気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

正義論(1) 定言命法と功利主義

加藤尚武『現代倫理学入門』(17)

今回は、第8章「正義の原理は純粋な形式で決まるのか、共同の利益で決まるのか」である。正義論が、こんなテーマから始まるのはいささか奇妙な感じがするが、このまま読み進めていこう。(私の読書ノートは、できる限り、取り上げた著作に即して読み進めていこうという方針である。)

それにしても、「倫理学」の研究者や学生でなければ、このようなテーマに興味を持てないのではなかろうか。まあ、はっきり言えば、現実離れしているのである。どのような現実の問題意識からこのようなテーマを検討する必要があるのかの説明が最初にないと、そしてそれに共感しないと、単に「倫理学史」を学んで「わかったような気になる」のが落ちだろう。

 

表題の「正義の原理は純粋な形式で決まるのか」は、「正義の原理を、純粋な形式で決める(決めたい)」という以下のような立場に対する疑問形である。

近代の思想家には、「精神世界のニュートン力学」を築き上げたいという夢があった。そして善とか悪とか正義とかの問題に対しても、ユークリッド幾何学のような厳密な証明をしてみたいと願っていた。この立場は「厳密主義」と呼ばれる。「倫理的な命題もまた厳密に証明できる」という立場である。(P117)

カントは厳密主義を貫くということを、経験に依存しない純粋な形式だけの哲学を作ることで達成しようとした。嘘をつくな、人に害を与えるな、約束を守れ、人びとを正当に扱え、自殺をするな、勇敢であれ、困った人を助けよ、恩恵を受けたら感謝を表せ、自分の向上に努力せよ、節制を守れというような徳目は、みな実質的な道徳法則である。しかし、実質的な道徳法則は、どれもこれも正しいことを言っているかもしれないが、経験に依存しないア・プリオリ[先験的、経験に先立つ]の真理ではない。

「嘘をつくな、人に害を与えるな…節制を守れ」というような徳目は、家庭や学校や社会で生活していく中で、身につく(教えられる)徳目である。まず第一に、このようにバラバラに徳目を挙げられても、何が何だか分からない。ある徳目Xが示された場合、それは「徳目」と言えるのか。なぜそう言えるのか。既に認められている徳目Aと関連はあるのか。既に認められている徳目Bから派生する徳目ではないのか。第二に、例えば「人に害を与えるな」という徳目は、いかなる状況においても妥当な徳目なのか。「正当防衛」が必要とされるような状況においても、人に害を与えてはならないのか。ここに例示されているような徳目は、ある状況においては「遵守すべきではない」のではないか。第三に、一般に、「法」は、このような例外的な状況をも考慮に入れて制定されている。「法」は何の根拠もなく(体系的な思考もなく思いつきで)、このような徳目を取り入れて制定されているのだろうか。

私はこのような問題意識から、倫理的な命題に関しても、体系的な思考、演繹的な思考というものが必要なのではないかと思う。「正義の原理を、純粋な形式で決める」「ユークリッド幾何学のような厳密な証明をする」というとき、前者は「体系的な思考」を、後者は「演繹的な思考」を意味する、と考えることができるかもしれない。

このように考えれば、加藤の以降の話も興味を持って聞くことができよう。

 

カントは、次のような命令文が、「道徳法則の一般的な形」になると信じた、という。

君の格律が、普遍的な立法の原理となるように行為しなさい。

ではこれは「経験に依存しない純粋な形式だけ」の命令文なのか「正義の原理を、純粋な形式で決めた」ものなのか。この疑問について考える前に、この命令文の意味するところは何かを明確にしなければならない。

しかしこの命令文は難しい。研究者の解説を聞かずに、これを理解できる人はほとんどいないと思われる。もしこのカントの言葉を理解できている人がいたら(解説を聞いて理解できている人でもよい)、この命令文と私が上に挙げた問題意識の三つの点について、その関連をやさしい言葉で説明してほしいものである。

 

さてこの命令文の意味は、次のようなものであるらしい(専門書を読んだわけではない)。

格律とは「私個人の(道徳的)ルール」である(道徳的ルールというのは、善とか悪とか正義に関するルールの意味)。普遍的な立法とは、誰にでも通用するような「万人の(道徳的)ルール」である。それゆえ、この命令文の意味は、「万人に共通のルールとしてもおかしくないような、ある個人的ルールを定める。そしてそのルールにしたがって行為せよ」となるようだ。これは、自分さえよければよい、というようなルールではない。私はAというルールにより行為するが、あなたはAというルールで行為してはならない、というようなルールではない。ここでは、「万人に共通のルールとなる」という形式が大切であって、具体的にどのような内容のルールであるかを問わない。

 

この命令文は「定言命法(ていげんめいほう)」と呼ばれる。「仮言命法(かげんめいほう)」と対の言葉である。

仮言とは、「ある仮定・条件を設けてなされる立言」である。「一時的な、その場限りの、軽々しい言葉」の意味ではない。仮言命法は、「もし~ならば、~せよ(すべきである)」という形をとる。条件付きの命令である。

定言とは、「仮定・条件を設けず、無条件に断定する立言」である。定言命法は、端的に「~せよ(すべきである)」という形をとる。無条件の命令である。

カントは何故、仮言命法がダメと言い、定言命法を採用するのか。

カントは、純粋な形式だけで正義の原理を決めないと、エゴイズムに引きずられると考えて…

万人に共通のルールとなるようなルールでなければ(普遍化できないようなルールであれば)、やはりそれは「エゴイズム」のルールになるだろう。自分(や家族や仲間)さえ幸福になればそれで良い[私個人のルール]、他人が貧しかろうが、いじめにあおうが、病気になろうが、殺し合おうが、そんなことは知ったことではない、というのでは、それはやはり「エゴイズム」だろう。…こういう言い方をすれば、ほとんどの人がそんなエゴイズムはダメというだろう。しかし、このエゴイズムは実際には、例えばつぎのような形で現れる。「もしあなたが幸福になりたい(金持ちになりたい)なら、A大の大学院で、○○を学べ。そのためには、いま△△をすべきである」。ここには、いじめとか殺し合いとか、そんな言葉は一切でてこない。そんなことは「無視せよ」「関知するな」「誰かに任せておけ」ということであり、それを私は「エゴイズム」と言っている。

 

定言命法(無条件命令)として、具体的には、例えばどういう命令があるのだろうか。徳目の例として「人に害を与えるな」というのが挙げられていたが、ここでは「人を殺すな」という徳目を考えてみよう。これは、仮言命法(条件付命令)だろうか、それとも定言命法(無条件命令)であろうか。普遍的な立法の原理(万人に共通のルール)となりうるだろうか。…「戦争の場合は、人を殺してもよい」ということであれば、これは「もし戦争になったならば、人を殺せ(殺すべきである)」という仮言命法(条件付命令)となる。それとも、戦争であろうがなかろうが、無条件に「人を殺すべきではない」という定言命法(無条件命令)なのだろうか。…「いかなる場合も、人を殺すべきではない」と考える人は、これは「普遍的な立法」であり、定言命法(無条件命令)だと言うだろう。しかし、「戦争の場合は、人を殺してもよい」と考える人は、仮言命法(条件付命令)だと言うだろう。このように考える人がいるということは、「万人に共通のルール」とはならないわけで、「普遍的な立法」にはならないということである。では、これで問題は解決されたのか。解決されない。「いかなる場合も、人を殺すべきではない」と考える人は、以上のような論理でもって、その考えを変えることはないだろう。そこには「論理」ではなく、「信念」があるようだ。

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加藤は、「定言命法功利主義的な解釈」について述べている。

ミルはカントの定言命法をまったく功利主義的に解釈してみせる。そこに含まれるのは、次の2つのテーゼだと言う。

① 集団的な人類の、あるいは少なくとも無差別な人類の利益が、行動の道徳性を良心的に決定する場合に、行為者の精神の内になければならない。

② 我々はすべての理性的存在が採用して彼らの集団的利益に役立つような原則により、我々の行為を定めるべきである。

カントは「利益」を目当てにする原則は、たとえそれが多数の人や、普遍的人間の利益でも、道徳法則を生み出さないと考えていた。これに対してミルは、カントだって「集団的な、少なくとも無差別の人類の集団的利益に役立つこと」が道徳法則の意味だと認めざるを得ないと言っているわけである。実際、カントが「普遍的原理と個別的格率の一致」という形で考えて、完全に形式的でア・プリオリだと信じ込んでいた定言命法という仕組みが、本当はア・ポステリオリで、純粋に形式的というよりは「みんなの利益」だと考えた方が分かりがよい。そうすればカントが無理に定言命法で説明しようとしたことの説明がつく。

ミルのカント解釈①②を考えてみよう。わかりやすい表現にしたらどうなるだろうか。

①まず語順を入れ替える。「行動の道徳性を良心的に決定する場合に、集団的な人類の、あるいは少なくとも無差別な人類の利益が、行為者の精神の内になければならない。」…ある行為が道徳的であるか否かをどういうふうに決めるのか。それには「社会全体の利益=幸福」(社会構成員を平等に扱うこと)を、判断基準にしなければならない。

②私たちはどのように行為すれば良いのか。それは、「社会全体の利益=幸福」に寄与すると認められる原則(ルール)に依拠すべきである。

①も②も、ほとんど同じことを言っているように思う。では、カントの定言命法(無条件命令)は、このようなこと言っている(含意している)のだろうか。私は、先に定言命法(無条件命令)を、「万人に共通のルールとしてもおかしくないような、ある個人的ルールを定める。そしてそのルールにしたがって行為せよ。」と理解した。これにミルが解釈したような「社会全体の利益=幸福」は含まれているだろうか。それは「万人に共通のルール」をどう解釈するかによる。

加藤は「カントは「利益」を目当てにする原則は、たとえそれが多数の人や、普遍的人間の利益でも、道徳法則を生み出さないと考えていた。」という。これは誤解を招くような表現だと思う。ミルのカント解釈を読むと、カントは本当に加藤が書いているようなことを考えていたのかと思ったりするが、たぶんこういうことだろう。…すなわち、仮言命法(条件付命令)は、「ある目的のために(ある目的を望むならば)~せよ」という形をとるが、それはエゴイズムにかたむきやすい。そうではなくて、純粋に(それ自体として)善いと思われるルール(律法)、誰もが無条件に善いと考えるルール(律法)にしたがって行為することでなければならない。仮言命法(条件付命令)が多くの人によい結果をもたらしたとしても、それは仮言命法(条件付命令)が道徳法則として正当だということを示すものではない。

 

さて最初の「正義の原理を、純粋な形式で決める」「ユークリッド幾何学のような厳密な証明をする」の話に戻ろう。カントは、定言命法(無条件命令)によって、正義の原理を決めることができたのか。ユークリッド幾何学のような厳密な証明に成功したのか。…これだけの説明では断定的なことは言えないが、成功しているとは思えない。道徳の各徳目が、公理、定理、証明の形で示されれば納得できるかもしれないが、そんな説明は全くなかったように思う。

私は、この問題(問題意識は前述の通り)はカントに依拠して論ずるのではなく、法哲学が、現実の諸問題を念頭に置きながら、「法体系」の問題として論ずるべきものではないかと考える。(学問分野はどうでもよいので、「倫理学」が論じてもよいが…)