが生まれる。普通「……である」から、「……べきである」を導いたから、論理的に間違いだと言われる文章では、論理的な間違いの形をしたレトリック(強調表現)が使われているだけである。

 「……である」から、「……べきである」を導いたとしても、論理的に間違いだとまでは言えない。「価値前提」を省略した表現であるかもしれない。通常の話し合いでは、「どうしてそう思うのか」と問いただすことによって、話は進行する。それをレトリック(強調表現)と言っても良いかもしれないが、省略形とみたほうが適切だろう。

 

ジョン・サール(1932-)が、「……である」から「……べきである」を導き出せると主張しているという。

この例文[省略]は、「ジョーンズは、約束を言明した以上は払うべきだ」と言うのと同じである。「その支払いは約束である。ゆえに、支払うべきである」と言ってもいい。「その支払いは約束である。ゆえに、その支払いは義務である」と言い換えれば、「約束は義務の一種である」ということの言い換えに過ぎない。「……である」から「……べきである」を導き出すことができないというヒュームの法則は論駁されたと言うこともできるし、論駁されていないと言うこともできる。問題は「約束」と言う言葉の扱いである。

制度を外から語って「……の約束である」ことは、中から語れば「……べきである」となる。「制度、習慣、約束、義理、黙約……は義務の一種である」と言えるような単語が、明示的もしくは暗黙のうちに使われているのであれば、「……である。ゆえに……すべきである」と言うことができる。その限りではヒュームの法則は彼の表現した形式では、間違いである。だからヒュームの法則を訂正して、「<制度、習慣、約束、義理、黙約……は義務の一種である>と言えるような単語が使用されている場合を除いた場合には、ヒュームの法則は正しい」と言わなければならない。これらの 単語では言葉の意味の中に「……べきである」という内容が含まれている。そこで「<……べきである>という内容が含まれていないような言葉に関しては、<……である>から<……べきである>を導き出すことができない」と言わなければならない。これは正しいが、馬鹿げた同語反復である。

Xは義務の一種である。義務とは「……べきである」(……しなければならない)ということである。従って、「Xである場合には、……べきである」。

確かに、馬鹿げた同語反復である。しかし、同語反復だと知ったところで、「……である」から「……べきである」を導き出せる場合もあるし、導き出せない場合もあると言うこと以上の何が得られただろうか。

 

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先に本書を離れて、ウェーバーとシュモラーの価値判断論争について概観した。(事実認識と価値評価(1)(2)(3)参照)。価値判断論争とは、「……である」と「……べきである」の問題である。私には、それが解決された問題であるとは思われない。…現実の諸問題に即して、「……である」と「……べきである」を考慮すること。そういった問題意識が無ければ、「……である」と「……べきである」の議論を本当に理解したことにはならないだろう。(上の写真を直視して下さい)。

ところが、いざ現実の問題を考えようとすると、そのあまりの複雑さに困惑してしまう。そこで問題の一部に集中して議論する。もはや「……である」と「……べきである」の混同おかまいなしである。…私はこの問題に関しては、先日より読み始めた伊勢田哲司『哲学思考トレーニング』の読書ノートで考えていきたいと思っている。

 

ヒュームの法則は同語反復であるから正しい。この法則によって覆されるような道徳説、道徳的立場は存在しない。存在論的自然主義が成り立つ余地はある。事実と権利の運動関係の表現も論理的誤謬とは関係ない。価値判断をまじえない純粋に形式的な手続きだけを使って、正しい価値判断の基準を導き出そうとする試みは、どれも成功していない。

「この法則によって覆されるような道徳説、道徳的立場は存在しない」とは、どういう意味か。加藤は、先ほど「約束」のような言葉が含まれていなければ、ヒュームの法則は正しいと言っていたはず。だとすると、「約束」のような言葉を含まない「……である」から「……べきである」を導くような道徳説、道徳的立場は存在しない、というのは、「論理的に」存在しないと言っているのか、歴史的現実としてそういう道徳説、道徳的立場を知らないと言っているのか、よく分らない。

「事実と権利の運動関係」も何のことか分からない。いま初めて聞いた。

「価値判断をまじえない純粋に形式的な手続きだけを使って、正しい価値判断の基準を導き出そうとする試みは、どれも成功していない。」というが、私はその試みがどういうものか知らないし、加藤はその試みがどういうものかを説明していないので、「どれも成功していない」と言われても、説得力がない。

 

加藤は、<制度、習慣、約束、義理、黙約……は義務の一種である>と言えるような単語が使用されている場合について、ヒュームの法則[<……である>から、<……べきである>を導き出すことはできない]を論じているので、これに拘り「契約」について民法の議論を始めると、議論の射程を狭めることになるだろうと思う。そうではなく、「格差問題」のような「価値」に関わる問題を真剣に考えることが、重要である。<……である>から、<……べきである>を導き出すことができるかどうかが第一義的な問題ではない。そのような「価値」に関わる多くの問題をどのように扱うべきかがまずは問題であろう。