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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

自由(1) リバタリアニズム

平野・亀本・服部『法哲学』(22) 

今回は、リベラリズム(liberalism、自由主義)ではなく、リバタリアニズム(libertarianism、自由至上主義)の話であるが、その前に「自由」について簡単な説明がある。

私たちは特定の信仰を持つことを強要されない[信教の自由]、検閲に付されることなく自由に自分の言いたいことを表明できる[表現の自由]、同志をつのって団体を結成し、企業活動や政治活動に携わることが出来る[結社の自由]、思い思いの職業について働き[契約の自由]、生きがいを見出し、得た収入によって自由にものを買ったり、将来への投資にあてたりする[経済活動の自由]ことができる。

現実には、このような自由は制限されていたり、実質的に不可能ということもあろうが、少なくとも建前では認められている自由である。

こうした自由権は、中世の封建制秩序の下で「身分」に縛られていた人間が、近代の市民革命を経て、またその後の市民社会の発展の中で、平等に保障されるべき基本的な人権として憲法的保障を得るようになってきたものにほかならない。中世から近代への法制度の転換はまさに「身分から契約へ」(メイン)という標語で示される通り、身分制の桎梏を解き、独立対等な自由人として共同の営みに参加することを可能にした自由権の確立によって特徴付けられる。従って「自由」は、今日の法制度上最も重要な価値の1つであるといってよいであろう。

この記述に誤りはないのだろうが、もう少し詳しい話がないとわかった気にならない(本書の性格上、詳しい話は無理ということだろう)。なぜかというと、中世の封建制秩序の下で「身分」に縛られていた人間に、全く「自由」がなかったのかどうかわからない。信教の自由、表現の自由、結社の自由、契約の自由、経済活動の自由などの自由が全くなかったのかどうか、それとも「ある程度」は認められていたのかどうかが分からない。近代になって「自由権」が確立したというが、0から1になったというのか、以前よりは多く認められるようになったというのか、後者であれば「程度問題」になる。また、「法制度」と実態の差異はどうか、「西欧諸国」以外の地域ではどうかという論点もあるだろう。こう述べることは、私が不勉強で無教養だと告白しているようなものだが…。

 

この記述に誤りはないのだろうが、もう少し詳しい話がないとわかった気にならない(本書の性格上、詳しい話は無理ということだろう)。なぜかというと、中世の封建制秩序の下で「身分」に縛られていた人間に、全く「自由」がなかったのかどうかわからない。信教の自由、表現の自由、結社の自由、契約の自由、経済活動の自由などの自由が全くなかったのかどうか、それとも「ある程度」は認められていたのかどうかが分からない。近代になって「自由権」が確立したというが、0から1になったというのか、以前よりは多く認められるようになったというのか、後者であれば「程度問題」になる。また、「法制度」と実態の差異はどうか、「西欧諸国」以外の地域ではどうかという論点もあるだろう。こう述べることは、私が不勉強で無教養だと告白しているようなものだが…。

「自由」と「自由権」は異なる。自由権とは、法の枠内で保障された自由の権利である。自分の好き勝手に何をしても良いという自由はありえない。例えば「表現の自由」、他人の人権を侵害するような表現、公の秩序・善良の風俗に反するような表現は認められない(私が「認められない」と言っているのではなく、そのような表現を認めないということに社会的な合意が得られている、という意味である)。

したがって、私には「法制度上、自由権にはさまざまな制約がつきまとう」という言い方には、若干の違和感がある。「制約」ではなく、「法的に保証される自由は、この範囲に画定する」という自由の定義の問題であると考える。「制約」という言い方には、「本来、広範囲に認められるべき自由が、不当に制限されている」というニュアンスが感じられる。こういうニュアンスがあるからこそ、「そのように多様な制約が次々にかけられれば、そもそも自由権の主旨が損なわれる」という表現になるのだろう。

 

リバタリアニズムは、

制約は、規制権力の存在を意味し、規制権力の増大に伴う中央集権化と管理化が人々の自由を萎縮させ、ひいては社会の活力まで奪っている[と考える]。…様々な規制によって狭められた個々人の自由領域を拡大し、基本的な自由権に基づいて法秩序の再構築を図ろうとする。

「規制権力」と「人々の自由」に、対立関係をみる、ここにリバタリアニズムの特徴があらわれているようにみえる。「人々の自由を萎縮させ」「社会の活力まで奪う」ような「規制」とは、具体的に何であろうか。そのような「規制」は、「人々の話し合いによる自由の範囲確定の結果としての法制化」であるとは言えないのか。もし、このように言えるとしたら、「規制権力」という呼称は、当該法制に反対する者の相手に対する蔑称となろう。

他方、そのような「規制」が、「少数意見を無視した多数者(または独裁者/少数利益集団)による自由の範囲確定の結果としての法制化」であるとしたら、「規制権力」と呼んでいいかもしれない。

こう考えてくれば、問題は「権力」のあり方、「民主主義社会における意思決定のあり方」ということになろう。

 

もっとも、リバタリアニズムとみなされる理論にもいくつかの点で違いがある。国家に役割に関して、それを、防衛・治安及び裁判に限定する最小国家、加えて教育や医療、貨幣供給、福祉サービスなど、一定の機能まで含めて正当とする古典的リベラリズム、逆に最小国家の機能さえ民営化できるし、その方が望ましいとする無政府資本主義の考え方である。…注意を要するのは、リバタリアニズムの中に、現存の市場経済構造とその拡張を良しとする保守的な資本主義者ばかりでなく、権力的な介入・管理を好まない革新的な無政府主義論者が含まれていることである。

このように言われると、リバタリアニズムって何?ということになるが、平野は、次の3点に、リバタリアニズムとしての一致がみられると言う。

 ①個人的自由の擁護

 ②拡大国家に対する批判

 ③市場の優位性(市場の重視)

 

① 個人的自由の擁護

リバタリアンは個人の自由を擁護する。権力的強制・管理・介入に異を唱え、あくまでも個人の個人としての行動の自由・決定の自由・選択の自由・幸福追求の自由を重要視する。個人的自由への権力的介入はできる限り少ないほうが良いと考えるから、介入がたとえ本人自身のためになるとしても、あるいは少なくとも長期的に見ればそうなると考えられるとしても肯定されない。即ち、法的パターナリズムの否定につながる。

「行動の自由・決定の自由・選択の自由・幸福追求の自由」というとき、いかなる行動・決定・選択・幸福追求を考えているのか。「社会生活」の中での、行動・決定・選択・幸福追求ではないのか。「私の(個人の)」行動・決定・選択・幸福追求は、「私たちの(社会の)」行動・決定・選択・幸福追求を無視して良いのか。

「介入がたとえ本人自身のためになるとしても、あるいは少なくとも長期的に見ればそうなると考えられるとしても肯定されない」という。であれば、道路交通法における速度制限は、「個人の自由に対する権力的強制」である。「個人の自由」なるものを抽象的に考えないで、具体的に捉え、どのような社会ルールとしたらよいのかを考える必要があろう。「個人の自由」を「錦の御旗(価値前提)」として、そこから物事を考えるというのは、妥当であるとは考えられない。

例えば、定年後の生活に備えることを求める年金制度や、万が一の事故や疾病の時に比較的安価で治療が受けられるようにする健康保険制度は、個人の同意を得ることなく一律・強制的に掛け金の徴収が行なわれる限りにおいて正当化されない。また夫婦同姓を強いる家族制度や、不妊カップルのための代理母契約への規制、被害者なき道徳的犯罪といわれる売春、ポルノにたいする規制についても、一定の道徳的価値観を押しつけ、個々人の自由な選択を制約するものとして許されない。

公的年金制度や健康保険制度が、「個人の同意を得ることなく、一律・強制的に掛け金の徴収が行なわれる」などということがあるだろうか。民主主義的な手続きで決めた制度であっても、その制度に反対の意見を持つ個人の同意を得ることなく、一律・強制的に掛け金の徴収が行なわれるならば、その制度は正当化されない、というのであろうか。リバタリアンは「法制度の正当化」をどう考えているのだろうか。また、売春やポルノの規制は、一定の道徳的価値観を押しつけるものだろうか。売春やポルノは、「個々人の自由な選択」の範疇にあるものだろうか。あまりにも単純化した議論である。

こうしたリバタリアニズムの基礎には、価値相対主義個人主義の考え方がある。価値は主観的なものであり、個人の意欲と目的志向にかかっている。何が自分にとって大事なことかは、本人が一番よく知っている。それが尊重されなければならない。個人がなしうる選択を先取りして押しつけたり、伝統によるものであれ、多数者の共有感覚によるものであれ、一定の道徳的価値観を強制する法的規制は、個人的自律を損なうばかりでなく、自律権の侵害にもなっている、と考えるのである。

「価値は主観的なものであり、個人の意欲と目的志向にかかっている」という。そのような主観的な価値がどのように形成されてきたのか、個人の意欲や目的がどのように形成されてきたのか、そのことを少しでもまじめに考えたことがあるのだろうか。例えば、「私たちは、安全に平和に暮らしたいと考え、このルールを定めることにした」というとき、それは「一定の道徳的価値観を強制する法的規制」であり、「個人的自律を損なう」ものなのだろうか。

 

②拡大国家批判

リバタリアンはまた、社会主義国家や現代の福祉国家など、大きな政府をもつ拡大国家を批判する。権力的強制を用いて財の分配・再分配を統制し、個人権に不当な制約を課しているとみられるからである。例えば、ロールズの正義論は、福祉国家における財の再分配を是認し、再分配は「社会の最も不利な状況にある人々の利益を最大化する」ように実施されるべきであるとする格差原理を提示しているが、リバタリアンはこれを、累進課税制度を介した強制的な財の再分配メカニズムを正当化するものであると批判する。即ち、そこにおいては、租税制度という権力的な装置を介して、経済的に恵まれた状況にある人々から高い税率で租税を徴収し、相対的に恵まれていない状況にある人々へと財を移転していることになる。それは自己の努力によって高い収入を得ている人々の働きを社会全体のために手段として用いることを意味し、そうした人々に強制労働を課しているようなものだと批判する。

生活困窮者に対する「生活保護」は、租税制度を介して、財の再分配を行うことであるが、リバタリアンはこれを批判する。飢え死にしようが自殺しようが、そんなことは知ったことではないのである。のみならず、自分のカネを(税金で)取られることは、自分に強制労働を課せられたに等しいとまで言うのである。まったく唖然とする。実際こういう人がいるのである。(もちろん、表面的には社会福祉制度は必要だというのだが、内心苦々しく思っているのであり、課税逃れに腐心し、社会福祉の縮小には大賛成なのである)。

また、社会的正義を実現するために行なわれる福祉国家の様々な保護政策や優遇政策に対しても反対する。例えば、米作に対する補助金や税制面での優遇、公共事業への域内業者の優先的取り扱いや大規模店の出店を抑制するための規制など。保護政策は、法の下の平等の要請から保護領域を拡大せざるを得ず、保護は保護を呼ぶ。保護政策は、国家への依存心を強めて自立を遅らせるばかりでなく、市場に権力的に介入することによって市場機構のスムーズな作動を歪めることにもなる、というのである。

福祉国家様々な保護政策や優遇政策に対して反対する」ことが、何を意味するのかを考えているのだろうか。「強者の利益に反するから、反対する」ということになっていないかを考えたことがあるのだろうか。「社会的正義を実現するために行なわれる」政策であることを、どれだけ真剣に考えているのだろうか。社会的正義はどうでも良い、「市場経済」こそを信奉すべきである、というのがリバタリアニズムであるようだ。

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③市場の優位性(市場の重視)

リバタリアンは、市場は人間のもつ自然権を最もよく実現しうる場であり、多様な価値の追求を可能にして人間の可能性を引き出し、結果的に人間の社会を豊かにする、と考える。

アダム・スミスの古典的な説明では、利己心からする経済活動であっても、市場における自由な競争を通じれば、神の見えざる手に導かれて予定調和に至る。

思想の自由市場論によれば、何が真理か、何が真実にかなっているか、あるいは何が社会にとって最も価値を有することであるかは、市場における自由競争に委ねればわかる。様々な意見がせめぎ合う中で、間違ったこと・良くないことは批判され、淘汰され、最終的に生き残るものが真なるものへの近さを示す。重要なことは、開かれた議論の機会とその継続性を確保することである。

「市場は人間のもつ自然権を最もよく実現しうる場であり、多様な価値の追求を可能にして人間の可能性を引き出し、結果的に人間の社会を豊かにする」…何という美辞麗句だろう。ここでいう「市場」は具体的にどういう市場をイメージしているのだろうか。「豊洲市場」「東京証券市場」「一般競争入札」「労働契約」「労使交渉」「スーパーの食料品価格」「借入金利」「土地賃貸借料」……。

ここで言う「人間のもつ自然権」って何? よく分らないが、その自然権が市場で最もよく実現しうるとどうして言えるのか。「多様な価値の追求を可能にして人間の可能性を引き出す」などとどうして言えるのか。

「思想の自由市場論」なるものを持ちだして、自由競争は素晴らしいと言っているようだが、上で述べたような具体的な市場において、「自由競争」がどのように行われているのかを考えているのだろうか。

 

ノージックは「最小国家論」を説いているという。

ノージックは、自然状態において人間が有する自然権(生命・自由・所有への権利が含まれる)を最も侵害しない仕方で国家が設立されていく過程を論じ、最小国家が「メタ・ユートピア」たる性格を有する国家の最善形態であるとしてつぎのように述べる。最小国家は、「複数のユートピアのための枠組みである。そこでは、人々は理想的共同体の中で善き生についての自分自身のビジョンを追求したり、その実現を目指したりするために自発的に結集する自由を有しているけれども、他者に自分のユートピア的ビジョンを押しつけることのできる人間は1人もいない」と。市場における自由な競争とそれを理想的な仕方で保持しうる中立的な法制度――これがリバタリアンの説く法秩序の基本的な特徴である。

私は、ノージック著作を読んでいないので、これだけの紹介では何とも言えない。「理想的共同体の中で善き生についての自分自身のビジョンを追求する」というのは面白そうだが、彼が「市場」についてどう言っているのか知らないので、意見を述べることはできない。