気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

不平等論(1) 「機会の平等」と「結果の平等」

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(6)

今回から、「第3章 なぜ不平等はいけないのか」に入る。

立岩 分配を考えるときに、それを強制を介さないで行うのがよいか、強制があってよいと考えるかで分かれる。…権利ということを少しだけでも強い意味で受け取るのであれば、義務を果たすと言うことは、各々の意志・恣意とは別になされなくてはならない。いやでも人の権利のための義務を果たさなければならない。そこで強制力が要請される。そこで国家が出て来ざるを得ない、というのが一つ。

分配の話で、「強制」という言葉が出てくると、それは「国家による強制」というニュアンスがあるようだ。「自由」を重視する者は、それに反発する。しかし、こういう対立図式は時代遅れの感がある。…「国家による強制」というのは、「私たちが決めたルールは守りましょう」ということなのに、「自由」を旗印に、それに反対する。その「ルール」を誰が、どのように決めたかが重要であるのに、それを問題としない。…ちょっと待て。先走りしないで、二人の話を聞こう。

 

立岩 もう一つは、個々別々の国境を介した国家の中でそれが十全に行われるか。これもしかじか考えると、そうはならないだろう。だから、実現可能性はさしあたって別として、国境を超えたかたちで分配なり再分配なりが必要になってくるだろう。

「国」という単位で物事を考えるのは、「自分だけが、幸せに楽しく過ごせればそれで良い」という考え方の延長線上にある。「自分たちだけが、幸せに楽しく過ごせればそれで良い」というとき、「たち」をどの範囲まで広げるか。家族、友達、趣味のグループ、会社、組合、職業団体、グローバル企業、町内、市、県、国、連邦国家、経済共同体、国際連合世界市民…。「国」は中間組織の一つにすぎない。何事も「国」単位で考えることは、「自分たち(日本人)だけが、幸せに楽しく過ごせればそれで良い」ということであり、今日の相互依存の世界を考えれば、極めて不自然な考え方であろう。従って私には、分配/再分配の問題をグローバルに考えなければならないというのは、当然のことのように思える。

 

生産への寄与・貢献について、立岩は次のように言う。

立岩 現実の社会の中では、いろんな人がいろんなかたちで資材を提供したり、働くにしても分業して働いている。そういった場合には、ある生産物に対して、労働という形で、あるいはお金の提供と言う形で、資材の提供と言う形で、どの人がどれだけの割合で貢献したのかと言う話が、いったいどういうふうにちゃんとできるんだろう。ちゃんとやればできるのかもしれないけれども、ぼくなんかにはよくわかんないぞってところがあって、そのへんから、この話ってけっこう難しいんじゃないのってことは一つあった。

民間企業が生産する物への各自の寄与・貢献については、企業会計上は、財務諸表等が会計基準等に準拠して作成されるので、貢献に見合う対価の支払いがきちんと(1円単位で)計算される。資材は「材料費」、労働は「人件費」、お金は「支払利息」、土地は「賃借料」といった具合である。しかし立岩がここで「よくわかんないぞ」と言っているのは、かかる会計上の意味ではない。例えば人件費、「貢献」に応じて給与・賞与等が決められているか。そんな「貢献」は誰も測定していないし、給与・賞与等は「貢献」とは別の要素によって決められている(「貢献」を恣意的に決定して反映させることはあるが)。生産物の生産にあたり、お金がどれだけ「貢献」したかなど誰にも分からない。支払利息は、借入金×利率で決まるが、利率は「世界全体の経済状況」から決まるとしかいいようがない。そんなものが当該企業の当該生産物にこれだけ「貢献」したと言えるはずもない。資材にしても、土地にしても同様である。一般的に言えば、取引価額は「数量」×「単価」で算出されるが、「単価」は生産物の組成要素ではない。つまり「貢献」を把握することはできない。これは私見であり、立岩の「よくわかんないぞ」と違うかもしれないが…。

立岩 それからもう一つは、仮に、ある生産物に対する個々の人の貢献というか寄与分みたいなものが明らかになったとしても、そのことと、その全部を、あるいはそれに応じた分を本来取得すべきであると言う話は別の話のはずである。…そもそも生産したもの、あるいは生産に寄与した分について、それが生産者に帰属すべきであるという話自体が疑いの対象、吟味の対象である。

立岩のこの話を理解するには、現代の企業を想定するより、もっと原初的な場面を想定した方が良いかもしれない。狩猟採集時代に、Aがイノシシを捕獲してきたら、そのイノシシはAのものか。(Aのものとは、Aに帰属する、Aが排他的に利用・処分できるという意味)。Aの捕獲を見ていたBが、Aを殺傷し、イノシシを取得したら、そのイノシシはBのものか。ちょっと考えれば分かるように、この状況では(法が存在しない)、Aのものとも、Bのものとも言えない。誰のものと言うためには、「法」の存在が必要だろう。その法は誰がどのように制定するのか。

ある物を生産するのに(イノシシを捕獲するのに)、誰がどれだけ貢献したかは自明ではない。イノシシを捕獲するのに、素手ではなく道具を使ったとすると、その道具の作成者の貢献をどう測定するか。イノシシ捕獲に貢献したAの筋肉を作った食料の生産者の貢献をどう測定するか。

 

立岩 もともとこの話は最初から、どういう社会状態が良いのか、それとも良くないのかってっていう話である。…どういう原理・基準でものを考えていくか。…たとえば平等に関しては、機会の平等と結果の平等がある。ジョン・ローマーは、搾取という言い方はやめとこうという話をしたうえで、機会の平等の方に話を持っていくが、そこでいいのか、それは違うだろうっていうのがある。直観的なものだが、機会の平等になんかならない。では代わりに何を言うのか。

立岩は、「機会の平等」に否定的であるようだが、なぜなのか説明がないので、いまのところ立岩の考えについて何とも言えない。

機会の平等結果の平等について、

競争の出発点の条件を等しくすること。一般に平等には機会,資格,権利など形式的処遇における等しい取扱いを求める「機会の平等」と,諸個人の社会的相互作用の結果生じた富や社会的影響力の不当な格差を是正しようとする「結果の平等」とがあるが,機会均等はこのうち前者の平等を支持する論拠として用いられることが多い。(ブリタニカ国際大百科事典)

機会の平等」論が、形式的な平等を説くのみで、能力等の差から生じる格差を受け入れよと主張する(あるいは、能力等の差から生じる格差を無視する)ことが妥当か否かが問われている。

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稲葉 ローマーの平等論を考えるうえで参考になるのが、ロナルド・ドゥウォーキンの議論である。…ドゥウォーキンは、①人間の外にあるモノとか情報(external resource)とかの所有において格差がある。②人間の性質、素質、いわゆる身体的・精神的能力その他(internal resource)の所有においても格差がある。私は、この外的・内的両方のリソースの平等にコミットする、という。…で、ローマーの仕事というのは、ドゥウォーキンなんかの議論を受けて、それをソリッド(堅固)な数理的な土俵にのせようというものである。しかし、ドゥウォーキンが言うところのリソースへの平等と言う概念がコンシステントな(首尾一貫した)ものとして成り立たないんじゃないかと考えて、それで「機会の平等」なんてことを言っている。ちょっとひねりがある。それに対して、吉原直毅さんのやってることは、ローマーによるドゥウォーキンのモデル化っていうのは実は肝心なところでツボを外している可能性が極めて高いので、何かまだやりようはあるんじゃないかということで、それを経済学の土俵でソリッドにしていこうと考えている。

立岩 彼らの間で、かなりの論点において差異があるってことはその通りだと思うんですが、それは措いといて、彼らの中のいく人かが、なんでオポチュニティ(機会)に拘るのかっていう、そこのところは稲葉的に解説するとどうなるんですか。

「なぜ、オポチュニティ(機会)に拘るのか?」これが立岩の関心事である。彼らが、本当にオポチュニティ(機会)に拘っているのだとしたら、それは私も知りたい。

稲葉 アマルティア・センは、問題とするに足る社会理論というのは、…すべて何らかの意味で平等主義的なはずだと言う。ある種の格差を正当化するに際しても、この人はこれぐらい儲かってていいけど、この人はこれぐらいでしょうがないよっていうときに、一人一人の人間を一人としてカウントして、基本的にはある種の同質性を共有した人間同士でありながら、その上でいろんな差異が発生して、その中には正当化できるものもあれば、正当化できないものもある、っていうような議論に発展するわけで、一番最初の出発点で、ある種の人と人との同質性を前提とする議論は、すべて平等主義って言い方をしている。

ただ単純な議論の出発点としての平等主義というのは、方法としての、あるいはメタ倫理的な平等主義にしかすぎないわけで、そこからもう少し踏み込んで、もうちょっと具体的な社会の制度の構想に入り始めるときに機会の平等」っていうのは、今のところ我々が手にしてる一番ミニマルな規範的な平等概念なんじゃないのかなと考える。で、「機会の平等」というのはどういうものかといったときに、…人間がある場所にやってくるとか、ある制度の前に登場したときに、誰であっても無差別に取り扱うというありようが制度として正しいとか、あるいは人のふるまいとして、具体的には政治的な主体のふるまいとして正しいとかいう公準を出してくると、これは「機会の平等」なのかなと。

稲葉の話は分かりにくい。

機会の平等」が、「ミニマルな規範的な平等概念」というのは、例えば、「人種・信条・性別・社会的身分・経済的地位又は門地によって、教育上差別されない」というような、いろいろ問題はあるかもしれないが、最低限これ位は言っておかねばならない規範だ、というような意味だろうか。

「人間がある場所にやってくるとか、ある制度の前に登場したとき」と言うのは、随分と抽象的な言い回しだが、「競争」により誰かを選抜するという制度(ルール)があるときに、その参加資格に制限を設けず、無差別に取り扱うということ以上の何かを言っているのだろうか。(参政権も念頭にあるのかもしれない)。

「誰であっても無差別に取り扱うというありようが…政治的な主体のふるまいとして正しい」というのは、「政治的な主体のふるまい」が何を意味しているのか分からないので、意味不明である。

稲葉は最初に、アマルティア・センを持ち出して、彼の「平等主義」が「機会の平等」につながっていくような話をしているが本当にそうなのだろうか。

立岩の質問、「なぜ、オポチュニティ(機会)に拘るのか?」の回答として、「機会の平等は、ミニマルな規範的な平等概念である」という以上のことを言っているのだろうか、よく分らない。

 

稲葉 いわゆる「分配の平等」とか「結果の平等」は、そこからもうちょっと踏み込んで、いろんなものを付け加えていく。人がある制度の前に立った時、無差別に取り扱われるだけじゃダメであって、その人に何か荷物なり、スキルなり、手段なり、具体的なものをかぶせていった方がいいんじゃないかという議論である。いわゆる功利主義的な「結果の平等」、ドゥウォーキンの言葉によれば「ウェルフェアの平等」というのは、その発想の行き着く果てに、むしろ逆に何を持ってるかじゃなくて、結果としてそういう社会に参加して生きていく中で、どういう喜びを得るか、幸福になるか、ならないかという点に関して、その幸福を量って格差を減らしていくのがいいんだっていうタイプの議論である。これも我々がいま知っている中では一つのわかりやすい極限点、終点になるような議論である。要するに機会の平等功利主義的な平等っていうのが、我々の知るところでのある両極になっていて、その間の広いスペクトルの間に、いろんな理論がちらばっているという感じだ。

「その人に、何か荷物なり、スキルなり、手段なり、具体的なものをかぶせる」とは、どういう意味か分からない。

功利主義的な結果の平等」とは、どういう意味か分からない。功利主義の概念に、「結果の平等」が含意されているのだろうか。

「要するに、機会の平等功利主義的な平等とが両極にある」というが、これを「要するに、機会の平等と幸福の平等とが両極にある」と言い換えたとしても、「機会」と「幸福」を両極におくというのは、全く意味不明である。

この後、稲葉は、ロールズやドゥウォーキンやアマルティア・センについて、なにか喋っているが、いったい何を言いたいのか分からない。

 

立岩 解説としては、皆さんそんな感じでわかりましたねっていうことでいいと思う。そこからどこへもっていくかなんだ。稲葉さんとぼくの対談ということでもあるんで、前回もかなり突っ込んだところなんだけれども、稲葉さんはどこに立ってるのっていう話があるのね。それをいろいろ根掘り葉掘り聞こうとしているわけだ。

残念ながら、私は「そんな感じで」わかりませんでした。

今回も肩透かしを食らった感じだ。

 

(注)引用は、文意を損なわない程度に、僅かに変形したところがある。