気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

キャバレーのピアニスト エリック・サティの音楽とは?

岡田暁生『音楽の聴き方』(15) 

ケージ美学のルーツ

それだけではない。ケージたちの思想は決して単なる珍奇な思いつきではなく、ある歴史的必然性の中で出てきたものであることも理解しておかねばならないだろう。例えばケージ美学のルーツの一つとして考えられるのが、1910年前後の未来派による実験以後の、ノイズを音楽の素材にしようとする前衛音楽の系譜である。イタリアの作曲家ルイジ・ルッソロはイントナルモーリという騒音発生装置を考案して、それを楽器だと称した。エドガー・ヴァレーズは打楽器のみによる騒音アンサンブル《イオニザシオン》を作曲した。またフランスのシェフェールはノイズをテープ加工して作るミュージック・コンクレートの実験を行った。既にノイズと楽音[音楽構造の中に組み入れられ、その中で特定の意味作用の機能を果たしている音]の境界は20世紀初頭から曖昧になっていた。つまり「音」と「楽音」との間の線引きこそ、20世紀音楽史の最大の課題の一つだったのである(そして今日なおそうであり続けている)。

ルイジ・ルッソロ(Luigi Russolo、1885-1947)は、イタリア未来派の画家・作曲家・楽器発明家である。イタリア未来派については、青の時代(ピカソ)、キュビスム、未来派 参照。好みではないが、彼の絵を一つだけ見ておこう。ケージ『4分33秒』のイメージ画像としてふさわしいかもしれない。

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http://www.unknown.nu/futurism/images/russolo.jpg

 

エリック・サティ(Erik Alfred Leslie Satie、1866 – 1925、フランスの作曲家)について

サティの「家具の音楽」の概念も重要である。既にみたように19世紀ドイツのロマン派は、交響曲や楽劇を宗教儀礼に聖化する傾向があった。それに対して近代フランスでは、ドイツ音楽への反動として、音楽によって音楽以上の何か形而上学的なものを表現することに対して批判的な思想が生まれてくる。例えばドビュッシーは「音楽は謙虚に人を楽しませることに努めるべきです」と言う。彼がミュージックホールの「軽い」音楽に惹かれたのは、まさにそれが音楽以上の何物でもなかったからだろうし、サティもまたキャバレ-のピアニストをやっていた。そして彼――サティはケージに強い影響を与えた――は、ベートーヴェン以後の「理念を語る音楽」との対比で、「家具の音楽」ということを言ったのである。サティ美学に心酔していたジャン・コクトーは、「フランスのすべての重要な作品のうしろには、家や、ランプや、スープや、火や、酒や、パイプなどがある」として、「家みたいに、住める音楽を建ててもらいたい」と書いている。「家具の音楽」は、人々の日常の中でただ存在している音楽、声高に演説をしない音楽、環境としての音楽であった。

Wikipediaによると、

サティは「音楽界の異端児」「音楽界の変わり者」と称され、西洋音楽に大きな影響を与えたと見なされており、ドビュッシーラヴェルも「その多くの作曲技法はサティによって決定づけられたものだ」と公言している。そして、印象主義の作曲家たちにも影響を与えたとされる。…家具の音楽』というのは彼が自分の作品全体の傾向を称してもそう呼んだとされ、主として酒場で演奏活動をしていた彼にとって客の邪魔にならない演奏、家具のように存在している音楽というのは重要な要素であった。そのことから彼は現在のイージーリスニングのルーツのような存在であるともいえる。(Wikipedia)

サティがキャバレーのピアニストをやっていたという話だが、「キャバレー」に誤解がないように。

「ベル・エポック(良き時代)」と呼ばれ、芸術の都パリが最も華やかで成熟した時代、芸術家の拠点モンマルトルに一軒のキャバレーがオープンしました。19世紀末のことです。店の名は「シャ・ノワール」。黒猫[Chat Noir]と名付けられたこの店は、芸能・娯楽の新たなスポットとして、またたくまに人気を呼び、多くの人々が集う一大社交場となっていきます。芸術家の関心も高く、作曲家のドビュッシーやサティ、建築家のエッフェル、詩人のヴェルレーヌ、小説家のゾラ、画家のロートレックらが足繁く通い、芸術家と若者たち、刺激を求める上流階級の人々がテーブルを共にしました

あまたのカフェやキャバレー、ダンスホールで賑わうモンマルトルで、「シャ・ノワール」がひときわ異彩を放ったのには、店主、ロドルフ・サリスの戦略がありました。詩人のエミール・グドーと図り、セーヌ左岸、カルチェ・ラタンで萌芽したカフェの若者文化を、右岸のモンマルトルに流入させて人々の興味を惹きつけたのです。「アンコエラン(支離滅裂な人々)」「フュミスト(冗談好き)」と称する若者たちが繰り広げた反芸術的な活動がそれです。彼らの風刺やユーモアに満ちた行為や作品は、言葉やイメージによる掛け合いからなるもので、20世紀のダダやシュルレアリスム、更にはコンセプチュアル・アートをも先取りするものでした。

http://www.yumebi.com/acv45.html

 

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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/ba/Steinlein-chatnoir.jpg

 

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https://bonjourparis.com/wp-content/uploads/migrate/anna_meakin/chat_noir_crowd.jpg

 

では、サティの『ノクターン』(代表作ではないかもしれないが)を聴いてみよう。

www.youtube.com

Paintings by: Jean Béraud & Edouard Léon Cortès

この曲の私のイメージ画像は、

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https://one1more2time3.files.wordpress.com/2009/12/8cortes-paris-6.jpg

 

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http://www.odysseymedia.org/docs/productions/whistler/ref-images/Lesson-4-Images/Nocturne-_Blue_and_Gold--Southampton_Water_AIC.jpg

 

岡田やwikipediaの説明を読むと、サティの音楽が、「心地よい、軽い音楽」「人々の日常の中に存在している、アットホームな曲」「イージーリスニング」であるかのように思うが、決してそんなことはない。

上にとりあげたノクターンに限らず、サティの曲全般に、「軽快なイージーリスニング」の趣はない。「神秘主義に親密なヒーリング・ミュージック」の感じがする。

家具の音楽」は、「人々の日常の中でただ存在している音楽、声高に演説をしない音楽、環境としての音楽」なのであろうが、それは「人々の喧騒な日常」の基底/背景/環境に存在しているサウンドを、キャバレーの片隅でひっそりと拾い上げているもののように感じる。

 

自意識肥大のロマン派が孕んでいた似非神学の欺瞞については、既に第2章で概観した。音楽が信仰の対象に、言葉を超越した啓示に、振動する宇宙のシンボルになる。作曲家は神、演奏家や評論家は司祭、聴衆は信者だ。ストラヴィンスキーバイロイト音楽祭で辟易したロマン派の「宗教ごっこ」に対する解毒剤として、サティ=ケージ美学の役割は大きかったコクトーいわく「芸術品から生ずる感動は、感情の恐喝によって得たものでなければ、真に価値がある」。また三島由紀夫が「音楽に対する私の要請は、官能的な豚に私をしてくれ、ということに尽きる。だから私は食事の喧騒のあいだを流れる浅はかな音楽[中略]しか愛さないのである」という言葉で表現しようとしたのも、まさにこのことであったろう。音楽など所詮は快適な娯楽、耳元を心地よく通過してくれればそれでよし。歴史的に見ればこれは、ズルツァーやカントに代表されるような、18世紀以前の美学への回帰の動きであったとも言えるかもしれない。

ロマン派の「宗教ごっこ」に対する解毒剤として、サティの音楽があったとして、現代のクラシック愛好者は、サティをどう評価し、感じているのだろうか。