気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

私は「操り人形」か?

ラマチャンドラン,ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(29)

ラマチャンドランは、「自己を特徴づける特性」について、ポスドクの研究生ウィリアム・ハ―スタインと、以下のようなリストを作った。

  1. 体現化された自己
  2. 感情の自己
  3. 実行の自己
  4. 記憶の自己
  5. 統合された自己-意識に一貫性を強要し、書き込みや作り話をする自己
  6. 警戒の自己
  7. 概念の自己と社会的自己

 

一つ一つみていこう。

体現化された自己

自己は一つの体に固定されている。目をつぶると、空間を占めているさまざまな身体部位がいきいきと感じられる。これがいわゆる身体イメージである。…私たちは、頭頂葉にある神経回路と、それが投射する前頭葉の領域が、身体イメージの構築に大きく関係していることを知っている。これらの組織が一部でも損傷されると、身体イメージに甚だしいゆがみが生じる場合がある。こうした患者は、自分の左腕を母親の腕だと言ったり、あるいは自分が立ちあがって歩き始めても左半身は椅子の上に座っていると主張したりする。これらの例を見ても、あなたが、あなたの体の「所有者」だというのは幻想であると納得できないとしたら、何をもってきてもだめだろう。

「体現化された自己」というのは、聞きなれない言葉である。これは「身体イメージとしての自己*1の意味だと理解すればわかりやすい。

「あなたが、あなたの体の「所有者」だというのは幻想である」というのは、ちょっと難しい。この文の「あなた」「所有」という言葉の意味が明確ではない。「私」に置き換えてみよう。「私が、私の体の「所有者」だというのは幻想である」というのは納得できるだろうか。

「私の手」「私の耳」「私の心臓」という言い方をする。日常会話で、これで不都合はない。この手、耳、心臓は、私の身体であり、「の」は「所有」を意味する。従って、この身体(手、耳、心臓)は、私の所有物であり、私は、この身体(手、耳、心臓)の所有者である。これが普通の言葉の使い方である。…しかしラマチャンドランは、これは幻想であるという。その根拠は「脳組織の損傷」である。その根拠は説得力があるだろうか。ある種の脳神経損傷者が使う「所有」の用語の使い方(その腕は私のものではない、その左半身は私のものである)をそのまま(言葉の使い方として)認めるから、おかしな結論になるのであって、そのような言葉の使い方は普通しない。だから正確には、ある種の脳神経損傷者は、一般的な言葉の使い方ができないということであって、それ以上のことは言えない。「あなたが、あなたの体の「所有者」だというのは幻想である」とは主張できない。…この反論は説得力があるかどうか。

ラマチャンドランとともに「これは幻想である」と言えないものか、考えてみよう。「この手は、私のものである」…この言明を言い換えれば「私はこの手の所有者である」となる。それゆえ、最初の言明を考えてみる。「私」という言葉が問題である。「この手」という身体部位と「私」はどういう関係にあるのか。「私」とは「身体部位の全体」のことか、「こころ」のことか、「意識」のことか、「脳」のことか、「脳神経の構造と機能の全体」のことか。「私」を厳密に定義しない限りは、「この手は、私のものである」という言明を厳密に検討できないだろう。すなわち、「この手は、私のものである」だけでは、意味不明な言明である。…しかし、これでは「幻想である」を支持するものであるとは言えない。

では今度は「私」ではなく、「(私)のものである」という「所有関係」に注目してみよう。私が「こころ」であるとしたら、「こころ」が手を所有しているのだろうか。おかしい。それに「こころ」って何? 「意識」も同じ。私が「脳神経の構造と機能の全体」だとしよう。だとすると「脳神経の構造と機能の全体が、「手」を所有している」となるが、意味不明である。脳と手が何らかの関係を以て作動しているのは、間違いないだろうが、それは「所有」関係ではない。即ち「あなたが、あなたの体の「所有者」だというのは幻想である」というのは、「あなたが、あなたの体の「所有者」だというのは適切ではない」という意味である。この結論は、言葉の使い方を言ったものであり、何ら新しい知見をもたらすものではない。

 

感情の自己

情動のない自己というものを想像するのは難しい――そういう状態が何を意味するか想像することさえ難しい。何かについて、その意味や意義(含意)を理解できないとしたら、それを本当に意識として認識していると言えるだろうか。したがって(辺縁系や偏桃体が関与している)情動は、自己の本質的な局面であり、単なる「おまけ」ではない。

情動とは「喜び、怒り、悲しみ、楽しさ、恐怖、不安、羨望、失望、羞恥、希望などのような感情」であると理解しておこう。だとすると、自己に本質的なものであるというのは、経験的に了解できる。

ラマチャンドランは、このような情動が、脳のどの部位と関係しているかをやや詳しく説明しているが、要約すれば、側頭葉にある偏桃体その他の辺縁系が関与している、と述べている。

偏桃体は最高次の知覚表象をモニターし、「自律神経系のキーボードに指を措いている」。何かに対して情動的に反応するかどうかの判断や、どんな種類の情動が適切かの判断を下す(蛇に対する恐怖、上司に対する怒り、子どもに対する愛情など)。また、島*2からの情報を受け取っており、その情報の一部は皮膚だけでなく心臓、肺、肝臓、胃などの内臓からの感覚入力による。だからこそ「内臓的、植物的な自己」、あるいは何かに対する「内臓的反応」というものがある。 

辺縁系がおもに情動に関与しているなら、辺縁系に起こった発作で抽象的な思考が生じる傾向があるのはどうしてなのか。脳には抽象的な思考を生み出して操作する領域があるのだろうか。側頭葉てんかんには解明されていない問題が多々あるが、これもその一つである。

「内臓的反応」というものが、何か重要な意味を持っているようでもあるし(大した意味はないかもしれないが)、覚えておこう。

情動が脳の特定部位と明確な関係を持っている、ことは明らかになってきたと言えるのだろうが、脳の特定部位をいくら顕微鏡で観察しても「情動」が見つからない、というのが「心身問題」なのだろう。

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実行の自己

古典的な物理学と現代の神経科学は、あなたが〈心も含めて〉決定論的なビリヤード球の宇宙の住人であると言う。しかしあなたはふつう、自分を操り人形のようには感じない。自分で自分を管理しているように感じる。しかし一方で、体の制約や外界の制約を考えれば、出来ることと出来ないことがあるのは明らかである。脳のどこかにこれらの可能性の表象があり、指令を作成するシステム(前頭葉帯状回と補足運動野)が指令できることと出来ないことの区別を認識しているはずだ。全く受け身で無力な「自己」は自己とは言えないし、なすすべもなく衝動によって動かされる自己も同様である。自己はただ存在するためだけにも、自由意志を――ディ-パック・チョプラが「無限の可能性がある普遍的な場」と呼ぶものを――必要とする。より専門的には、意識的な認識は「行動に対する条件的レディネス」と記述される。

面白い。「ビリヤード球の宇宙の住人」「操り人形」…どこかで使いたい表現だ。あえて補足するまでもないだろうが、念のために書いておこう。

古典的な物理学や現代の神経科学は、唯物論である。心は「物質の働き」で説明できる。物質世界では因果法則が成り立つ。つまり「ビリヤード球の宇宙」である。私たち(生命、上記の意味で心を持っていると言っても良い)は、その宇宙の住人である。そこに因果法則が貫徹しているならば、私たちは、<何か>に操られていると言ってもよい。より一般化して言えば、私たち=生命=物質は「流動」している。物質はなぜ流動するのか。分からない。分からないから、流動の原因を「何か」とし、根本原因を「神」と称するのである。…私は、この推論を「批判的に」検討したいと考えているのだが、慌てずにゆっくりと行こう。

人はふつう自分が「操り人形」だとは考えていないだろう。「哲学者」や「宗教家」は、このように考える傾向があるようだが、それ以外にも、意外とこのような考えに引き付けられる人が多い。「うまくいかないとき」「病気になったとき」「年老いてきたとき」「希望が持てないとき」「孤立していると感じるとき」…自分の人生は、いったい何なのか(何だったのか)、走馬燈のように思いがかけめぐり、私は「影」(操り人形)にすぎないと観ずる。…私はこのような「事態」を望ましいものとは考えない。だからこのブログを書いているのである。

 

ラマチャンドランは、「意識的な認識は「行動に対する条件的レディネス」と記述される」と述べているが、この意味がわからない人は「教養」がない。実は、私は「教養」がないので、調べてみた。1930年頃から使われた心理学用語だそうである。

レディネス(readiness)…教育や学習が行われるためには、対象となる学習者にある程度の素地が必要とされる。心身の機能が、ある行動や知識を習得できる段階まで発達し、学ぶ準備が整う状態をレディネスという。レディネスがない状態で教育・学習を行うと、効率が悪いばかりか、マイナス効果を及ぼす場合もある。(ナビゲート ビジネス基本用語集)

学習が効果的に行われるためには、学習者の側に、身体的にも心理的にも学習にふさわしい素地が用意されていなければならない。このような知能、知識、技能、体力、興味などの学習に必要な準備状態を総称してレディネスとよぶ。レディネスが学習者の側にできていないと、その学習は無効に終わるか、少なくとも非能率的にならざるをえない。…確かにレディネスは学習の前提条件であるが、同時に学習によって形成される場合も少なくない。(滝沢武久、日本大百科全書

ラマチャンドランが言わんとすることを、以下のように解する。…自分が「操り人形」ではないとすると、「自由意志」を必要とする。「自由意志」は「意識的な認識」と言い換えられる。何らかの「自律的な行動」をとるためには、その準備が整っていなければならない。その準備とは「意識的な認識」である。これを「行動に対する条件的レディネス」と呼ぶ。

逆に言えば、「意識的な認識」が出来ない人は「自律的な行動」をとることのできない「操り人形」である。「意識的な認識」には、学習(教育)が関わってくる。

本項(実行の自己)における重要テーマは、「私は、操り人形か否か?」である。

 

以上を満たすためには、脳は外界やそこにある様々な物体の表象だけでなく、身体の表象を含む自分自身の表象も持たなくてはならない。この機能的に導かれる局面が、自己というものをわけのわからないものにしている。しかも選択をするには、外界の物体の表象と(運動指令系を含む)自己の表象が相互に作用しなくてはならない。(彼は上司だ、殴るな。これはクッキーだ、手の届くところにある。)

「彼は上司だ」は、(単純に言えば)外界の物体の表象である。「手」(身体)を持っている「私」(体現化された自己)は、彼を殴ることが出来るが、「自律的な行動をする」私(実行の自己)は、「殴るな」という禁止命令を出す。

あなたがチェスをしているとき、実行の自己と体現化された自己が両方とも働いて、女王の次の動きを組み立てるあなたを女王であると推定する。そしてあなたはたちまち自分が女王の中にいるように感じる。それは単なる言葉のあやで、実際にチェスの駒を身体イメージに取り込んだわけではないという意見もあるだろう。しかしそれなら、あなた自身の体も同じ「言葉のあや」ではないと、心から確信をもって言えるだろうか? もし私が女王をたたいたら、あなたのGSR[電気皮膚反応]はどう反応するだろうか。あなた自身の体を叩いたかのように、跳ね上がるのではないだろうか。もしそうなら、女王とあなたの体が厳密に区別されるという根拠はどこにあるのだろうか。チェスの駒ではなく「自分の」体と同一化している通常の傾向も、持続的ではあっても、約束事だとは言えないだろうか。親友や妻や夫や子どもに感じる共感や愛の根底にも同じメカニズムがあり、その人たちが文字通り自分の体になっているのではないだろうか。

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http://orig03.deviantart.net/0d09/f/2009/140/d/d/checkmate_of_the_white_queen_by_tanya_and_coffee.jpg

 

面白い。…チェスの女王(駒)は、私の身体である。それは(物理的にではないが)延長された身体である。それは、単なる「言葉のあや」ではない。

「私の身体」が「言葉のあや」であるか否か。これも「心身問題」の言い換えなのだろうが、このブログのテーマの一つである。

*1:身体イメージ…自己の身体に関する空間的な心像のことで、身体像と訳される。身体的自我、身体的図式(シェマ、スキーマ)などと類似の概念である。ボディ・イメージの研究は16世紀にパレが四肢の切断後に出現する幻肢(げんし)を観察したことに始まる。自分の身体も外部の対象と同じように認識の対象となる。外部の対象は見られ、触れられるものであるが、自分の身体はただ見られ、触れられるものであるだけでなく、その対象自身が見られ、触れられていることを感じ取る主体でもある。こうした身体知覚の二重の働きから、自分の身体の認識は、自我をつくりあげる基になっていると考えられるフロイトは、自我は究極的には身体感覚から、それを支えにして身体の表層に由来する感覚から生まれるという。もちろん、自分で自分の身体を全体として統一的に認識することはできないから、身体像は部分的なものになる。身体像が鏡像的に、あるいは他者との対比からつくられるとき、身体像は全体的なものになってくる。いずれにしても、自我の形成にとって重要な意義をもつものである。心身医学においては、神経性無食欲症(拒食症)に身体像の障害が指摘されており、身体像や身体自我のゆがみが病因の一つとして注目されている。(外林大作・川幡政道、日本大百科全書

*2:島…頭頂葉と側頭葉のあいだの溝の奥に埋め込まれた皮質組織