気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

クオリア ホムンクルス(小人) デカルト劇場

ラマチャンドラン,ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(30)

ラマチャンドランは、「自己を特徴づける特性」について、ポスドクの研究生ウィリアム・ハ―スタインと、以下のようなリストを作った。今回は、4.記憶の自己~5. 統合された自己である。

  1. 体現化された自己
  2. 感情の自己
  3. 実行の自己
  4. 記憶の自己
  5. 統合された自己-意識に一貫性を強要し、書き込みや作り話をする自己
  6. 警戒の自己
  7. 概念の自己と社会的自己

 

記憶の自己

時間と空間を通して一人の人間であるという、あなたのアイデンティティは、ごく個人的な一つながりの長い記憶――いわばあなたの自伝――によっている。これらの記憶を一貫性のあるストーリーにまとめあげることは、自己の構築にとって不可欠である。…新しい記憶痕跡を獲得してまとめあげるには海馬が必要である。

アイデンティティとはどういう意味であるか確認しておこう。

自己同一性などと訳される。自分は何者であるか,私がほかならぬこの私であるその核心とは何か,という自己定義がアイデンティティである。何かが変わるとき,変わらないものとして常に前提にされるもの (斉一性,連続性) がその機軸となる。(ブリタニカ国際大百科事典)

個物や個人がさまざまな変化や差異に抗して、その連続性、統一性、不変性、独自性を保ち続けることをいう。哲学用語としては「同一性」あるいは「自己同一性」に同じ。(野家啓一日本大百科全書

時間の変遷にも関わらず同一として意識する私、Aという場所からBという場所に移動しても同一として意識する私、この連続性・統一性・不変性・独自性を保ち続ける自己意識がアイデンティティであると理解しておこう。そうすると、このアイデンティティが「記憶」に依拠していることは直観的に理解できる。そして、大脳辺縁系の一部位である「海馬」が記憶に関与していることが明らかになっている。…私は、このように言葉を並べてわかったような口をきいているが、実は分かっていない。「記憶」がどういうものか分っていない。「連続性・統一性・不変性・独自性を保つ」ということがどういうことか分っていない。「幼少期の私」と「現在の私」が、同じ「私」であるという直観(?)があるだけである。

 

記憶の自己が大きく乱れると、多重人格障害になってしまうことがある。…この障害は、統一の原理が機能不全になったものとみなせる。先にみたように、自分自身について、両立しない二つの信念と記憶があると、混乱や際限のない衝突を回避するために一つの体に二つの人格を作り出すしかない。…このシンドロームが自己の本質を理解する手掛かりとして適切であることを考えると、神経学の主流からほとんど注目されていないのは、驚くべきことである。…私たちはみな、自分の生活を点検評価し、自分のいる位置を確認する必要があり、それには重要な出来事を定期的に振り返らなくてはいけない。過書字[毎日の出来事をことこまかに日記に記録しつづける傾向]はこの自然な傾向が誇張されたと考えられる。

誰でも日常、脈絡のない物思いにふけることがあるが、もしそれに、多幸感[(麻薬などによる)過度の幸福感。陶酔感]を生み出すような小さな発作がしばしば伴うとすれば、物思いそのものが妄念や確立した信念となり、話でも文章でもそのことを何度も繰り返すようになるのではないだろうか。これと同じ現象が、熱狂や狂信的行為の神経基盤になっているのだろうか? 

(記憶の話とは関係ないかもしれないが)「これと同じ現象が、熱狂や狂信的行為の神経基盤になっているのだろうか?」という問いには考えさせられる。「熱狂や狂信的行為」を見聞するにつけ、彼らの神経組織の一部に「欠失」があるのではないかと思ったりする。もちろん、だからといって「異常」として排除しようというのではないが、何かそのあたりを解明しなければならないのかな、という気がしている。

 

統合された自己――意識に一貫性を強要し、書き込みや作り話をする自己

もう一つの自己の重要な属性は、統合性である。すなわち様々な属性の一貫性である。クオリアの話が自己とどうつながるのかを考える一つのアプローチ法として、例えば盲点の書き込みクオリアが生じるのはなぜかと問うことができる。多くの哲学者が盲点の書き込みはないと論じたそもそもの動機は、その書き込みを見る小さなホムンクルスが脳の中にいないからだった。彼らは小人がいない以上、前件も誤りであり、クオリアは書き込まれないと論じた。そう考えるのは論理的な誤りであるというのだ。 

この文章は、ラマチャンドランのこれまでの説明を覚えていないと理解できない。順にみていこう。

(1) クオリアとは、主観的感覚(「痛み」「赤」「トリュフ添えのニョッキ」といった主観的性質を感じる生[なま]の感覚)のことであった。かかるクオリアが、「自己」とどう関係してくるのか。

(2) 盲点の書き込み(充填知覚)について

あなたの視覚が正常なら、一面黄色の円板[黄色い満月]が見える。これはあなたの脳が、盲点に黄色のクオリアを「書き込んだ」ことを示している。…あなたは、ドーナツの中心部が黄色であるとただ推定しているのではなく、文字通り黄色として見ているのだ。(クオリアの特徴 黄色いドーナツと満月 参照)

クオリアが生じる」とか「クオリアを書き込む」とかいうのは、盲点に、黄色い満月を「推定」しているのではなく、文字通り「見ている」という意味だろう。

(3) ホムンクルス(小人)について。

ラマチャンドランが、あるカクテルパーティで、若い男性に「何かものを見ると、脳の中でどんなことが起こると思いますか?」と聞くと、

f:id:shoyo3:20161110192506j:plain

http://images.crateandbarrel.com/is/image/Crate/VineyardChampagneGlass9ozSHF15

 

彼は目を落として、手に持ったシャンペングラスを見た。「ええと、僕の眼の中にこのグラスの倒立像ができます。明暗の像が網膜の光受容体を活性化し、そのパターンが画素ごとに、視神経を通して送られ、脳のスクリーンに表示されます。そうやってこのシャンペングラスを見るのでしょう? もちろん脳は、像を正しい向きになおす必要があるでしょうが」

彼は光受容体や視覚について、なかなかの知識を持っていたが、脳のどこかにスクリーンがあって、そこに像が表示されるという説明は、重大な論理的錯誤のあらわれだ。もしシャンペングラスの像が、内部の神経スクリーンに表示されるとすれば、その像を見る小さな別人[精神]が脳の中にいなくてはならない。それにこれでは問題の解決にはならない。その小人[意識する私]の頭の中にも、表示された像を見る、さらに小さい別の小人[意識する私]が必要で、その小人[意識する私]との頭の中にも……と際限なく続くからだ。眼、像、小人[意識する私]と、いつまでもぐるぐるまわるだけで、知覚の問題を本当に解決することはできない。(第4章)(「ものを見ている」とは、どういうことか? 参照)

ホムンクルス(小人)がなぜ必要なのか。それは、シャンペングラスの像が脳のスクリーンに表示されると考えるからである。ではそのように考えることは誤りなのか。網膜には、左右逆転倒立像が映っているが、この情報(網膜の視細胞の刺激)が電気信号となって脳の視覚野に伝達される。だとすると小人は網膜の像をみていない。では視覚野にスクリーンがあり、そこに映し出される像をみているのか。…眼が見ているのではなく、脳が見ている。でも視覚野には信号が走り回っているだけではないのか。「見る」とはどういうことなのか。誰がシャンペングラスを見ているのか。何がなんだか分からない。

Wikipediaの助けを借りよう。「カルテジアン劇場」という項目に、ホムンクルス(小人)が出てくる。

f:id:shoyo3:20161110192743j:plain

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%99%90%E5%BE%8C%E9%80%80#/media/File:Infinite_regress_of_homunculus.png

 

カルテジアン劇場とは、伝統的な意識のモデル(意識のホムンクルス・モデル)を批判するために、アメリカの哲学者・認知科学者のダニエル・デネットが提唱した概念。人間の脳の中には小人(ホムンクルス)が住んでいる劇場があり、そのスクリーン上に経験された感覚的データが上映されるという発想をさす。カルテジアンとは「デカルトの」という意味の英語で、他にデカルト劇場デカルトの劇場などとも訳される。劇場の比喩を使うのは、脳の情報処理における「ひとつの統合的な脳の部位」があるということを示し、この主張は現在では多くの神経科学者が受け入れているデネットの1991年の著作『解明される意識』(Consciousness Explained) のなかで詳細が述べられている。

デカルト以来、哲学的伝統は精神と身体を異なる実体として考える心身二元論が主流となっていた。この伝統に従うと、人間の脳の中では、身体を通して経験された事柄を、劇場の中で鑑賞する小人(ホムンクルス)のような役割を精神が果たしていることになる。このような伝統的意識モデルのうちに暗黙に前提されているのが、身体とは相互排他的な関係にある実体としての精神という心身二元論なのである。そのように経験された感覚的データが小人の前で上映される架空の劇場のことを、デネットデカルト的二元論から派生した意識のモデルであるとして、カルテジアン劇場と名づけたのである。

ホムンクルスすなわち「意識する私」という中央本部のようなものを、脳の中のどこか(例えば特定のニューロン)に発見できるような思い込みを、デネットはギルバート・ライルに倣ってカテゴリー・ミステイクであるとしている。実際には、脳は情報を空間的・時間的に分散されたかたちで処理しながら意識を生産するので、脳の特定の部位を選び出して、特権的な意識の座と等価視することはできないのである。

カルテジアン劇場を根幹におく意識のモデルは、オーウェル主義的モデルとスターリン主義的モデルという、さらに二つの流れに分けられるとデネットは考える。いずれのモデルも、脳の中には特権的な意識のための座があって、そこの前で経験された事象が上映されるというデカルト的なモデルを前提として考えられているからである。(Wikipedia)

物体の「色や形や位置や運動」の情報が、眼→網膜→視神経→脳の視覚野という経路で伝達される。この視覚野という「脳の特定部位」における脳の働きが問題である。ここを「劇場」とみたて、「ホムンクルス(小人)=実体としての精神意識する私」が、劇場のスクリーンに写る「物体の色や形や位置や運動」を見る、という説明には、「なるほど」と思わせるものがある。しかし、これこそデカルト以来の心身二元論である。Wikipediaによると、「脳は、情報を空間的・時間的に分散されたかたちで処理しながら、意識を生産する」という。心身二元論がおかしいと言うのであれば、この「意識を生産する」とはどういうことなのか、を明確にしなければならない。

ホムンクルス(小人)を「意識する私」と解した場合、「意識する私」は存在するのか、存在しないのかWikipediaによると、デネットは「意識する私」は存在しないと言っているようだが、だとすると「意識を生産する」というときの「意識」とは何か。なお、「脳の特定の部位を選び出して、特権的な意識の座と等価視することはできない」という話は、「意識する私」の存在問題とは別問題だろう。…で、私には、まだ「ホムンクルス(小人)=意識する私」が存在するのかしないのか未だ明確にはなっていない。いずれにせよ、小人という言葉にとらわれないで、物質とは異なる「意識する私」(精神、こころ)の問題として考えることが必要だろう。(デネットの『解明される意識』は、いずれ読んでみたいと思う)

f:id:shoyo3:20161110193203j:plain

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/c3/10f269ce8948c0fa75e36f6c8a48e4a3.gif

 

ラマチャンドランの話に戻る。

盲点の書き込みにクオリアが生じるのはなぜか。…多くの哲学者が盲点の書き込みはないと論じたそもそもの動機は、その書き込みを見る小さなホムンクルスが脳の中にいないからだった。彼らは小人がいない以上、前件も誤りであり、クオリアは書き込まれないと論じた。そう考えるのは論理的な誤りであるというのだ。

盲点の書き込みにクオリアが生じる=盲点に黄色い満月を見るのはなぜか。ラマチャンドランは、多くの哲学者は、「ホムンクルス=小人(=意識する私)がいないから、黄色い満月を見ることはない」と論じた、という。このように言い換えてみると、何かおかしい。

「前件が誤り」というのはどういう意味か。…「クオリアが書き込まれるならば、ホムンクルスがいる。」という仮言命題の「クオリアが書き込まれるならば」が前件だという意味か。「黄色い満月を見るならば、ホムンクルスがいる。」という仮言命題なのか。「黄色い満月を見るならば、意識する私がいる。」という仮言命題なのか。おかしい。(「意識する私がいるならば、黄色い満月を見る」と言うのであれば意味が通じるが…)。こんなことを多くの哲学者が論じたとは思われない。

 

すると私がクオリアは書き込まれると論じているのは。私がホムンクルスのために書き込みが行われていると信じていることになるのだろうか? そんなことはない。この哲学者の議論はちゃちな議論だ。論考の流れは次のようであるべきだ。もしクオリアが書き込みをするなら、何かのために書き込みをしているはずだ。ではその「何か」とは何か?

クオリアが書き込みをするなら、何かのために書き込みをしているはず」という言い方は、適切ではない。「盲点に黄色い満月を見るのは、何かのためである」と言えばわかりやすい。ラマチャンドランは、その「何か」について述べている。

 その「何か」とは…前部帯状回を含む、辺縁系と結びついた実行プロセスではないか。…このプロセスは知覚クオリアを特定の情動や目的と結びつけ、あなたが選択をすることを可能にする。…書き込みは、それらの領域が辺縁系と適切に相互作用をできるようにするために、クオリアを用意しているのだと言える。クオリアが書き込まれる必要があるのは、ギャップがあると実行系の働きが邪魔されて、適切な反応をする効率や能力が減少するからだと考えられる。…では辺縁系のどこにコントロールのプロセスがあるのだろうか? 扁桃体が情動に中心的な役割を持ち。前部帯状回が実行の役割をもっているらしいことを考慮すると、それは扁桃体と前部帯状回からなるシステムではないかと考えられる。

 辺縁系とは、(「神の存在」という幻想(1) 参照)

辺縁系には、海馬・扁桃体・中隔・視床前核・乳頭体・帯状回などが含まれる。脳弓は長い神経線維束で、海馬と乳頭体をつなぐ。辺縁系は感覚や運動に直接かかわるのではなく、事象から抽出された情報や事象の記憶、事象に関連する感情などを扱う、中核的な処理システムを構成している

 

ラマチャンドランが主張しているのは、「盲点に黄色い満月を見る(クオリアを感じる)のは、辺縁系において、効率的な処理をし、適切な情動や行動につなげるためである」と要約される(のではないかと思う)。もしこの要約が正しければ、ラマチャンドランの議論からは、哲学的議論(心身二元論)が抜けている。ラマチャンドランは「ホムンクルス(小人)=実体としての精神=意識する私」の等号を認めないか、問題意識がないように見受けられる。