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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

市場(1) 自由? 普遍性? 効率性?

平野・亀本・服部『法哲学』(23) 

今回は、第4章 法と正義の基本問題 第3節 市場-効率性と倫理 である。平野は、「経済市場に対する法的規制の基本的な役割は何か。全体社会の中に市場を適切に位置づけるためには、どのような考慮が払われなければならないか」という問題意識のもと、リバタリアニズム(自由至上主義)が提起した経済市場の問題を取り上げている。

リバタリアニズムは、個人的な自由を確保しうるメカニズムとして市場の優位性*1を説いた。そこにおける市場は、単に商品やサービスを売り買いする経済的な活動ばかりでなく、政治・文化・教育・科学・宗教など人間の様々な活動が自由に行なわれる開かれた場として捉えられていた。経済的な意味における市場を、それ以外の社会的な意味における市場から分離せず、一体的にその重要性を指摘するところには、自己決定や自治につながるリバタリアニズムの政治哲学的意味合いが含まれている。

リバタリアニズムが、「経済的な意味における市場を、それ以外の社会的な意味における市場から分離せず、一体的にその重要性を指摘する」のであれば、それは重要なことだと思う。人間のさまざまな活動を総合的に捉えることは難しいことだろうが、学問の専門分化に対応して、あまりにも一面的な見方が横行しているように感じられる。総合的視点はリバタリアニズムとは関係なく、強調すべき事柄だろう。

 

しかし、リバタリアニズムが提示する自由の体系には、その核心部分に所有権が、またその重要な要素として契約の自由をはじめとする諸種の経済活動の自由が含まれている。また産業社会の発展に伴い、企業の活動は拡大し、私たちの生活においても広範な領域を経済関係が占めるに至っている。政治的、社会的、文化的な活動さえ、経済的側面を抜きに語ることはもはや困難になっているといってもよいであろう。ここに、経済活動の場としての市場に着目して、その意義と限界を検討し、市場に対する法の基本的な役割について考察しておく意味がある。

所有権については、自由(2)リバタリアニズムの根拠と問題点 参照。

規制の強化について;

経済市場に関わる法的規制は、私的所有権と契約の自由を保障し、紛争解決など諸種の手続きを定める法制度だけではない。…(製造物責任法、消費者保護、公害規制、独占禁止法、製品の安全基準、労働基準、会社法、許認可制度など)経済市場を統制するための規則はこのように様々な局面において多様である

規制の緩和について;

近年の法制度改革動向の一つとして、規制緩和の重要性が指摘され、それが実際に推し進められている。…その基本理念は、自律型社会への構造改革であり、さまざまな規制による保護主義を避けて、より開放的で自律的な国民経済と経済市場の建設を目指すという点において、リバタリアニズムの考えかたに沿うものである。

規制緩和」という形の議論はいまやほとんど無いようだが、「いろいろな問題をはらむ経済市場の規制のありかた」は、依然として課題であろう。(本書は2002年の発行である)

規制の強化と規制の緩和、果たして市場には何が必要なのか。また市場に対する法的規制にはどのようなことが基本的に期待されているのか。

 

経済市場の意義

経済市場の意義については、市場一般のそれに加え、理論的にこれまで次の3点が指摘されてきた。①自由、②普遍性、③効率性である。

リバタリアンは、いったいどのような市場をイメージして、このような主張をしているのだろうか。それとも現実の市場ではなく、抽象的な理念としての市場[完全競争市場]なのだろうか。

 

自由…経済市場は個々人に自由を得させる。開かれた経済活動の場として、差別なく、誰しも意欲と資源を持つ者は自由に競争に参加することができる。また、身分関係に基づく財の分配でなくて市場メカニズムを介した分配であるから、いかに経済的に困難な状況にある人も、雇い主に対して人格的隷従を強いられることなく、働きに応じて収入を得ることができる。貨幣によって得られた収入をどのように使うのもまた自由である。

特定の商品の販売の場面を想定してみよ。あなたはその販売競争に自由に参加できるか。せいぜいが雇用されて、ノルマを課せられたセールスマンとして苦労するだけではないのか。

雇用されることも、労働市場における需給均衡として観念されるのだろうが、あなたの就活は、自由に競争に参加することだったか。

意欲と資源(能力)を持たない者は、どうなるのだろうか。競争に敗れた者は、野垂れ死にせよということなのだろうか。

「働きに応じて収入を得ることができる」と言うが、それは「この賃金で雇用する。いやなら雇わない(辞めてもらう)」ということを意味するのではないか。

「貨幣によって得られた収入をどのように使うのもまた自由である」と言うが、例えば、月5万円ほどの収入しかなくても、「どのように使うのもまた自由である」と、自由を礼賛できるのだろうか。

「自由」なる言葉に踊らされずに、「現実」を観察、直視してみよう。

 

普遍性…経済市場は普遍性を備えた制度である。市場では価値が貨幣を介して金銭評価され、評価に一定の客観性が与えられる。市場は、スミスの説明にあったように、利己心からする私的な経済活動を最終的には公共的な利益の拡大につなげる。そこにおいて前提となる合理的経済人(homo economicus)は何人にも共通する人間の本性的な部分であり、またそうした自然な本性を所与のものとしつつ作動する市場は、私的なものを公的なものに転化する普遍的なメカニズムであるともいわれる。さらに市場を市場として成り立たしめるルールは、スミスの説明では、人間が本来的に有する共感の働きによって、対立する利害の調整の中から、例えば窃盗を禁じるとか、詐欺による契約を取り消しうるものとするといった消極的な意味でのルールがコンセンサスによって自生的に形成されてくるのであり、それらは市場に必要な正義のミニマムな条件として普遍性を持つに至るという。

「市場は、利己心からする私的な経済活動を最終的には公共的な利益の拡大につなげる」と言うが、ここで一番問題なのは「公共的な利益」をどのようなものとして考えるかである。利己心から、有害物を垂れ流し続けたり、無理なチャレンジ目標を強制し、労働者を酷使するような経済活動が、公共的な利益につながるのだろうか。

「合理的経済人は何人にも共通する人間の本性的な部分である」と言うが、このような人間観が唯一絶対であるかのごとく前提において展開する議論は、私には極めて奇異に感じる。しかも、それが「自然な本性」とは、あまりに偏狭な(軽薄な)決めつけではなかろうか。

「窃盗を禁じるとか、詐欺による契約を取り消し可とするようなルールが、コンセンサスによって自生的に形成されてくる」と言うが、それは「市場だから」とでもいうのだろうか。「モーゼの十戒(じっかい)」を参照せよ。

「自生的に形成される」と言うが、それは「市場」形成以前の、「交換・取引」が為されてきたときからのルールではないか。

「それら[ルール]は市場に必要な正義のミニマムな条件として普遍性を持つに至る」などと、もっともらしい言い回しをしているが、「市場に必要な正義のミニマムな条件」なるものを、どれほど真剣に考えているのだろうか。何かよく分らないものが「普遍性」を持つといっても、説得力がないだろう。

 

効率性…経済市場は効率的なシステムである。競争市場がつねに生産性の向上と市場に好感される商品の開発とにインセンティブを与え続けるため、それによって社会的資源が浪費されることなく、その効率的な利用を可能にする。また、市場における交換により、…財はより高い価値付けを得るのであり、より大きな満足をもたらすという意味において効率的である。それだけではない。市場は多元的な要素を含む分散的決定のシステムであるがゆえに、理想的な市場においては常に最適の均衡が模索され、中央集権的な統制経済に比べてはるかに効率的であるとされるのである。

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「競争市場がつねに生産性の向上と市場に好感される商品の開発とにインセンティブを与え続ける」とはどういう意味か。言葉の意味を確認しておこう。

生産性とは、投入量と産出量の比率をいいます。投入量に対して産出量の割合が大きいほど生産性が高いことになります。投入量としては、労働、資本、土地、原料、燃料、機械設備、などの生産諸要素が挙げられます。産出量としては、生産量、生産額、売上高、付加価値、GDPなどがあります。…通常、生産性というと、労働を投入量として測った生産性(労働者1人1時間あたりの生産性=「労働生産性」)を指すのが一般的です。

物的労働生産性=生産量÷従業者数。価値労働生産性=生産額÷従業者数=(生産量×製品価格)÷従業者数。

日本生産性本部http://www.jpc-net.jp/movement/productivity.html

 この式をみれば分かるとおり、創意工夫により生産性を向上させることも、労働強化により生産性を向上させることもできる。電通過労自殺問題を想起せよ。価値労働生産性について言えば、製品価格の吊り上げ(←独占)によっても、生産性を向上させることができる。

 

インセンティブとは、意欲向上や目標達成のための刺激策。個人が行動を起こすときの内的欲求(動因:ドライブ)に対して、その欲求を刺激し、引きだす誘因(インセンティブ)を指している。企業では、自社の従業員を動機づけるためだけでなく、販売店の販売意欲や消費者の購買意欲を駆り立てる目的でも用いられる。具体的には、報奨金、表彰、景品などの形をとる。(ナビゲート ビジネス基本用語集)

インセンティブとは、従業員を動機づけするような刺激となるようなものを言う。主なものは、昇給、昇進・昇格、一時金(賞与・ボーナス、報奨金等)、職場環境、労働条件の改善 等。(人材マネジメント用語集)

 言葉の意味がわかったら、「競争市場がつねに生産性の向上と市場に好感される商品の開発とにインセンティブを与え続ける」の意味を考えてみよう。わかりやすく言えば、「もっと売れる商品を、もっと安く、もっと早く作れ。成果をだせたら、昇進させてあげよう。ボーナスもはずむよ。」というようなことを、「競争市場」は要請する、ということである。しかし、学者は決してこんな「下品な」言い方をしない。

 

生産性の箇所で、引用を省略した部分がある。それは次の「例えば~」の部分である。

市場における交換は、例えば財gを売ろうとするAのgに対する評価よりも、それを買いたいとするBのgに対する評価の方が大きい場合にのみ成立する。したがって、社会的財としてのgはより高い価値づけを得るのであり、より大きな満足をもたらすという意味においても効率的である。

次の図*2

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財gを売ろうとするAのgに対する評価は、供給曲線で表される。財gを買いたいとするBのgに対する評価は、需要曲線で表される。そうすると、上の文は「市場における交換は、供給曲線よりも需要曲線が大きい場合にのみ成立する」となる。価格がPより高ければ、買い手はQより少ない量しか買わず(その量まで取引が成立する)、価格がPより低ければ、売り手はQより少ない量しか売らない(その量まで取引が成立する)*3価格がPより低下/上昇しても、E点に達するまでは取引量が増え、売り手、買い手とも満足が増える。この論理は理解できる。

しかし、この論理から「社会的財としてのgは、より高い価値づけを得る」などとどうして言えるのか。「より高い価値づけ」など、意味不明な言葉である。商品価値が高まるというのだろうか。これは、言葉尻を捉えただけかもしれないが、「社会全体として、より大きな満足をもたらす」と言えば済む話である。リバタリアニズムが、これを賞賛するならば、「功利主義」に与していることになろう。問題は、これを「効率的」と称して、市場を礼賛できるかどうかである。

いま価格がPであるとしよう。供給曲線との交点までしか取引されず(企業は赤字にしたくない)、買いたい人すべてに行き渡らない。結果、価格はPまで上昇する。これが何を意味するかである。Pなら買おうという人が、Pになったので買うのをあきらめるということである。ウナギは高すぎるので、アナゴにしようとなる。これは、あの家ではウナギを食ってるが、我が家は貧しいのでアナゴで我慢している、ということを意味している。うちではイワシを食ってるよ*4、という人も多い。なぜこうなるのか。収入が少ないからである。財産がないからである。格差を意識させられる場面である。PからPへの変化に伴うこの状況を、「効率的」と称して、市場を礼賛できるかどうかである。確かに社会的余剰は増えているかもしれない、しかしこれを「効率的」と称してよいのだろうか。

 

効率的なシステムとしての市場

経済市場の効率性は、市場機構の大きなメリットとして厚生経済学の基礎となっており、市場論者がしばしば言及する点でもある。法や政治にかかわる含意をもう少し明らかにしておこう。

例えば、単純なケースとして、Pが自宅に上水道を敷設したいと考えているとしよう。市場にVやWという水道取り扱い業者があれば、PはV及びWと交渉して、どれくらいの設備にどれくらいの費用がかかるかを比較検討する。VはWより上質の設備を提供してくれるが費用がWより高い。このようなとき、PがもしWの設備で十分であり、費用の面で安い方が好都合であると判断するならば、Pは、VではなくWとの契約を選択することができる。Pにとっては、上水道の敷設をVに依頼するよりもWに依頼するほうが満足度が高いわけであるから、そのような選択の自由を可能にする市場システムは効率的であると言われる。

これがもし、市場システムを介してではなく、統治機構を介してなされる場合はどうであろうか。Pは、税金を納めているその地域の役所に上水道の敷設を申請する。役所は業者を選定して派遣し、業者が規格に従った工事をやってくれるということになる。Pにとっては交渉の余地も選択の余地もない。しかも、役所では決裁が下りるまでにかなりの時間を要し、なかなか工事にとりかかってもらえない。再三役所に足を運んでやっと工事をやってもらったはいいが、派遣された業者の仕事にPは必ずしも満足できない。そういうことはよく指摘されるところである。つまり、手間も時間も費用(税金)もかかり、最終的な満足度も低い。したがって、統治機構による分配は市場システムに比べて非効率的だとされるのである。

 

具体例があると考えやすい。「PがもしWの設備で十分であり、費用の面で安い方が好都合であると判断するならば…」とあるが、上質な設備を提供するVのほうが良いに決まっている。だけど、Wを選択する。なぜなら、Vは高くて買えず、Wなら買えるからである。この事態を、「費用の面で安い方が好都合である」と表現するのは、消費者心理を適切に表現していない。「費用の面で安い方で我慢する」のである。「Vに依頼するよりもWに依頼するほうが満足度が高い」のではない。満足度は低いが、カネがないからVに依頼するのである。こういうと、「満足度」というのは、「品質の評価」のみではなく、「費用」を考慮にいれたものであると言われるかもしれない。では、こういうのはどうだろうか。仮に、Vの品質評価が1000、費用が50で、Wの品質評価が600、費用が40とすると、品質評価/費用は、V:20、W:15で、Wの「満足度」は小さい。つまり、満足度をきちんと定義しないと、「Vに依頼するよりもWに依頼するほうが満足度が高い」とは言えない。したがってまた、「そのような選択の自由を可能にする市場システムは効率的である」とは言えないだろう。

統治機構を介した場合、「交渉の余地も選択の余地もない」と言うが、これは本当に望ましくないことなのだろうか。専門知識のない素人が、どれだけまともな交渉ができるだろうか。手抜き工事、過剰設備にもかかわらず、うまく言いくるめられて契約してしまうということがないのだろうか。交渉の時間と手間は馬鹿にならないと思うが、そんな余裕がなければどうしたら良いのか。あい見積りしようにも、近辺に適切な業者がいない場合どうするのか。…というようなことを考えていくと、(多くの案件を扱い)専門知識があり、価格交渉力もある公的機関が、品質面で安心できる業者を選択してくれたほうが、よほど合理的ではないだろうか。(現実的な解は中間にあるのかもしれないが、それはいずれ…)

「つまり、手間も時間も費用(税金)もかかり、最終的な満足度も低い。したがって、統治機構による分配は市場システムに比べて非効率的だとされる」と言うが、これは根拠のない決めつけのように思われる。

 

 

*1:市場の優位性…本書は「有意性」とあるが、「優位性」(計画経済に対する市場経済の優位)の間違いではないかと思い、「優位性」と表記した。(私の解釈間違いかもしれないが…)。

*2:BEPが消費者余剰(消費者の得した分)であり、△AEPが生産者余剰(生産者の得した分)である。両者の合計が社会的余剰である。を見ながら、この引用文の意味を考えてみよう。

*3:価格線を引いてみればわかる。

*4:イワシは高級魚になったり、大衆魚になったりする。