浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

不平等論(6) 誤った二分法 乱暴に考えないこと

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(11)

何をするか、しないかを考える

立岩 第1点。何をするか、しないかを考えること。…人がスタートラインにつくときに自分が持ってる自分の身体以外の手持ちの部分をわりとフラットにしよう、そしたら結構うまくいくんじゃないかってアイディアは、かなりうまくいくと思う。けれど、一人ひとり違うじゃない、それだけじゃ済まないだろう。…じゃあ何がいいの、どうするのっていうところで同じなのか違うのかが分かれてくる。あるいは分かってくる。…結局何がいいのさっていう議論さえ何だかよくわかんない、ぐじゃぐじゃっとした感じで、10年、20年あるいは30年過ぎてきたっていうのが我々の社会というか社会科学であったような気が僕にはある。それではあまりフニャフニャしてていやだから、ちょっとそういうところははっきりさせよう、…何と対比して何が良いと言うのかっていうところは、理由も含めてはっきりさせようと。

立岩は「何がいいのかという議論さえ、ぐじゃぐじゃ、フニャフニャしている」という。私たちの社会(政治)や社会科学がそうであったか(今もそうであるのか)どうか私には分からないが、気分としては同感である。私たちは、「幸福」「平和」「自由」「正義」「成長」「豊かさ」「平等」等々、何をめざして、何をしてきたのか。「良くなった」と言えるのか。私たちは、どのようでありたいと思っているのか。

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http://yongl.deviantart.com/art/Hell-Or-Heaven-278094639

 

乱暴に考えない

立岩 第2点。乱暴に考えないこと。どういう理由でどっちを採るのか。…結局、1か0かっていう話にして、0じゃなきゃ1だ、みたいな話をしてきた。では、すべからくすべてを一箇所で統治・統制するのではない形は、今のままのそのまんまか、そうじゃないっていう話をした。例えば、労働基準法のような様々な法制がある。そういった具体的な実定法のレベルでの様々な政策・施策をどう評価するのか、どう肯定するのかあるいは否定するのか。これは非常に面白いテーマだ。労働の場面で、企業の中で解決すべき問題なのか、そこはそこまでとしてそれ以外の部分で保障すべきなのか。所得保障の問題にしても、企業の中で賃金を保障するっていうタイプにいくのか、そうではなくて別のところで所得保障っていうアイディアを採るのか、あるいはそれの中間くらいでどういう混ぜ方で混ぜてくるのか。そういう話を政治学者や法学者はやってこられたんだろうけど、しかし論の詰め方が甘いというか、どういう理由でどっちを採るのっていうところが、実はあまり論じられてこなかったんじゃないか。だから、そこにも為すべきことはあるだろう。そこに、国家ってどう介在すべきなのかっていう、1か0の話じゃなくて、何をするのかしないのかっていう話をすべきところが広大に広がっている。

「乱暴に考えない」…なかなかうまい言い方だ。話し相手に向かって「乱暴に考えるな」というのは、いささか非難めいていて良くないだろうが、自戒の言葉としては良い。「乱暴に考えないこと」。

乱暴に考えることの典型は、「誤った二分法」(後述)だろう。中央集権の国家統制か自由か。統制か規制緩和か。…このような安易で乱暴な議論ではなく、「いま問題にしているレベルにおいては、これこれこういう理由で、こうすべきだろう」との議論をすることが必要だろう(例えば、電通過労自殺に象徴されるような長時間労働に対する規制のありかた。いまに始まった問題ではない)。そして実際には、そのような議論が為されていないのかと言えば、決してそんなことはない。しかしその議論の実態はよく分からないので(どれだけ突っ込んだ議論をしているか)、今はそれ以上のことは言えない。

 

実行可能性について

立岩 第3点。人間ってこんなもんさねっていうところで話を収めないこと。…実行不可能な絵に描いたモチみたいなことを言ってもしょうがないという感じはある。しかし、人間ってこんなもんだから、せいぜいこんなもんでしょ、こんなところで諦めといてね、みたいな話になるが、それで良いと言うのか。…フィージビリティ[実行可能性]は大事だということは当然に認めつつも、人間ってこんなもんさねっていうところで話を収めていいのか。…人間ってこういうもんさっていうところから社会を立てていく議論がある、そうすると当然社会はその範囲にしか収まらない、それでいいのか

「人間とはこんなもんさ」(例えば「人間は利己的な動物である」という主張)というのは、生半可な生物学の知識や個人的な(狭い範囲の)経験からの決めつけのような気がする。そのような曖昧な考えを前提にして、人間社会のあるべき社会を考えるべきではないと思う。その前提を吟味することをせず、「人間とはこんなもんさ」と主張することは、改善意欲を萎えさせ、諦めさせる政治的効果を持つもののようだ。

立岩 その問題を考えるとき、人間のあり方、欲望のあり方は何によって規定されてるのか、それは社会的に規定されてるんだっていう話がどう位置づいているか、これはけっこう面白い問題だ。…人間こんなふうでしかないのさって言いながら、そんなところからは実現しないような社会を語ることの矛盾、そういうことが僕は気になっていた。それは非常に乱暴な解によって両立する。つまり、社会が先行的に、何かしらのかたちで変わることによって人間が変わる、人間が変わることによってその社会のフィージビリティ[実行可能性]が担保されるという。…まず社会が変わる。すると、今度はその社会が人間を規定するから、別の社会が運航していくことが可能になる。こんな具合でつながる。しかしつながるためにはまず社会の方が変わらなければならない。でもそれは誰が変えるのかって考えたときに、人間が変えるって話になるわけで、循環論というか出口のない話になってしまう。少数の人たちであっても先駆的に行動し、うまいこと立ち回って革命を実現してしまえば何とかなるだろうということになるのだけれども、なかなかに難しい。今の人間がこんなもんだって考えれば、ここまでしか社会はいかない。そこに居直るのかどうかっていう問いを、…ただのフィージビリティ[実行可能性]に落としちゃって、社会を組み立てていくっていうのには、僕は乗らないようにしようと思っている。

人間(個人)⇔ 社会(制度)なのであるが、ここに大きな力を持っているのは、「官僚」による、社会(制度)→人間(個人)の流れだろう(いずれ詳しく検討したい)。立岩の話は、「革命論」ではなく、「官僚論(民主主義論)」として受け止めたい。

 

合意は大切だが合意でしかない

立岩 第4点。社会の組み方(体制)は、みんながいいって言わなきゃ、そうならない。無理してやったって、すぐもとに戻っちゃう。一方で、確かにそうなんだけれども、ではそのとき、今いる人たちの多数の同意、合意形成で、何事かが可能になるその範囲が、我々が描きうるその範囲である、と居直るということではないんではないか。実際に社会が人間によって構成されているからには、みんながうんと言わなきゃ動かないってことは重々わかりつつ、しかし、この件に関してはこの方が良いはずだと、言えるんであれば、言っていくべきであろうと。

 現在の社会(体制、)は、誰が、いつ、決めたのか。「今いる人たちの多数の同意、合意形成」で決めたものではない。の制定・改正の現実を、ちょっとだけでも思い起こせば、「今いる人たちの多数の同意、合意形成」によるものではないものが大部分であることは明白だろう。したがって、「法の制定・改正」をいかに進めていくべきかが、重要な論点であると思う。

立岩 所有なら所有に関係する規範とか価値っていうのはこういうもので、これは正しいんだって思われている。そう思っている人はたくさんいる。それに関しては、これこれこういうわけで、それはそうじゃないんじゃないかと言うことは最低可能だ。

「所有」に関係する規範とか価値を、(「所有権」を無条件に前提し)議論の対象から排除すべき理由はないと思われる。私は、「所有」に関しては、思考停止があるように感じている。

 

まとめ

立岩 第1点 どういうものがいいのかっていうことに関していま出てるさまざまな面白いアイデアで、どこに自分の場所を置くのかを意外とぼくらは考えてきてない。だからそれは考えた方がよい。

第2点 いま存在する市場に対する、あるいは市場の外側に置かれているさまざまな社会規範、規則をどう評価するのかを、市場をなくすとか市場で全部いくっていう話じゃなくて、具体的に考えていくべきである。

第3点 そういった大きな部分あるいは具体的な部分の変更可能性ということを考える上で、人間がかくかくしかじかであるがゆえに実行化可能姓がここまでであるっていう話を正面から大切なものであると受け止めつつ、それで話が終わっていいのかという態度・姿勢を持つべきであろう。

第4点 どういう形の社会が可能かというときに、社会というのは要するに合意できる範囲でしか動かないんだっていうことを事実として認めつつ、その事実の重さを引き受けつつ、今あなたが、人々が正しいと思ってることはそうじゃないんじゃないかってことは言えるだろうし、言えるなら、言ってけばいいんじゃないか。

 

<誤った二分法>

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「誤った二分法」とは、「実際には他にも選択肢があるのに、二つの選択肢だけしか考慮しない状況」(Wikipedia)である。

密接に関連する概念として、ある範囲の選択肢があるのにそのうちの両極端しか考えないという場合もあり、これを白黒思考などと呼ぶ。

2つより多い選択肢の一覧が示され、その一覧以外の選択肢が存在するにもかかわらず考慮しない場合、これを誤った選択の誤謬 または網羅的仮説の誤謬と呼ぶ。

誤った二分法は、特に選択を相手に強いるような状況で生じる(「お前が俺たちの仲間にならないなら、お前は敵だ」)。また、希望的観測や単なる無知によって選択肢を網羅できないために発生することもあり、詭弁とは限らない。

2つの選択肢が提示されたとき、それらは様々な選択肢の両極端であることが多い(常にそうとは限らない)。これは、選択肢が相互に相容れないものだという印象を与え(本当はそうではないかもしれない)、より大きな主張を信じさせる効果をもたらす。さらに選択肢は網羅的であるかのように提示されるが、他の可能性を考えたり、ファジィ論理のように可能性のスペクトル全体を考慮することで、誤謬だと指摘できるか、少なくとも効果を弱めることができる。(Wikipedia)

 

白黒思考とは、1か0かの思考である。中央集権の統制か否か、という思考をする。規制緩和か否か、という思考をする。善か悪かという思考をする。中間を考えない実に乱暴な考え方である。現実の統制や規制の具体的内容を吟味せず、統制=スターリンのイメージで、論敵をバッサリ切る。なぜこんな乱暴な主張が大衆受けするのか。

 

「誤った二分法」については、「教祖様にツッコミを入れるページ(ボケにはツッコミ入れな あきまへんで兄さん)」(http://tukkomi.takara-bune.net/kosatsu/mottomo09.html)の記事が参考になる。このタイトルをみると軽い内容の記事かと思うが、決してそんなことはない。至極まっとうな内容の記事である。例えば、次のような具体例が挙げられている。(「誤った二分法」にだまされないようにするにはどうすればよいか、どのような人が「誤った二分法」を使用するかについても書かれていて、おすすめである)

  1. エホバの証人*1のケース…現在地上ではエホバ神とサタンがハルマゲドン(世界最終戦争)を繰り広げている。その結果、近く全人類は滅びるが、エホバの証人だけは生き残り、その後に出現する地上の楽園で永遠の生命を手にすることができる。
  2. 進化論を否定し、インテリジェント・デザイン*2へと誘導するケース
  3. 同時多発テロ陰謀論*3のケース

「誤った二分法」の論理展開は、次のようなものである。

1.否定したい説の問題点をあげ、否定する。

2.その問題点を解決するものとして、誘導したい説を登場させる

この論理展開は、ある説を否定し、別の説へと誘導する際に用いられるもので、かつ、その二つの説が連動しておらず、一方の説が否定されたからと言って、誘導したい説が直ちに正しいことにはならない場合に用いられるものである。

これらとは違い、二つの説が連動している場合には、次のような論理展開が使用される。

1.誘導したい説の利点・根拠をあげて肯定し、かつ、否定したい説の欠点・否定的根拠をあげ否定する

2.よって、誘導したい説は正しい

この場合、誘導したい説を肯定する為に、否定的な情報が隠されたり、また、時にウソの根拠が示されたりする

 ウソの根拠は「ウソも方便」、「大義の前では、少々の偽りはやむを得ない」として合理化される。

*1:エホバの証人キリスト教系の宗教組織。2014年の公表値によると、エホバの証人の全世界での伝道者数は約820万人である。(Wikipedia)

*2:インテリジェント・デザイン説…「知性ある何か」(サムシング・グレート)によって生命や宇宙の精妙なシステムが設計されたとする説。『宇宙・自然界に起こっていることは機械的・非人称的な自然的要因だけではすべての説明はできず、そこには「デザイン」すなわち構想、意図、意志、目的といったものが働いていることを科学として認めよう』という理論・運動である。近年のアメリカ合衆国で始まったものであり、1990年代にアメリカの反進化論団体、一部の科学者などが提唱し始めたものである。(Wikipedia) …インテリジェント・デザイン説はなかなか面白い(インテリジェント・デザイン説を皮肉った「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」というものもある)ので、いずれ取り上げる機会があろう。

*3:テロをアメリカ政府があらかじめ知っていたが無視したとする説、政府自身による自作自演であるとする説が唱えられている。 また、本事件の公式見解を支持する場合であっても、事件時の不手際などを政府や軍が隠蔽しているのではないかという疑惑も、広義の陰謀説と呼べる。このような説が唱えられる背景には、このテロが低迷していたブッシュ政権に高い支持率を与え、アフガニスタン戦争とイラク戦争のきっかけとなり、それが軍需産業へ利益をもたらしたという経緯がある。(Wikipedia)