気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

自由(2) リバタリアニズムの根拠と問題点

平野・亀本・服部『法哲学』(23) 

個人の尊厳と自己所有

平野は、リバタリアニズム(自由至上主義)は、論者によりいくつかの点で違いがあるが、次の3点に一致がみられると言っていた。(自由(1)リバタリアニズム 参照)

① 個人的自由の擁護

② 拡大国家に対する批判

③ 市場の優位性(市場の重視)

そして、このリバタリアニズム(自由至上主義)の哲学的基礎(根拠)は、個人の尊厳自己所有の概念にあるという。では、これはどういう概念であるか。

 

個人の尊厳

 カントの「目的としての個人」という観念に由来する。個々人は目的であって単なる手段ではない。それゆえ、何らかの社会的目標達成のために個人が犠牲にされたり、あるいはその手段として利用されるようなことがあってはならない。何人も自己の同意なくして、その生命・自由・財産を損なわれず、侵害者に対しては補償と処罰を要求する権利を持つ。このような反功利主義的な個人の尊厳によって、リバタリアンは個人的自由の重要性を強調し、同意を経ない権力的強制を否定するのである。

こういう文章は注意深く読む必要がある。まず、カントの言葉を持ってくるということは、「哲学者カント」という「権威」に訴える議論*1になっていないか注意する必要がある。カントの主張を無批判に受け入れていないか、カントの主張を誤解していないか、カントの主張を曲解していないか。しかし、これはカントを理解していないと検討できない(カントを読んでいても、この手の議論は迷路のような「カント解釈論争」になるような気がする)。だから素人の私は、カントという言葉を取り除いて、この文章を読むことにする(カントの代わりに、ミスターXとおいても良いだろう。名前ではなく、何を述べているのかが重要である)。

「個々人は目的である」とは、いったい何のことか。そもそも日本語になっていない。「〇〇さんは目的である」…はあ? 

「何らかの社会的目標達成のために、個人を犠牲にしたり、あるいはその手段として利用する」とはどういうことか。「民主的な手続き」で、社会的目標の達成のためのルールを制定し、各人の役割分担(為すべきことやしてはならないこと)を定めることは、「個人を犠牲にする、あるいは手段として利用する」ことになるというのだろうか。

「何人も自己の同意なくして、その生命・自由・財産を損なわれず」というが、何らかの社会的目標を考えたら、特定個人の生命・自由・財産に制限を加えることもありうるのではないか。

「個人は目的であって単なる手段ではない」というのであれば、「会社の利益のために、従業員(個人)を働かせる[手段として使用する]こと」は、問題ないのであろうか。

「個人の尊厳」というわけの分からない(とりわけ、私たちが共に生きる社会との関連がよくわからない)概念が、なぜ「リバタリアニズム(自由至上主義)の哲学的基礎(根拠)」になるのだろうか。

 

自己所有

ロックの哲学に依拠する。すべての所有権は自己所有を原因とする。自己の身体については自分が所有者なのであり、その延長として身体を用い、労働を投下することによって自然界の共有物から切り離されるものがその人の所有物になる。したがって、パターナリスティックな介入のように、身体の使用法について他者が制約するのは自然権の侵害になるし、再分配のように、本人の同意を得ないで当人の労働の果実すなわち所得の一部を社会全体のために使用することは、当人の身体について社会が部分所有を強いることになり、その限りにおいて、当人を奴隷化しているのと同等であって正義に反する、というのである。

 

先ほどのカントと同様、ロックという言葉を取り除いて読もう。…「自己の身体については自分が所有者なのである」というのは、物の所有とは異なるところがあり(自分の眼球や腎臓や神経線維やらを自由に処分できるわけではない)、若干の違和感はあるものの分からないでもない。しかし次の「労働を投下することによって自然界の共有物から切り離されるものがその人の所有物になる」というのは、よく考えてみなければならない。なぜそんなことが言えるのか。まず「自然界の共有物」とは何か。自然界に存在する動物・植物・化石・岩石・水・空気・土地・山・川・月・太陽・星・電磁波・重力……などを「自然界の共有物」と呼んでいるのか。「共有物」とは、複数の人間が共同で所有している物という意味ではないか。いま挙げた「自然界に存在する物」(人間が誕生する以前から存在する物)が、どうして「人間の所有物」と言えるのか。人間の所有物ではないものが、「自然界の共有物」と言えるはずがないだろう。ではこのような自然界に存在する物を、「狩猟採集」で手に入れた場合、彼がその物を排他的に支配・使用することは、恐らく歴史的事実であり、(共に生きる)社会生活上これを認めようということになり、「その物は、彼の所有物である」ということに社会的合意が得られたのであろう。したがって、「労働を投下することによって自然界の共有物から切り離されるものがその人の所有物になる」のではない。「何らかの方法で、自然界に存在する物を手に入れた場合、その物を排他的に支配・使用することを、社会的に認めることにしよう」と言うべきだろう。もちろん、これは不明瞭な言い方である。何らかの方法? 自然界に存在する物? 排他的に支配・使用? これらの詳細を定めなければ、実効的なルールとはならない。

私がここで言いたかったことは、「自己の身体を所有する→身体を使って(労働)、自然界の共有物から切り離す→彼の所有物になる」という「自己所有」の論理が、いろいろなケースを想定しなければならない「社会的合意事項」であって、「価値理念」とはなりえないということである。

 

法の中立性

このような哲学的基礎を引き合いに出すリバタリアニズムは、それゆえ極めて個人主義的な理論であり、法秩序の基本的なあり方についても、多様な善を追求する個々人の自由な活動をできるだけ阻害しないような中立的な枠組みの必要性を説く。どのような意味において中立的であるかは議論のあるところであるが、まず挙げられなければならないのは、市場の安全とその円滑な作動を確保するための法的ルールである。これには、生命・自由・所有の安全を確保するルールの他、所有権と契約の自由を保障し、詐欺・脅迫などから人々を守る契約法のルール、独占のない経済構造や公害のない環境といった技術的意味で市場の公共的利益に関わるルールなどが含まれる。

 「多様な善を追求する個々人の自由な活動をできるだけ阻害しないよう…」というのは、一見もっともらしい。しかし、個人Aが「善」だと思って主張することと、個人Bが「善」だと思って主張することが異なる場合、どうするかが問題である。これを「多様な善」として認め、自由な活動を阻害しないようにといっても、対立的な善であれば、実際のところ話がまとまるはずがない。即ち、無条件に「多様な善」として認めることが適切であるとは思えない。また「中立」が望ましいとも限らない。(軍備増強を主張する者と軍備縮小を主張する者がいた場合、「中立」的な立場(枠組み)とは何であろうか)。

「市場の安全とその円滑な作動を確保するための法的ルール」が挙げられているが、これが「中立的に」定められるか否かは、論者により異なるだろう。「市場」のあり方に関し、様々な議論があるだろう。…またリバタリアニズムは、ここでいう「市場のルール」は、誰が定めると想定しているのだろうか。「国家」なのだろうか。国家の介入を嫌うリバタリアニズムならば、国家はこのようなルールを定めるべきでない、というのだろうか。

 

また、分配的正義の問題に関しても、リバタリアニズムは価値中立的な手続的ルールの重要性を説く。例えば、先に引用したノージックは、功利主義ロールズの格差原理などを、分配の結果を何らかの範型にはめようとするもので、個人の自由を侵害する専制的な再分配になると批判し、「権原理論」(entitlement theory)を提唱している。即ち、正当な権利は、分配の結果という「最終状態」ではなくて、特定の財を獲得した歴史、財の取得・継承及び修復に関する手続的ルール、そしてそれに従うことによって得られる権原にあるとされるのである。

ノージックのいう「特定の財を獲得した歴史」なるものがどういうものかよく分からないのだが、私は「土地」という「財」を獲得した歴史そしてその継承の歴史が、最も重要な論点になるのではないかと予想している。

 

さらに法の中立性との関連で取り上げておいてよいと思われるのは、「危害原理」である。ミルは個人的自由を政治的基本権としつつ次のように規定した。「個人の意思に反して権力が正当に行使される唯一の目的は、他人に対する危害を避けること」であり、本人のためになるという理由によってであったとしても強制がなされることは正当ではない、と。他人に対する危害の防止が強制力行使の正当な理由になるということは、他人に対して危害が及ばない限り、個人は自由に行動しうるということを意味する。「他人に対する危害」は自由な権利の内在的制約を示す規準であり、その意味において、この危害原理も中立的な性格を有する。

その他、自由社会の構成原理として、法の中立性については、政教分離原則をはじめ、政治・宗教・教育・文化など価値問題に関わる領域において公共的な枠組みの性格が特に問題になる。問題領域ごとに中立性の内容は異なりうるが、いかなる意味において中立的であるといえるのかが、つねに議論の対象となるところである。

 「危害原理」とは、「他人に対して危害が及ばない限り、個人は自由に行動しうる」ということであるが、こんな単純な基準でもって、「個人は自由に行動しうる」と「自由」を礼賛しないほうが良いだろう。日常生活を振り返ってみれば分かるように、私たちは無数といってよいほどのルールに取り囲まれており、それらは「個人の自由」を制限している。このように言えば、ただちに「あなたの言う自由とは何か?」という話になるかもしれないが、同じ質問は最初の「個人は自由に行動しうる」に向けられる。(「よその誰かの財産に傷をつけたり、安眠妨害をしたり、ひとのプライバシーに鼻をつっこんだりはしないこと。これで万事オーケー。家の中でなら、マリファナ吸って麻薬を打って、どんな馬鹿をやらかそうとも、どうぞご勝手に」(ベラー)。法の射程と限界(1)他人に迷惑をかけなければ、何をしようと自由なのか? 参照)

 

リバタリアニズムの問題点

第1に、所有権を含む個人の自由権が絶対的といえるまでの強い権利として前提されていることである。先に見た通り、「目的としての個人」および「自己所有」への基礎づけが試みられているが、いずれも必ずしもリバタリアンのいうような議論が展開されていたわけではなかった。カントは理性法の1つの形式として、つまり実践理性が定立する定言命法の1つの例として個人の目的性を説いたのであり、それ自体が権利として絶対的であるとされたわけではない。また自己所有概念の場合にも、ロックにあっては、自殺や身売りを禁じる神の法の制約には服さなければならないという留保が付けられていた。自己所有は絶対的とはみなされなかったのである。ノージックもそうであるが、リバタリアンは多くの場合、個々人が自然権を有することを自明の真理であるかのように直観的な議論を為している。自然権の根拠について、またその強さについて十分な説明がなされているとは言いがたいのである。

私はカントやロックという権威を知らないので、カントやロックという言葉を取り除いて考えてみたが、平野はカントやロックを読んだ上で、リバタリアンを批判している。平野によれば、カントの「個人の目的性」も、ロックの「自己所有」も「絶対的なもの」とはされていなかった。であれば、「権威者」の説を、自分の都合の良いように解釈しているということになろう(権威に訴える論証)。

 

第2に、強い個人権を守るためには強い政府ないし機構が必要である。その限りにおいて、リバタリアニズムがいう最小国家や無政府という主張には一貫性がないといわれる。例えば、市場における自由な取引それ自体が伴う道徳的問題や、市場競争の結果によって生じる経済的格差の問題、様々な自由権の衝突から帰結する紛争の増加に対処する必要性、紛争を解決するために手続的ルールをこえて用いざるを得ない実体的規準の中立性の問題など、市場が孕む問題は多様である。これらの問題に適切に対処するためには、中立的な枠組みとしての市場だけでは不十分であり、強力な監視ないし調整機構を準備する国家の役割が期待される。少なくとも、主要な国家機構を民営化した場合、権力的裏づけのない民間組織がいかにしてその作用の実効性を担保できるのか問題になる。

平野が言う通り、「市場が孕む問題は多様」であり、「市場に任せればうまくいく」というような単純なものではないだろう。リバタリアンは、「監視/調整機構」をどう考えているのだろうか。

 

第3に、市場における原始取得初期格差の問題がある。人間社会の歴史を振り返れば、ロックが述べたような労働の果実としての所有権は、とくに不動産の場合むしろ稀であった。多くの場合には、一方的な囲込みがなされたり、先住民から土地の強奪によって財産が取得されたのである。そのようにして取得した財産の移転・継承・修復を中立的な手続的ルールに従って公正になしたとしても、すでに一定の問題が含まれているということになる。また初期格差の問題もしばしば指摘される。市場における競争がいかに理想的に公正になされるとしても、もし競争に入る前、スタートラインに並んだ時点において相当の格差があるとすれば、その時すでに勝ち負けの大半が決定づけられたり、少なくともそれが競争の結果に少なからぬ影響を与えるのは避けられないであろう。こうした初期格差の問題を考慮しないで自由な競争だけを強調しても問題の解決にならないといわれるのである。

原始取得初期格差、この2つの言葉は、ぜひとも覚えておきたい。格差問題を論ずる場合のキー・ワードだろう。「多くの場合には、一方的な囲込みがなされたり、先住民から土地の強奪によって財産が取得されたのである」(原始取得)…ある物を、現在の法律でいくら公正に相続や売買をしていても、その物の取得の元をたどれば、他人を殺傷して強奪したものであったとしたら、どうだろうか。その土地は、祖父が他人を殺傷して得た土地であるが、私は父から「適法に」相続しているので、何ら問題はない、と言えるのかどうか。殺傷による取得ではなく、囲い込んで、武力による防御で占有していた場合も、似たような話になるだろう。

 

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