浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

不平等論(3) フェアプレイの精神

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(8)

前回、立岩は次のようなことを述べていた。(不平等論(2)効用の個人間比較を考える 参照)

(1) とりあえずミニマル…基本は「自由放任」、但し、競争に負けても、飢え死にしない程度の水と食料は与えよう。(生存権の保障)

(2) ここでやめときましょう…基本は「自由放任」、但し、同じスタート台に立てるようにしてあげよう。(機会の平等

(3) ウェルフェアにおいて一定の水準…私たちみんなが、(極端な不平等がなく)「それなりの生活」ができるようにしよう。(健康で文化的な[相応の]生活)

社会の目標としては、(3)が望ましい。これをどのように実現していくかが課題だ。

以上は、私なりの「まとめ」であるが、稲葉は立岩の主張を聞いて、次のように述べる。

稲葉 今の立岩さんのまとめは、いわゆる権利本位的リベラリズムの人たちの抱えている問題意識の根拠と危うさと両方ともうまく言ってくれてると思う。

私は、立岩の話を上記のまとめのように受け止めたのだが、同じ話を聞いても随分と受け取り方が違うものだなと思う。「権利本位的リベラリズム」って何? 「問題意識の根拠と危うさ」って何?

 

稲葉 個人的な効用(価値)の比較は困難かもしれない、…比較不能な価値の共存ということを大事にしよう、という立場を多くのリベラリストたちが採る。保守的なリベラリストやリバタリアニストが、「機会の平等」とか「最小国家」にコミットするのも、そうした「比較不能な価値の共存」のためには、国家の権限を抑制しなければ、との問題意識からなんだけれども、これに対して、むしろ最小国家」のもとでは比較不能な価値の共存はかえって堀り崩されてしまうから、一定の再分配が必要だってあたりに、多数派のリベラリストの言ってることは落ち着く。でもそれは中間的な折衷主義ではないのか。…[しかし、]中間にとどまることにはそれ自体積極的な意味があるのかもしれない。

機会の平等論者」や「最小国家論者」が、国家の権限を抑制しようというのは、本当に稲葉が言うように、比較不能な価値の共存のためなのだろうか(私は、機会の平等論者や最小国家論者の意見を直接聞いていないので、何とも言えないのであるが…)。最小国家論者は、いかなる価値であっても、その共存を認めるものなのか? 国家の権限を抑制するのではなく、拡大すべきと考える者との「共存」のために、「国家の権限を抑制しよう」と主張するのであろうか?

多数派のリベラリストが「「最小国家」のもとでは比較不能な価値の共存はかえって堀り崩されてしまう」というのは、「最小国家→自由放任の世界では、強者の価値観が優先され、弱者の価値観は放逐される。価値の共存は不可能」という意味かと思うが、これはもっともな主張ではなかろうか。

 

では、稲葉はこのような多数派リベラリストの主張をどう考えているのだろうか。

稲葉 ロールズの正義論は、正義を「フェアネス」(公正/公平)を中軸に考えようという話である。…僕の師匠の中西洋さんは、フェアネスは、ゴルフのハンディキャップだっていうんです。我々はある種のゲーム(ゴルフ、将棋等)において、ハンディキャップを制度化されたかたちで用い、システマティックに上級者と初心者が対等にゲームを楽しむための工夫ってものがある。しかしトップアスリートの間ではこれはない。…このある種の半端さの中にたぶん我々がフェアネスとぼんやり呼んでいるものが一つ確かに表れていると思う。

ゲームは我々の人生の一部であって、フェアネスを大事にするゲームは我々の人生全部じゃないけれども、我々の人生のわりと大事な一部で、フェアネス原理が本当に無根拠かどうかは全然明らかじゃない。人間の社会の全域を覆うわけじゃないかもしれないけれど、一部は現に覆ってるから、その一部を覆っていることには根拠があって、その根拠は意外と重要かもしれない、とここ何年も考えてるんですけど、まだ確たることは言えない。

 稲葉(←中西)のこの話は、なかなか面白い。正義を「フェアネス(公正)」で考えてみる。フェアネス(公正)を、「ハンディキャップ」を例に考えてみる。では、私も少し考えてみよう。

「フェアネス」と聞くと、スポーツにおける「フェアプレイ精神」が思い浮かぶ。(公益財団法人)日本体育協会は、フェアプレイについて、次のように説明している。

http://www.japan-sports.or.jp/portals/0/data0/fair/about/

フェアプレイには、2つの意味があります。

行動としてのフェアプレイ

ルールを守る、審判や対戦相手を尊重する、全力を尽くす、勝っても驕らず、負けてもふてくされたりしないなど、行動に表れるフェアプレイのこと。

フェアプレイ精神(フェアな心)

スポーツの場面に限らず日常生活の中でも、自分の考えや行動について善いことか悪いことかを自分の意志で決められること。自分自身に問いかけた時に、恥ずかしくない判断ができる心(魂)のこと。行動としてのフェアプレイは、誰が見ても善いと思われる行為です。一方、フェアプレイ精神は心のあり方によるものですから、他人からは見ることはできません。しかし、行動と精神は切り離せないもの。だからこそ、この2つのフェアプレイは、スポーツを真に楽しむ上で欠かせないものなのです。このフェアプレイの行動そして精神を、世の中に広げ浸透させることが、「フェアプレイで日本を元気に」キャンペーンの大きな目標です。

  

グリーンカード*1

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https://www.google.co.jp/search?q=Soccer%E3%80%80green+card&biw=1185&bih=935&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjPjPTu-bbQAhUEQLwKHUkADegQ_AUIBigB#imgrc=V15R8TUzpkeU2M%3A

 

そして、「フェアプレイ7カ条」を定めている。

フェアプレイの意味を凝縮した「フェアプレイ7カ条」を制定しました。スポーツにおいてだけでなく、ふだんの生活においても、自らの行動の指針として活用ください。

  1. 約束を守ろう
  2. 感謝しよう
  3. 全力をつくそう
  4. 挑戦しよう
  5. 仲間を信じよう
  6. 思いやりを持とう
  7. 楽しもう

 決して、平易な言葉だから「ありがたみ」がない、などということはない。自分の日常生活を振り返り、この7カ条に照らし合わせてみよ。難しい課題でもあるということに気づくだろう。

 

さて、ゲームにおいて、「ハンディキャップを制度化する」という話であるが、「ゲームを楽しむために、ハンディを設ける」というのは、ごく自然な行為のように思える。能力・技量の異なる者の間で、「一緒にゲームを楽しもう(共に人生を楽しもう)」というとき、ハンディキャップというのは、ひとつの「工夫」である。他にもいろんな工夫があるだろう。それらは「ルール」として定められる。それは「一緒にゲームを楽しむ(共に人生を楽しむ)」ためである。…私たちは「一緒にゲームを楽しむ(共に人生を楽しむ)」ということを忘れてはいないか。「人を蹴落としてもよい。勝負に負けた者など知らぬ。(弱肉強食の世界)」ということを肯定するような「ルール」が、「一緒にゲームを楽しもう(共に人生を楽しもう)」という願いといかにかけ離れたものであるか。フェアプレイといかにかけ離れたものであるか。そのことに思いを致さねばならない。

 

稲葉 でかくて最新鋭の設備を備えた賢い社員ばっかりの企業[A]と、しょうもないショボい、ボロい機械と冴えないやつらばっかりの会社[B]があったとして、両方がフェアに競争できた方がいいといったときには、別にショボい方にハンディキャップをつけるなんてことは、我々は要求しない。そういう意味ではノージックの言ってること(人生はゲームじゃない)に分があるような気もするけれど、でも確かに我々の人生はそれがすべてではなくて、スポーツを楽しんだり、将棋とかチェスとかいゲームを楽しんだりすることもある。それは所詮遊びだよと言われればそれまでですが、でも人間は遊びを必要としている、くだらない遊びを。そうしないと生きていけないわけだから。そうするとひょっとして重要なことがそこに隠れているのかもしれないけれど、よく分らない。

Aは大企業、Bは中小企業が多いだろう。そうすると、大企業と中小企業に差をつけた現実の政策を、「我々は要求しない」というとき、稲葉は「我々」に含まれているのだろうか。中小企業優遇税制や下請法での中小企業保護政策に稲葉は反対するのだろうか。

ノージックが「人生はゲームじゃない」と言ったのかどうか知らないが、上にみたように、人生をゲームに見立てることは意味のあることだと思う。「ゲーム」を「子どもの遊び」とみないで、人生のメタファーとするならば、「人生はゲームじゃない」などと稚拙なことは言えないだろう。

「人間は(仕事以外に)遊びを必要としている」のではなく、「人生は遊び(ゲーム)である」という見方が必要である。(仕事は遊びであり、遊びは仕事であり、仕事も遊びもゲームである)。

 

稲葉 スポーツとかゲームを考えたときに、我々はプロフェッショナルとかトップアスリートの間ではハンディが無くて、強い者が勝つ、あるいは運がいい者が勝つということを肯定する。肯定するんだけれども、そのときにそれを肯定する大部分の人間は観客なわけ。しかし…万人のためのものとしてのスポーツを万人が「見る」んじゃなくて、場合によっては自分で「やって楽しむ」という局面がある。…ゲームの楽しみっていうのは自分でもやるところにある。そのときにやっぱり上手と下手の差が隔絶していると楽しくないので、ハンディをつけましょうという形でゴルフとか将棋とかで、いろんなシステムが発達している。…プロ野球では、ハンディはつけないが、リーグ全体では戦力が均等になるようになっていて、どこが勝つかわからないからスリリングで楽しい。見るだけのスポーツにおいても、ある種の処置が働いている。

プロフェッショナルとかトップアスリートの間ではハンディが無いというのは、それは一定レベルを超えた者たちの間の競技だからである。そうでなければ、段級位を認定しての段級位別の競技となるだろう。通常、レベルが異なる者たちが競技することはないだろうし、もしそうなった場合にはハンディをつけることになる。…私たちの「人生ゲーム」における「競技」の場面でも同じことが言えて、レベルが異なる者の間では、ハンディをつけるルールで競技しようというのが素直な考え方であると思う。

 

稲葉 単にルールさえ守れば、後は何をしてでも勝つことが正しいというふうにゲームはなってなくて、それよりも大事な、単なる勝ち負けよりも大事なものがある、それは楽しさとか美しさだという考え方も実はプロスポーツにはある。単なる機会の平等以上の何か、それこそノージック的な形容を使えば、「付随制約」、横からやってくるタガとか制約としてのみルールを許容して、そのルールの前でみんな人は平等で、という以上の何かを我々は求めている。勝ち負け自体がないってことは求めてないけれども、ルールさえ守れば後は強いやつ、あるいは運のいいやつが勝つんだということだけでも満足しない。…スポーツの中で比較的目に見えてくるのは、実際にすることの楽しさ、美しさって形で見えてくるものですけど、これがスポーツとかゲームを超えたいわゆる「実社会」にいくと、とたんにぼやけてくる。かといって、「実社会」のはそういう「フェアネス」「フェアプレー」の精神が全然ない、とも思えない。

稲葉が言う「単なる勝ち負けよりも大事なものがある、それは楽しさとか美しさだ」は、非常に大切なことだと思う。先ほどの「フェアプレイ7カ条」にも「楽しもう」というのがあった。ゲームに限ることはない。「実社会」でも、「単なる勝ち負けよりも大事なものがある、それは楽しさとか美しさだ」というべきではないか。そこが「ぼやけている」というのならば、クリアーにして、「ルール化」すべきではなかろうか。

 

立岩は、稲葉のこの話を「すること」と「見ること」の話として捉え、そのうち「すること」にフォーカスし、次のように述べる。(上述の通り、私は必ずしもそのようには捉えなかった)

立岩 ぼくがいま考えているのは、生産財と、労働と、それから消費財いわゆる所得のレベルと、少なくとも3つのレベル、過程について、分配を考えた方がいい。

立岩の「労働」の話は、稲葉の「すること」の話と結びつく。

立岩 労働については全然いじくらない、つまり、雇われない人は雇われなくて当然ってことにして、それで済むのかっていうと、すまない。所得保障はするが労働市場そのものはいじらないってことでよいのかと、ぼくの場合は順番に考える。…それは良くないんじゃないか。…人間は働きたい、ところもある。金さえもらってれば別にいいんだって割り切り方もある。それもありつつ、労働というのは確かに労苦でもあるが、同時に何かしらしたい部分ってのがあったりもする。これは、誰かに騙されて働きたいと思うってだけじゃなくて、何かしたいってことは否定しなくてもいいと思う。

労働には、「誰かに騙されて働きたいと思うのではなく、何かしたいから働く」という次元がある。労働は「労苦」であるかもしれないが、「楽しさ」とか「美しさ」の次元もある。「何かしたい」というのは、カネ儲けしたいということではなくて、そこ(仕事)に「楽しさ」とか「美しさ」を認め、「生きがい」を感じるということである。仕事に「生きがい」を感じるなどと言うと、「会社人間」や「働きバチ」を想像するかもしれないが、決してそんなことはない。「仕事」をしたことのある人なら了解できるだろう。

 

立岩 すると、ぼくの場合は、労働を分配するとか分割するって話になる。フェアネスっていう話とぼくが今してる話は違うかもしれないんだけど、ただ稲葉さんの話を引き継いで言えば、そういった場面で人が何かに参加するって度合いは、今より均していくことはできるだろうし、そのやりようはあるだろうと思ってるんです。すると僕は、どうしてそうなってなくて、働けない人もいるし働く人もいるっていうふうになっちゃってるのかと考える。労働の総量を一定とすれば、それを人数分で割れば、一人一人の仕事の量はちょっとずつ減りつつ、働ける人は仕事につくって状態は可能ですよ。しかし実際にはそうなってない、そうなってないことの説明はいくつかできると思うけれども、そこのところは何かしらいじりようがあるだろうし、たぶん稲葉さん的にはゲームに参加したい人も含めていいんじゃないかなと思う。そうすると、すべきこと、してもいいことは、最終の部分でのいわゆる所得の再分配だけではなくて、労働の場面にもある。そしてこの二つは背反することではなくて、両方一緒にやってもいいことなんだろうと思っている。

労働の分配とか分割の話は、いまでは「ワークシェアリング」といったほうが通じやすいかもしれない。ワークシェアリングについては、いずれきちんと取り上げたいと思う。ワークシェアリングとは、

従業員1人当りの労働時間を減らし、その分で他の従業員の雇用を維持したり、雇用を増やしたりする試み。「仕事の分かち合い」と訳されることが多い。長引く不況で失業率が上昇した1970年代のヨーロッパで生まれた概念で、不況期になると、導入論が各国で持ちあがる。…ワークシェアリングは、不況時に従業員の数を減らさないようにする「緊急避難型」、社会全体として個人の労働時間を減らす「雇用創出型」、主婦や高齢者に労働の機会を提供する「多様就業対応型」に大別される。さらに年齢や目的を細かく分けて、4分類や6分類とする考え方もある。オランダで1982年に合意したワッセナー合意がもっとも成功した例として有名。このとき、経営者は雇用機会を提供し、労働組合は賃金抑制を受け入れ、政府は減税を断行して10%を超える高い失業率を克服した。このほか1993年にドイツの自動車大手フォルクスワーゲン社が労働時間を短縮して従業員の解雇を避ける協定を労使で結んだ例がある。これは「緊急避難型」にあたる。1998年にフランス政府が法定労働時間を短くしたが、これは政府主導の「雇用創出型」の取り組みである。(矢野武日本大百科全書

「失業」ということは、「生きていくための収入がなくなる」ということのみならず、「生きがい」もなくなるということであり、また「劣等感」を生じさせ、精神異常、自殺、テロの原因となる。したがって、ワークシェアリングは、真剣に考慮すべき事項であると思う。不況対策としてのみ考慮すべきではない。「弱者」(カネ儲けの能力に劣る者)を切り捨て、「強者」(カネ儲けの能力に長けた者)のみが「効用」(満足)を得る社会が望ましいのか、「思考停止」していないで思考すべきだろう。

 

立岩 ただ、いろいろ考えなきゃいけないことはある。…ある能力が求められている場で、その能力を欠いている人をその場に加えること、これは出来ないということは直観的に思える。しかし、いま行われてる労働の実際の配置はそうでない。また考えておくべき状態もそんな単純な場合だけではない。…例えば、1日4時間働ける人が2人いれば、1人8時間働くのと一緒になる。じゃあ給料はどうするのか。僕の感じだと、それは半分にしようということになる、市場においては。そうすると、2人で1日働いて半分ずつもらう。一方で1日まるっきり働いて1もらった人もいる。前の2人は半分です。で、それでいいのかっていったときに、プラス所得のレベルでの分配を考える、そんなふうに考えるんですよね。

だから、ちょっと稲葉さんが言いたかったことと違うかもしれなくて、話が変な風に移ったかもしれないんだけれども、人間は消費して生きているんだからそのために必要なものを。っていうのと同時に、消費するものをぼくら作って生きていて、妙に作りたいみたいな欲望は、なきゃいけないとは僕は思いませんけれども、あるにはあるんだろうと思います。だとすれば、それを可能な範囲で認めるって話は、これはフェアネスの話になるかどうかわかりませんけれども、ありかなって思っています。具体的にそれに国家、政治がどうからむんだって話はなかなか難しいとは思います。難しいとは思いますが、けっこう面白い話だとも思っていて、意外なほどそういったことに関する研究というか言説がない。

ワークシェアリングを制度化(ルール化)するためには、多くの検討事項があるだろう。その際、企業経営者や既存労働組合の皮相な利益追求の観点ではなく、最初に見た「フェアプレイの精神」を持つことが肝要である。「フェアプレイ7カ条」を読みかえしたい。

*1:グリーンカードグリーンカードは、「フェアプレイ」に対して出される、うれしいカードです。サッカーのルールは悪いプレーを罰するためにあるのではありません。より良いプレー、より良いパフォーマンスを引出すために、試合の妨げになるプレーをなるべくなくし、選手、レフェリーが協力してベストのゲームをするためのものです。サッカーについて勉強中の12歳以下の子どもたちは、ゲームを通じて「いいプレー」を学んでいきます。その課程で、いいプレーを「いまのはいいプレーだったよ」と言ってあげるための重要なアイテムがグリーンカードです。

http://www.sakaiku.jp/column/knowledge/2012/003149.html