浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

不平等論(4) 協同組合-市場経済ではない何か

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(9)

「仕事」は、金儲けのためだけではなく、それ自体「生きがい」でもあるという論点について、稲葉は次のように述べる。

稲葉 人に何か有意義な仕事を割り当てる社会が望ましいとは思っていても、その割り当ての仕組みを国家がストレートに担うべきだ、と考えるのはマズいだろう。つまり、中央集権型社会主義はマズくて、市場及び下からの自発性によって形成された組織を基軸とした社会の中でやっていかなきゃならん、というのが今日の規範理論をやってる人たちの共通了解である。

単なる語感の問題かもしれないが、私は「割り当て」という言葉より、「分担」ののほうが良いと思っている。「割り当て」というと、「誰か」が割り当てるということであり、例えば「国家が割り当てる」というような言い方になる。しかし、「国家が分担する」という言い方はしない。「分担」という言葉には、「私たちが話し合って、それぞれの業務を担当する」というニュアンスがある。だから「人に何か有意義な仕事を割り当てる社会が望ましい」のではなく、「人が有意義な仕事を分担する社会が望ましい」というべきだろう。したがって、「割り当て」を行う「中央集権型社会主義」は、その言葉遣いからして、反民主主義的な独裁政権をイメージさせる。民主主義を是とする者は当然にこれをマズいと言うだろう。

ではこのような「仕事の分担」を誰が行うのか。稲葉は、「市場及び下からの自発性によって形成された組織を基軸とした社会の中で行う」のが、今日の規範論者の共通了解であると言っているが、これは意味不明である。特に「下からの自発性によって形成された組織を基軸とした社会」なるものが、何を言っているのか分からない。「民主的な手続きによる合意形成」と何が違うのだろうか。

 

稲葉 それこそ労働の中身は問わずに労働時間とか苦痛だけで労働を見る、つまり労働それ自体に価値は無くて、成果として得られた消費財とか所得だけが人間の幸せにとって重要なものとみなすという前提で、今のところの経済学の多くの部分はできあがっており、それでもって市場経済のモデルを作るとまあなかなかうまくいく。でも「それだけじゃ足りないよ、人間は働くことそれ自体からも満足を得るので、働けない人には所得を保障しさえすればいいんだということではたぶんないんだよ」というようなことまでもカウントに入れた理論、あるいはその理論に基づいた社会構想をぶちあげることはとても有意義なことだろう。

経済学のこの前提が、「これで良いのか」という問いのもとで、さまざまに検討されてきたと思うのだが、それらを踏まえての、立岩と稲葉の話をもっと聞いてみないと、何が最も問題なのかがよく分からない。

 

稲葉 しかし、それは中央指令型計画経済として構想するんではダメ、やっぱり市場経済そのままとは言わないまでも、その修正版と言うか、市場を補完するような様々な機構は、下からの市民社会の自発性によって持ち上がってきたものでないと困るというところで、今のところ多くの真ん中から左寄りくらいの人たちの間の共通了解がある。

稲葉は、「市場経済の修正版、市場を補完する機構」として何を考えているのだろうか(分からない)。社会保障関連の諸立法、独占禁止法、環境関連法、労働法、……これらは、市場経済を修正し、補完するものではないのか。これらは、「下からの市民社会の自発性によって持ち上がってきたもの」なのだろうか、そうではないのだろうか。

「真ん中から左寄りくらいの人たち」、なぜこういうふうにレッテルを貼るのだろうか。例えば、公害防止と環境保護のための立法・諸施策は、「真ん中から左寄りくらいの人たち」の主張なのだろうか。自動車の排ガス規制をしようと言うものは、「真ん中から左寄りくらいの人たち」の主張なのだろうか。

 

稲葉 その中でいわゆるアソシエーショニズム/協同組合主義の考え方があった。…協同組合というのは、自発的な結社であるし、市場という環境の中で動き回るものだが、現在の企業において支配的な形態である株式会社、公開型の組織とはちょっと違って、わりと大事なところで強い閉鎖性を持っている。例えば労働者協同組合の場合であるならば、雇用に関してわりと閉鎖性があるのが普通である。意思決定においても、基本的に組合員の中の民主主義、つまりいっぱい出資していようが少ししか出資してなかろうが、一人一票という形をとる。協同組合にもいろんなタイプがあって、労働者協同組合というのもあるし、消費者協同組合(生協)というのもある。農協とか漁協というのも協同組合である。生産者協同組合で、流通や金融の部分を共同企業にするというもので、いろんなタイプのものがありうる。…公開型の株式会社を主役とするのではなく、そういう協同組合を主体とするような市場経済のことを考えている人たちがいる。

「協同組合」の話は興味深いものがあるので、後日取り上げるとして、ここでは「日本生協連」の規模をみておこう。

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http://jccu.coop/jccu/

 

協同組合とは「人と人の結びつきによる非営利の協同組織」であり、「生協以外には、農業協同組合農協)や漁業協同組合(漁協)、森林組合事業協同組合労働者協同組合、住宅協同組合、信用協同組合などがある。(http://jccu.coop/about/coop/

上図の通り、生協のみで、組合員総数が約2800万人、総事業高が約3.4兆円という。

 

coop みんなのコープカレー

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http://www.iwate.coop/blog/kosodate/wp-content/uploads/2016/08/image140.jpeg

 

稲葉 それ[協同組合]に対して批判的な人たちは…協同組合は開かれた市場経済に比べてどうしてもパフォーマンスが落ちると主張している。…1970~80年代にかけて、地味でショボい社会主義の体制内改革の歴史があり、部分的に市場原理を導入する。その中で協同組合的な試みというのは、一つわりとメインだった。…ハンガリーのコルナイ・ヤーノシュ(1928-)なんかも、市場と計画のベストミックスの可能性をずっと追求していた。中央指令型計画経済の中央指令当局が、自己の役割を抑制しながら市場を導入して、でもその市場の副作用を抑えるために、金融部門とか労働部門において協同組合的にやったり、自主管理的な仕組みを入れたりとか、そういう余地があるんじゃないか、それによって何とか計画経済の非能率を克服しつつ市場の残酷さを回避する、いわば人間的な社会主義を実現できるんじゃないかってことをいろんな人が考えた。

「協同組合はパフォーマンスが落ちる」とはどういう意味だろうか。営利企業非営利組織とを、パフォーマンス[効率](その中身は分からないが)で比較して、それで優劣を判断しようというのだろうか。

 

稲葉 ところがある時期にだいたいの人たちが、これはダメだと結論を出した。それは単に90年代に社会主義計画経済がなだれを打って資本主義に体制移行したという状況を事後的に追認したということではない。やっぱり市場経済体制を入れるんだったら、ワンセットで全部入れなきゃいけないということに気が付いた。…商品市場だけ自由な市場経済にしたけど、労働市場がないとか資本市場がないということにしたら、どこかで必ずガタが来る。トータルなワンセットとして、揃えて移行しないとダメなんだという結論に、ある時期コルナイも含めた大半の論者が行っちゃう。

話の展開がどうもよく分らない。(非営利組織の)協同組合の話をしていて、それが何故、中央指令型計画経済下で市場経済体制を導入することになるのだろうか。また、市場経済体制はワンセットでなければならないというのも、何故なのか全くわからない。

 

稲葉 吉原直毅さんが書いているのだが、…人が消費によってだけ効用を得るのではなく、労働その他の社会参加をすることでも効用を多少得るので、人は単に仕事をしたいというときにお金だけを求めてるわけではない。それ以外のものを求めているということをうまく表現し、すくいとれるような社会的な機構というものがあり得たとする。そしてそれを組み込んだ形での、いわばより拡張された市場経済あるいは労働市場――例えば単純な賃金とか、非常に素朴な意味での労働条件以外のものをも表現して、公共的な情報ベースに乗せられるような市場機構――を取り込み、しかし基本的には下からのボトムアップによって、水平的な情報交換によって労働の喜びなんかをうまく社会的に、人々が自発的な取引として配分できるような社会主義っていうのはありうるかもしれないよという議論を彼もやっている。

「下からのボトムアップによって、水平的な情報交換によって労働の喜びなんかをうまく社会的に、人々が自発的な取引として配分できるような社会」というような言葉を羅列しているだけで、何も具体的なことを考えていないのではないかという気がする。そもそも「下からのボトムアップ」って何? 「水平的な情報交換」って何? 「労働の喜びを、自発的な取引として配分する」ってどういうこと? これは、吉原に聞かねばならないのかもしれないが…。

 

稲葉 ただその試みはけっこう難しい。そのときに、どこで節度を守りたいかというと、中央指令型、上からの配分によって社会の中の財とかサービスとかの配分の主要な部分をやるということは無理だ、できない、ここのところは譲れないということは、これは皆さんあるようだ。これは現存した社会主義の教訓というものがあって、何とか水平的な情報交換でもって、より分配の公正に近いような仕組みを自発的に獲得できないかという方向を模索するくらいの話でやってる気がする。こういうテクニカルな話には細かいところはもっといろいろデリケートな話が出てくるので、もうちょっと見ていかなきゃいけないのだが。

 

さて、このような稲葉の話に対して、立岩はどう考えているか。

立岩 1点目。中央指令型の統制経済というアイデアというか実際があって、それはうまくいかない。そこにも、ワークするかっていう話と、それを正当化できるかっていう話と二つあるが、いずれからもそれを採らないという話である。それはそうだと言える。…今の統制経済がうまくいかないという話と、理論的にマルキシズムにおける搾取という概念がうまい具合にいかないという話があって、その二つを否定することによって、左派はダメであるということになった。…ぼくは、それは当たり前だろう、そんなことどうだっていいだろうと考えた上で、次に何が言えるのかを考えればいいというスタンスでものを考えようとしてきた。もっともな指摘を受けた上でなおかつ、では今と違う何が可能なのかってことを考える道筋は依然として当然あるだろうと。

中央指令型の統制経済がうまく機能するとか、正当化できると主張する者は、いまやほとんどいないだろう。立岩は、面白い言い方をしている。「それは当たり前だろう、そんなことどうだっていいだろう」と。「今と違う何が可能なのか」を考えなければならない。立岩はこう言っているが、おそらくこのように考え、具体的な方策を提案している人が(注目されない、あるいは無視されてきた人が)多数いるだろうと思う。

 

立岩 2点目。ぼくは、協同組合主義に対しては若干冷たいところがあって、ま、やってんな、という感じだった。一つはさっきぼくが言ったことと背反するようだが、なんかだるいなって感じがするわけ。「参加」とか言って(笑い)。みんな大学に入って生協とか入るんだが、生協、参加しているって思いませんよね、やっぱり。それじゃいけないのかって話である。…これは、人間は参加したいんだ、労働したいんだっていうことと両立する。参加したい部分はあるけど、そんなのどっちだっていい、うまくて安いものをくれりゃ俺はかまわねえんだというところもあるそんなところから考えないと、ある種の道徳主義っていうか、それがいつまでたっても抜けないんじゃないかなと思うところは一つある。

立岩は、協同組合主義に対してこのように言っているが、「ある種の道徳主義が抜けない」と言っていいのかどうか分からない。

 

立岩 3点目。ある種の組織が自分たちだけで何かいいことをやろうとしても、基本的にうまくいかないっていうことを考えとく必要がある。…ある社会全体のある局所が何か思いついて、例えば賃金なら賃金を平等主義的な体系に移行させる、それでやろうとしたとする。それは基本的に良いことだし…そういう様々な試みは支持するが…ただそこにある限界みたいなのを見とかなきゃいけない。例えば、組織の中だけでより平等主義的な分配をしようとする。そうすると、その外部環境との接触面で、どうしても人材が流出していくとか、あるいはより労働能力が少ない人がほかではあんまり給料くれないけど、ここはいいらしいみたいなことで入ってくる、そういうことが起こりうる。これは理論的に言えるだけじゃなくて、過去数十年というか、いろんな小っちゃいとことかでそんなことがあるのは見てきた部分もあるので、本当におこるでしょう。確かに大きなところですべからくすべてを計画し統制することはできもしないし、しない方がいいだろうとも思う。ただ現状に飽き足らずそれじゃだめだと思って、自分のところだけは何かするぞと思ってやっても、そういうことが起こる。そこの合間っていうか、その両方の難しさをどうやって抜けるかっていうのが、いま課せられている、考えるべき主題だろう。

地域、国家、世界…どのレベルで、どういう組織を考えるか、それによって、うまくいくこともあるし、うまくいかないこともある。それは当然だろう。

 

立岩は、次に「国境を超えた分配」の話をしているが、それは次回に。