気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

(権威に訴える論証)生物学者のKI教授によれば……

伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(4)

今回は、第2章「科学」だってこわくない-科学と疑似科学クリティカルシンキング である。

伊勢田は、①権威からの議論、②対人論法 について述べている。

 

ものごとを鵜呑みにしない、というクリティカルシンキング[CT、批判的思考]の立場から言えば、科学者(を自称する人)が言ったことだからといって鵜呑みにしていいというものではない。「科学者」や「科学的」という触れ込みの権威を鵜呑みにしてはいけない理由はいくつかある。ここでまず注意しておきたいのは、科学者と自称している人がすべて科学者だというわけではない、ということである。「科学的事実」を尊重する理由が何であれ、その理由を満たしていないような研究の結果まで「科学的事実」として受け入れる必要はない。「博士」やら「大学教授」やらという肩書も、それだけで知的権威を保障するわけではない。

肩書が知的権威を保障するわけではない(地位・学歴が権威を保障するわけではない)というのは、誰もが感じていることだろう(面と向かって言わないだけ)。地位・学歴にふさわしい言動がなければ、権威(authority)は醸成されない。こんなことは、言わずもがなだと思うのだが…。

 

クリティカルシンキング[CT、批判的思考]の教科書などでは、権威からの議論というものが間違った推論の代表例としてよく挙げられる。権威からの議論とは、ある主張をする根拠として「だれそれさんが言ったから」といって偉い人の発言を引用することである。「科学者がそう言ったから」というだけの根拠で、あることを主張するのも、極端にいえば権威からの議論の一種である。…権威からの議論はいつも悪いわけではなく、むしろ我々の生活に必要ですらある(後述)。しかし、最低限、その人が権威を持つとされる理由と、言っている内容の信憑性の間に相関があるのでない限り、権威からの議論は使わない方がよい。よく「有識者」などといって大学の先生などに社会的な問題についての意見を求めたりしているが、この場合、その人の権威と話題の間にどのくらい関係があるのか怪しいものである。また、「工学博士」なのに痩せ薬の効能について保証していたりするような場合も同じことが言える。

「科学者」は、ある専門分野に関して「権威」を持っている。当該専門分野外のことに関しては「権威」を持たない(素人である)。「科学者」が、専門分野外のことを発言しているとき、それは素人の発言であるから、「A先生によれば、~」などと、権威からの議論をしないほうが良い。真面目な議論をしているときに、こういう権威からの議論を持ち出されると、それだけで論者の識見を疑う。これはいいとして、もう少し考えてみよう。

一つは日常会話やエッセイなどで、「権威」を持ち出す場合(私は、ブログはエッセイのようなものと考えている)、文脈にもよるが、ある専門分野だけの厳密な話をしているわけではない。もやっとした話(広い視野での話)をしているのである。そのような場合に、いわゆる「科学者(専門家)」が、自分の専門分野の知見をベースに専門分野外の事柄にどういう意見を持っているかは知ることは興味深いことである。そういう「ものの見方」があったのかと気づかされるということがある。こういう意味で「A先生によれば、~」と、権威からの議論をすることには問題はないのではないかと思うのだがどうだろうか。

 

伊勢田は、今西進化論(ダーウィン進化論にいくつかの点で異論を唱える。内容は省略)を題材に取り上げている。

今西錦司*1以外の人が今西進化論を支持する際の議論は、あからさまに書けばこんな感じになるだろう。「生物の進化は、時がくればある種の個体が一斉に変化することで生じる。なぜなら、今西錦司先生がそう言っているからだ」。これは権威からの議論である。))以外の人が今西進化論を支持する際の議論は、あからさまに書けばこんな感じになるだろう。「生物の進化は、時がくればある種の個体が一斉に変化することで生じる。なぜなら、今西錦司先生がそう言っているからだ」。これは権威からの議論である。

この場合が権威からの議論を使って良いケースかどうかの判断は微妙である。確かに今西錦司は一流の生物学者であり、今西進化論は生物学の理論だから、彼の権威と発言内容には相関があるように思われる。しかし、もう少し細かく見ていくと、今西の権威はもっぱら生態学や霊長類学の分野で得られたもので、進化論と言う理論的な分野における業績で権威を得たわけではないここは権威からの議論を使うのに慎重になったほうがよい場面である。逆に、ダーウィンはまさに彼の進化論が定説化することで権威を得ており、彼の権威と主張内容の間に密接な関係がある。

伊勢田の主張(アンダーラインを引いた部分)を考えてみよう。「権威」なるものがどのようにして得られるのか。「進化論と言う理論的な分野における業績で権威を得たわけではない」と言うが、それは「大多数の進化論学者」が今西説に反対しているという意味か。仮にそうだとしたら、それは(生物学の学問内容の動向に無知な)外部の人間にどのようにしてわかるのか。伊勢田は、「ここは権威からの議論を使うのに慎重になったほうがよい」と言うが、「権威を得ているかどうかわからない」ならば、「権威からの議論を使うな」ということにならないか。「慎重になる」とはどういう意味か。

そもそもなぜ「権威からの議論」を行うかと言えば、その分野に無知か、自説の補強のためであろう。ならば、その「権威からの議論」は、的外れとか、間違っていると指摘すればよいのであり、その「権威からの議論」を行うなとか、慎重になれとか言うのはおかしいと思う。今西進化論は「権威を得られた理論ではないから、権威からの議論を使うな」というのではなく、「あなたの理解する今西進化論は、これこれの点でおかしい」と言えば済む話ではないだろうか。

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Wikipediaは、「権威からの議論」ではなく、「権威に訴える論証」という言い方をしている。こちらの方が分りやすい表現かもしれない。こんな記述がある。

専門家と同程度の経験・知識・スキルを自分で習得できず、専門家を信頼せざるを得ない状況は多々ある。外科医を信用するために、外科学の知識の詳細を全て知る必要はない。しかし、専門家が間違っていることもありうるので、その専門知識が主張の妥当性を保証するとは限らない。(Wikipedia)

私(非専門家)は、次のような態度が必要だろうと思う。…専門家を信頼するが、専門家が間違うこともありうる、と認識しておく。あるいは、専門家が間違うこともありうるが、それでも専門家を信頼する。

 

伊勢田は、次のような議論も紹介している。

権威からの議論は「偉い人が言ったから正しい」という議論だが、これと対照的なのが「こんなひどい奴が言うことだから正しいわけがない」という議論で、これを対人論法と呼ぶ。ラテン語の元の名前をカタカナ書きして「アド・ホミネム」な議論と呼ばれることもある。

対人論法についても、権威からの議論とまったく同じ注意があてはまる。その人の「ひどい」部分が当の主張内容の信頼性とリンクしているのであれば、対人論法にも意味があるだろうが。そうでなければそうした論法は有効ではない。…CTの観点から言えば、ある主張の良し悪しを判断するときには、主張している人を見て判断するのではなく、どういう証拠からそういう推論でその主張が導かれているか、という点を見るべきだと言うことになる。

Wikipediaは、「対人論法」ではなく、「人身攻撃」という言い方をしている。

権威に訴える論証の逆は、発言者の権威の欠如などを理由にその主張を偽であるとする人身攻撃である。

「肩書」を見て、その意見・主張の判断をする人が多い。世間一般に評価の高い「肩書」を持つ人の発言であれば、その内容を「批判的に思考」することなく受け入れてしまう。逆にこういう「肩書」を持たない人の発言であれば、その内容を「批判的に思考」することなく拒否してしまう。

 

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A(真)、B(偽)があって、「肩書を持つ人」が、A&Bを主張したとき、「権威に訴える論証」は、Bを主張することがある。「肩書を持たない人」が、A&Bを主張したとき、「対人論法」は、Aを否定することがある。

上の図はもう少し複雑なので、もう少し複雑な解釈ができそうで、なかなか面白い。特に、白円と各円の大きさにより、いろいろな想定が出来そうだ。

*1:今西錦司(1902-1992)…生物学者。人類学者。京都府出身。京大卒。京大,岡山大教授,岐阜大学長等を歴任。研究は昆虫類から霊長類にまで及び,動物生態学から種社会の概念を確立,ダーウィンの進化論を批判した。(百科事典マイペディア