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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

反証主義 「夫は浮気をしている」という主張は「妄想」である(?)

伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(5)

科学と疑似科学の間の線を引く「線引き問題」(demarcation problem、境界設定問題)と呼ばれる問題は、哲学の中でも科学哲学という分野において長らく論争の的になってきた。これが科学哲学の主要問題だったのは、科学をまがいもの(疑似科学)から区別する方法がわかれば、それが科学の本質をとらえることにつながると考えられてきたからである。反証可能性の概念に基づく反証主義は、この論争の中で、オーストリア生まれのカール・ポパーという人から提案された有力な立場である。

疑似科学」の話には面白いものがあるが、これは後でふれることにしよう。ここでは伊勢田の記述にしたがい、ポパー(1902-94、オーストリア出身イギリスの哲学者)の反証主義をみていくことにする。表題の「浮気の例」に入る前に、反証主義がどういうものかを大雑把に理解しておこう。

反証可能とは、大雑把に言うと、データと突き合わせることでその仮説が放棄されることがありうる、ということを意味する。つまり、「こういう実験結果や観察結果が出たらこの仮説は放棄せざるを得ない」という条件がはっきりしているということである。

大辞林によれば、

反証可能性とは、ある言明が観察実験の結果によって否定あるいは反駁される可能性をもつこと。ポパー反証可能性を、言明が科学的である基本条件とみなし、科学と非科学とを分かつ境界設定の基準とした。(大辞林

何らかの事実に関する言明が、反駁される可能性があるかどうか。何らかの信念や信仰や感情を表明するものであれば、反駁される可能性はなく、科学ではない。伊勢田はこれを次のように述べている。

逆に、そのようにして仮説が放棄されることがありえないのなら、その仮説は反証不能で、反証主義の立場から言うと、仮説そのものが「科学的」ではないことになる。この「ありえない」には、そもそも仮説自体が、その仮説と明確に矛盾する証拠を提出しえないような形で述べられている場合も含まれるし、原理的にはそういう証拠があり得たとしても、その仮説の信奉者がなんとか言い抜けて事実上反証とならないようにしてしまう場合も含まれる。さらに反証主義では、反証可能な仮説を立てることだけではなく、積極的に反証しようと試みることも科学的な態度の一部として要求する

例えば、「神が存在する」という言明が、「心の中に神が存在する」という意味であれば、これは反証不能なので、科学ではない。だから、そのような信仰心を持たないものには、「神が存在する」という言明は、何ら説得力を持たない。その信仰者が、「社会的活動」(信仰者以外に影響を及ぼす活動)をしない限りにおいて、その信仰がとやかく言われることはない。

 

伊勢田は、ここまでの議論を整理して、2つの心得をあげている。

  1.  仮説を立てるときは、反証可能なかたちで仮説をたてるべし。(=どういう結果が得られたら、その仮説を放棄するかをはっきりさせるべし)
  2. 仮説を立てたら、できる限り反証しようと試みるべし。

伊勢田は、次のような「浮気の例」を挙げている。

例えば、ある女性が「夫は浮気してるんじゃないかと思います」と仮説を立てたとしよう。この仮説は、夫の外出が多いとか普段と様子が違うとかといった証拠(仮説にとって有利な証拠)に基づいて立てられる。しかし反証主義の観点から言えば、この仮説が「科学的」な仮説であるためには、有利な証拠があるだけではだめであるつまり、反証可能でなければならない

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「夫は(妻でもよい)浮気してるんじゃないかと思います」という仮説(言明)は、反証可能でなければ、それは「信仰」と同じような単なる「信念」(妄想)であって、「科学的」な仮説つまり「説得力ある主張」とはなりえないのである。(この論理は、上述のところから理解できるだろう)

では、この仮説(主張)は反証可能であるか。

一見したところ、この仮説そのものは反証可能に見える。もし本当に浮気しているのなら、「夫の後を気づかれないように長期間にわたって尾行する」という「実験」を行えば浮気をしているという証拠が得られるはずだと予測できる。そしてもしそういう証拠が出てこないなら、この仮説は反証されるはずだからである。この予測を確かめるため、実際にその「実験」を行い、何も発見されなかったとしよう。素直に考えれば、これは元の仮説の反証であり、仮説は放棄されることになる。

実験・観察により、浮気の証拠が出てこなかったならば、浮気しているという仮説(主張)の反証であり、仮説は放棄される。めでたし、めでたし。

しかしここで、「夫はどうにかして尾行されていることに気づいたから、浮気相手と会わなかっただけかもしれない」と女性の側が言い張ったらどうだろうか。こういう解釈をつねに認めるとすると、「夫が浮気している」という仮説はどんな証拠を持ってきても反証されないことになる。つまり右の仮説は反証不能となる。あるいは、単純にそうした「実験」を無視するといった態度をとった場合にも、事実上仮説は反証不能になる。

この女性の言い分は「アドホックな仮説」(ある理論が反証されたときに、その反証を否定するためにその理論に後から付け加えられる補助仮説のこと)と言うらしい。反証が出された後で、とってつけたような屁理屈を言い出せば、事実上その仮説は反証不可能となるだろう。

従って、反証主義の考え方によれば、そうした解釈や無視をした時点で、この仮説は「疑似科学的」になることになる。さらに言えば、反証的な証拠を素直に受け入れないという態度をとること自体、出来る限り仮説を反証しようと試みなくてはならないという2つ目の心得にも反していることになるだろう。

反証したにも関わらず、屁理屈を言ったり、無視をした時点で、この仮説は「疑似科学的」つまり「何ら説得力のない主張(思い込み)」と言わなければならないのである。

 

いったん仮説を作ると、人間というものは自分で作った仮説に愛着を持ってしまい、その仮説を否定するような証拠をそれと認識するのが難しくなってしまうとされている。例えば、夫が浮気しているといったん思ってしまったら、夫の言動のすべてをその仮説に沿って解釈してしまい、「愛しているよ」と言われても「浮気をごまかすために言っているのかも」などと考えてしまいがちである。

たまにケーキを買って帰ると、これも浮気の証拠とされる。いろんな解釈があるものだ。

 

そうした自分の仮説と距離をとるための手段として、その仮説の反証条件は何か、そして反証条件を満たすような証拠はないかと考える習慣を持つのは非常に有用である。なお、この場合は、「夫が『愛しているよ』と言う」という証拠は「夫が浮気している」という仮説にとって不利な証拠ではあるが、仮説を反証するほど強い証拠ではない。本当に反証する気なら先に例として挙げたような「実験」が必要となるだろうが、本書は人生相談の本ではないので、この件にはこれ以上深入りしないことにしよう。

自分の仮説(主張)を否定する証拠(事実)を考えてみる、確かにこのように考える習慣を持つことは大事なことのようだ。

 

もちろん、反証を試みたうえで生き延びる仮説もあるだろうし、部分的には反証されてもなお重要な一般論として意義を失わない仮説もあるだろう。しかし、繰り返しになるが、そうした作業が可能になるためにはまず仮説自体が反証可能な形で提示されていないといけない。曖昧な形で仮説を述べてしまうと、そうした生産的な作業ができなくなり、同時にここで挙げたような心理的傾向をコントロールする手立ても失われてしまう。

先ほどの浮気の例で言えば、「夫は浮気してるんじゃないかと思います」という仮説(主張)は、非常に曖昧であり、「反証可能な形で提示」されているとは思われない。「〇〇という観察結果(事実)により」というべきだろう。そしてその事実が、浮気とは関係ない原因によるものと推認されるなら、その仮説は放棄されるべき(主張すべきではない)ということになろう。

 

反証可能性という概念や「反証がないかと考える」という思考方法が役に立つのは以上説明してきた通りだが、反証可能性というのは強力な武器であるだけに、注意して使わないとやけどしたり感電したりする。まず、反証主義を馬鹿正直に受け入れなかったおかげでうまくいった、という例もいくつもある。つまり、「反証主義でいけばいつでもうまくいく」という主張に対する反例も反証主義者なら当然探すし、そして反例が確かに見つかるのである。

例えば、地動説(年間視差があるとする)であるが、当時の観測では年間視差が全く見つからなかった。…もし反証された仮説は放棄するという態度をコペルニクスら地動説の支持者たちが馬鹿正直に貫いていたら、地動説は早い段階で放棄されることになっていたであろう。

 

こういう事例があるとすると、「反証主義」も考え直さなければならないだろう。

 

今回は「反証主義」の話なので、補足的に、wikipediaからも一部引用しておこう。

反証主義は、「反証可能性」および「反証テスト」の両方が成立したものを、科学的知識として分類する。

反証可能性とは、その仮説が何らかの観測データによって反証[否定、反駁]されうることを意味する。

反証テストとは、ある仮説に対する反証が観測されないかどうかを確かめるための実験の総称である。

反証主義では、以下のようなものは科学的とは認めない

(A) 反証が挙がっているにもかかわらず、その反証を組み込まない説(主張)

(B) 反証データに対して言い逃れが付け足されつづける説(アドホックな仮説)

(C) 反証テストを行なわない事例

(D) 反証テストのやり方が曖昧であるか、または誤っている事例

 

このような反証主義に対する批判はいろいろあるが、それはいずれ取り上げることにしよう。