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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

バウハウス(建築の家)の芸術家たち

末永照和(監修)『20世紀の美術』(6)

1919年に、ドイツの建築家ヴァルター・グロピウスは、ワイマールにバウハウス(建築の家)と呼ぶ国立の美術工芸学校を創設した。バウハウスは、…産業と芸術との融和と協同を図り、生活に応用する道を探った。…多くの先鋭的な美術家が招聘され、マイスター(親方)として教育を担当した。…中世のゴシックの大聖堂をつくった職人たちのように、諸芸術家が協同して総合芸術である建築をつくりあげる建築は新しい理想の社会そのものだった

バウハウスは「工芸・写真・デザインなどを含む美術と建築に関する総合的な教育を行った学校であり、その活動は現代美術に大きな影響を与えた」(wikipedia)という。グロピウスは、バウハウス創立宣言(1919)で、次のように述べる。

あらゆる造形活動の最終目標は建築である! 偉大なる建築芸術に不可分な構成要素である諸々の造形芸術にとって、かつてはそれを装飾することが最高の課題であった。今日、それらには自己充足的な特性がみられるが、あらゆる工作者が入り混じって意識的な相互の共同作業を行うことによって、そこから再び救済することが可能となる。建築家、画家、そして彫刻家は、多様な建築の形態を、再びその全体と部分において知り、理解しなければならず、そうすることによって、彼らの仕事は自ずと、サロン芸術において失われた建築的精神によって、もう一度満たされることになるだろう。…建築家、彫刻家、画家、我々全員が、手工芸に戻らねばならない! なぜなら、「職業としての芸術」は存在しないからである。芸術家と工芸家との間に本質的な差異はない。芸術家とは、高められた工芸家である。彼の意志の彼方にある天の恩寵が、稀なる光の輝く瞬間に、彼の手仕事から無意識に芸術を花盛りにするのである。しかし、工芸に適した基礎というものは、すべての芸術家に不可欠のものである。そこに創造的造形の源泉がある。(訳:本村健太)

http://kenta.edu.iwate-u.ac.jp/KENTA/bauhaus/html/003.html

ル・コルビュジェ(1887-1965)、フランク・ロイド・ライト(1867-1959)、ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969)が近代建築の三大巨匠と呼ばれ、あるいはヴァルター・グロピウス(1883-1969)を加えて四大巨匠と呼ばれる。グロピウスはバウハウスの初代校長(1919-25)、ミース・ファン・デル・ローエは三代目校長(1932-33)である。

建築の話は興味深くいずれとりあげたい。ここでは、バルセロナ万国博覧会(1929)で建設されたドイツ館(博覧会終了後に解体されたものの1986年にミース記念館として復元)の画像を一つだけあげておこう。いかにも近代建築という感じがする。http://architecture-tour.com/world/spain/barcelona-pavillion/

 

バルセロナパビリオン(ミース・ファン・デル・ローエ記念館)

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http://blog-imgs-49.fc2.com/k/e/n/kentikuarchive/201110050057104f8.jpg

 

バウハウスでは人間の生活に関わる多くのものがデザインされたが、では人間そのものはどう捉えられていたのだろうか。…舞台芸術は光や音と一体となり、身体としての人間のパフォーマンスが展開される総合的な空間造形のモデルだ。バレーや演劇と関わりながらシュレンマーは、総合芸術としての舞台空間の造形に貢献する。

舞台芸術は総合的な空間造形のモデルだという。ここではシュレンマー(1888-1943)ではなく、現代の舞台空間を見てみよう。

 

舞台空間デザイン(アヴィニヨン演劇祭)

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アヴィニヨン演劇祭(2014)のブルボン石切場という、世界でも例のない特異な敷地の為にデザインされた、リング状の舞台が客席を取り囲むという空間構成。(撮影:新良太)

http://kiz-architect.blog.so-net.ne.jp/archive/c2302915884-1

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http://kiz-architect.blog.so-net.ne.jp/archive/c2302915884-1

 

1917年西欧からロシアに帰ったカンディンスキー(1866-1944)は、モスクワの芸術文化研究所の設立に協力し、美術学校の教授や絵画文化美術館長などに就任する。しかし、ソビエト政権に失望してドイツに向かい、1922年バウハウスに招かれ、1933年バウハウスが閉鎖されるまで残った。

スイス生まれのパウル・クレー(1879-1940)は、「ブラウエ・ライター(青騎士)時代」からのカンディンスキーの親友である。バウハウスで指導し始めるのは1921年。

1928年バウハウスの校長が職能教育を重視するハンネス・マイヤーに変わる。失望したクレーは、その後建築家のミース・ファン・デル・ローエが校長になった後の1931年、バウハウスを辞める。

カンディンスキーとクレーは、バウハウスで芸術の必然性や機能、人間との関係について思索し、多くの文章を残した。社会との関係を志向するバウハウスの環境だからこそ可能だった。しかし、1933年バウハウスナチス政権によって弾圧を受け、解散させられた。

 カンディンスキーとクレーの作品を見てみたが、魅力的なものはない。しかし、一点ずつあげておこう。

 

コンポジション8/カンディンスキー

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http://www.wassily-kandinsky.org/images/gallery/Composition-VIII.jpg

 

セネシオ/クレー

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