気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

ジョン・ケージとサウンドスケープ(音風景)

岡田暁生『音楽の聴き方』(14) 

岡田がこれまで説明してきたのは、「構造的聴取」と呼ばれるものだそうである。

(構造的聴取においては)個々の音は、それこそ言語と同じように、意味の担い手である。音による言語的/建築的構築物のパーツだと言ってもいい。周知のようにこうした聴き方は、ジョン・ケージ以降の音楽美学において、硬直した西洋クラシック・イデオロギーの権化のように批判されてきた。「意味」などから解放されて、もっと自由にサウンドの世界へ身を任せていい、傾聴するばかりが音楽の聴き方ではない。あたかも一つの環境のようにそれを聴いたっていいというわけである。アメリカのミニマル・ミュージック、カナダの作曲家マリー・シェーファーが提唱したサウンドスケープの概念、あるいは最近のヒーリング・ミュージックの流行などは、すべてこうしたケージ美学から生まれてきたと言っていいだろう。

 

ジョン・ケージJohn Cage、1912-1992)については、次の解説をみておこう。(後でふれる)

アメリカの作曲家、哲学者。ロサンゼルス生まれ。1930年代には半音階的な作品を残したが、40年代に入るとマース・カニンガムらのモダン・ダンスのグループと仕事を始め、打楽器、プリペアド・ピアノの作品を残す。50年代には『易の音楽』(1951)、『四分三三秒』(1952)に代表される禅や易の思想を背景とした偶然性の音楽に向かい、世界的な名声と中傷を集める。テープ作品『イマジナリ・ランドスケイプ第5番』(1952)、コンピュータ作品『HPSCHD』(1965)、どんな演奏形態も可能な『バリエーションズ』(1958)、サティの原曲を易によって組み替えた『チープ・イミテーション』(1969)などにおいて、図形楽譜、コンタクト・マイク、スピーカー利用といった新たな音楽世界を創造する。主著『沈黙』(1961)に盛り込まれた音楽・芸術思想は多くの反響をよび、第二次世界大戦後の音楽界で重要な位置を占めている。(細川周平日本大百科全書

 

ミニマル・ミュージックについては、反復と変化 アヴェ・マリアとミニマル・ミュージック(Minimal Music) 参照。

ヒーリング・ミュージックは、「心理的な安心感を与えたり、気持ちをリラックスさせたりするために作られた音楽」 だそうだが、「癒し」「リラクゼーション」「瞑想」「睡眠」とかの言葉と共に、BGMとして普及している。私は、別に癒されたいとか瞑想したいとは思っていないので、これらの曲を聴いても、心に響くものがない。(このような曲を聴いて、神秘的な気分になる人もいるようだが…)

 

サウンドスケープとは、

〈音の景観〉〈音風景〉と訳し,音楽,言語,騒音,自然音,のさまざまな音を聴覚によって把捉する景観をいう。カナダの作曲家マリー・シェーファー(R.Murray Schafar、1933-)が1960年代後半に提起した概念で,ランドスケープ(風景)からの造語。(百科事典マイペディア)

今日、音環境に関するエコロジー思想ともいえるサウンドスケープ思想を受けた活動は世界的には低調だが、日本ではシェーファーの主張は広く受け入れられ、環境庁が1996年(平成8)に「残したい日本の音風景百選」を選定するなど、諸外国に比べてサウンドスケープ思想の定着は著しい。(増田聡日本大百科全書

 「残したい日本の音風景百選」は、なかなかいい。

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http://www.env.go.jp/air/life/nihon_no_oto/02_2007oto100sen_Pamphlet.pdf 

 

Youtubeにもいろいろアップされている。どういうものか聴いてみよう。

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岡田は、彼ら(ケージ以降の音楽美学)の主張を次のようにまとめている。

西洋近代は専ら音楽の中で使われる音(楽音)ばかりを聴いてきた(楽音とは音楽構造の中に組み入れられ、その中で特定の意味作用の機能を果たしている音と考えておけばいいだろう)。だがこんなふうに傾聴しているとき、実は私たちは音楽を聴いているのではない。音そのものの傍らを通り過ぎて。その背後の抽象的な意味――構造上の機能や記号内容――を探しているだけである。今ここで響いているサウンドの豊穣をやせ細らせる観念論はもうやめよう。心を無にして音そのものを聴こう。世界に満ちている魅惑的なノイズの世界に耳を開こう――東洋思想の影響を強く受けていたケージが夢見たのは、禅にも似た音楽聴取における「無我の境地」だったのだろう。

ケージ美学は、西洋クラシックの聴衆について、「彼らは、音楽を聴いていない」という。これはどういうことか。コンサートホールで、熱心にクラシック音楽を聴いている聴衆は、音楽を聴いていない!? ケージ美学によれば、彼らは音(サウンド)を聴いているのではなく、「構造上の機能や記号内容」(簡単に言えば、「ストーリー(物語)」というような意味か)を探しているのだという。「今ここで響いているサウンドの豊穣」を感受せずに、構造/物語(言語としての音楽)を読もうとすることは、「サウンドの豊饒さ」をやせ細らせる。私もそのような気がする。…「サウンドの豊饒さ」とは何か、言葉で説明するのは難しい。それは例えば、上に紹介した「日本の音風景100選」のサウンドである。そこに物語を読む必要はない。サウンドの豊饒さを感じられるのではないか。

ケージ美学は、「世界に満ちている魅惑的なノイズの世界に耳を開こう」と言っているが、私はこれには賛同できない。ノイズとは、騒音/噪音(そうおん)であり、うるさく不愉快な音である。魅惑的なノイズとは語義矛盾である。またケージが夢見たのは、「禅にも似た音楽聴取における無我の境地だったのだろう」と言うが、サウンドの豊饒さを感受するのに「無我の境地」など不要だろう。そんなスピリチュアルになる必要はない。自然体でよいだろう。

 

こうしたサウンドスケープ的な音の聴き方について、私自身とても印象深い経験をしたことが二度ある。一つは日本でかなり長い間ある邦楽器を学んでいたドイツ人の友人宅を訪問した時のことだ。うだるような夏の京都の昼下がり、いたるところでセミがかしましく鳴きたてている。その友人が苦々しくつぶやいた――「夏はセミがうるさいので楽器練習の邪魔になる」。私は仰天した。「人間中心主義的」な彼(ら)は、人間以外の生き物が発する物音に存在意義など認めないのだ。楽器の響きと自然の物音とがないまぜになって生まれる独特の風情などという考え方は、彼らにはおよそ理解できないものなのか。…少々誇張するなら、近代のコンサートホールを作り出した彼らにとって「音楽=意味ある音」とは、無菌病室のように自然のノイズをシャットアウトとした人工空間で、楽器という人工物を用いて、人間が作る音を素材にして組み立てられるものなのだ。考えてみれば大変に「不自然な」この西洋的音楽のあり方を、徹底的に相対化してくれたという点で、ケージ美学の歴史的役割は大きかった。

セミの鳴き声をうるさいと感じるのは、彼らが「人間以外の生き物が発する物音に存在意義など認めない」からというのは果たしてどうか。ヨーロッパにはセミがほとんどいないともいうが…*1

またコンサートホールを「不自然」というのもどうかと思う。ケージの代表作『4分33秒』は「自然」なのか。

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薮田は、この『4分33秒』について解説している。

4分33秒は、アメリカの作曲家であるジョン・ケージが作曲し、1952年に初演された「3楽章」から成る楽曲です。しかしながら、3楽章から成る「4分33秒」の全楽章は全て“休み”となっており、楽譜は以下のようになっています。

 I (第1楽章)              TACET (休み)

 II (第2楽章)             TACET (休み)

 III (第3楽章)            TACET (休み)

TACET(タセット)とは、音楽用語で「比較的長い間の休み」を意味しますが、それが3楽章全ての楽器の譜面に書き込まれおり、楽譜が意味するところは“休み”だけと言う事になります。しかし、「“休み”だけ」と言っても、聴衆を前にして、指揮者は指揮台へと登り、演奏者はしっかりとステージに出て演奏姿勢へと移ります。ところが、楽譜に書かれているのは“休み”のみですので、結局「4分33秒」の間、全く演奏する事無く曲は終了し、指揮者と演奏者は聴衆に対して一礼し、聴衆は「4分33秒」の無音の音楽に対して拍手を送ります。

これだけ見たら、もう「お笑いのコント」のような楽曲なのですが、この「4分33秒」は世界的に見ても非常に高い評価を受けている楽曲の1つと言えます。それはどうしてでしょう? 実は、その理由は大きく分けて2つあります。

 (この続きは、http://shoichi-yabuta.jp/beginners/contemporary/john-cage-433.html を参照ください)

 

この『4分33秒』の「ハイレゾ44.1kHz / 24bit対応」の動画がアップされている。

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サウンドスケープについてのもう一つの体験は、以前にボルネオのジャングルを訪れたときのことである。地元の人の案内で森に入ったのはいいが、凄まじいスコールが降ったせいで足止めを喰らい、帰路についたころにはもうすっかり辺りは暗くなっていた。漆黒の闇の中で手探りするようにして夜道を歩いていると、至る所から生き物の「声」が響いてくる。カエル、昆虫、鳥――森全体が響きで満ち満ちている。四方八方に生命が充満している。カエルだけでもどうやら10種類以上いるらしい。ふと足を止めてそれらに聴き入っていた私に、ガイドの人がにやりと笑って誇らしげに言った。This is our orchestra! このとき初めて私は、どうしてヨーロッパにあのように大規模な、「人間による」オーケストラが生まれたのか、少し分かった気がした。つまり彼の地では、熱帯と違って自然のサウンドスケープが貧弱だからこそ、その代用物としての人工的オーケストラがあのように発展したのではなかろうか。

もちろんボルネオのジャングルで私がこんなことをつらつら考えたのも、既にケージやシェーファー著作を読んでいたからであろう。彼らは私たちの耳の世界に、全く新しい次元を開いてくれた。彼らの思想はとても優しい。「これは音楽だから傾聴しなくてはならない/これは楽音ではないからどうでもいい」などと決めつけない。すべての音を慈しみ、「何を語っているのだろう?」と耳を傾ける――こういう発想は、従来の西洋音楽に決定的に欠けていたものである。

「これは音楽だから傾聴しなくてはならない/これは楽音ではないからどうでもいい」などと決めつけない。これはいい。但し、「雑音」まで拾ってくるのはいただけない。ボルネオのジャングルの生き物たちの「声」は、サウンドであり、ノイズではない。