気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

サウンドの世界

岡田暁生『音楽の聴き方』(16) 

岡田は、「構造的聴取」について次のように述べていた。(ジョン・ケージとサウンドスケープ(音風景)参照)

(構造的聴取においては)個々の音は、それこそ言語と同じように、意味の担い手である。音による言語的/建築的構築物のパーツだと言ってもいい。周知のようにこうした聴き方は、ジョン・ケージ以降の音楽美学において、硬直した西洋クラシック・イデオロギーの権化のように批判されてきた。「意味」などから解放されて、もっと自由にサウンドの世界へ身を任せていい、傾聴するばかりが音楽の聴き方ではない。あたかも一つの環境のようにそれを聴いたっていいというわけである。 

ケージ以降の音楽美学が「意味などから解放されて、もっと自由にサウンドの世界に身を任せる」と言うときの「サウンド」について、岡田は次のように言う。

20世紀後半においてサウンド型聴取をかくも広く流通させた要因が、サティ=ケージ的な音楽思想への広い共感だけであったとはとても思えないということである。たかだか数人の愛すべき風変わりな前衛作曲家が何を言おうが、それだけで「音楽の聴き方」が世界規模で変化するものでもあるまい。私が言いたいのはつまり、サティ=ケージ的な「音楽の再音楽化/脱意味化」が、本来それと相容れるはずがなかった現代の文化産業にとって、まことに好都合なものであったと考えられること、しかもそれが、これまた本来その仮想敵であったはずのロマン派(とりわけその「音楽の宗教化」)と癒着し、一見しても分からないようなこんがらかった状況を作り出していると思われることである。

サティ=ケージ的な音楽の脱意味化が、「文化産業にとって好都合」、「音楽の宗教化と癒着」とはどういうことか。岡田は次のように言う。

ここでまず問題になるのは、音楽における「する」と「聴く」の分業である。19世紀に入って演奏部門の音楽家の数が飛躍的に増え、音楽を「する」部分の多くが彼らに委ねられるようになったのは確かである。しかし、20世紀初頭くらいまでは自ら音楽をする愛好家の数は、まだまだ多かった。例えばアドルノロラン・バルトも、家庭での連弾*1を通してベートーヴェン交響曲を知ったのである。今日の愛好家が家で夕食の後にCDを聴くような感覚で、彼らはピアノを弾いたり室内楽をしたりリート*2を歌ったりしたのだろう。しかしながら1920年代からレコード及びラジオが普及し始めるとともに、家で音楽をする習慣は急激に衰退し始める。アドルノが言う「能動的聴取の衰退」が進行していく。聴衆はもはや自分の身体を動かそうとはしない。家に居ながらにして、ソファに寝そべって、《第九》に感動することが可能になるのだ。能動的に意味を求めることをせず、うつらうつらしながら受け身でサウンドに身を任せるそれがロマン派において聖化された疑似宗教体験としての「感動」をもたらす。かくして身体の衰えた愛好家相手の感動ビジネスとして、レコード産業が生まれてくる……。

 「能動的に意味を求めることをせず、うつらうつらしながら受け身でサウンドに身を任せる。…身体の衰えた愛好家相手の感動ビジネス」というとき、岡田は「意味などから解放されて、もっと自由にサウンドの世界に身を任せる」サウンド型聴取を真っ向から否定しているように聞こえる。レコードやラジオで音楽を聴く者は、「身体の衰えた愛好家」だとは、侮蔑の言葉のように聞こえる。…いかなる「意味」を「能動的に求めよ」というのだろうか。王侯貴族の生活(意識)を反映した「意味」を求めよ、とでも言うのだろうか。

「聖化された疑似宗教体験」とて、一概に否定すべきものとは思われない(それは「宗教」ではなく、「生命と音」のつながりの意味においてであるが)。(チェリビダッケにとって重要なのは、今ここに響いている音だけだ 参照)

もちろんどういう音楽の聴き方をするかは自由だ。しかしあえて言わせてもらうなら、サウンド型聴取がはらんでいるある種の危うさに、私はどうにも強い危惧を覚えずにはおれない。それは「音楽を聴く」という、人が己のすべてを賭けて行うに値する行為を、単純なパブロフ的「刺激と反応」に還元してしまうような気がしてならないのである。私にとって音楽とは、人が人に向けて発する何かである。それは他者、つまり私以外の誰かがこの世に存在している(いた)、つまり私は一人ではないということの証ではないか。対するに目を閉じてサウンドに聴き入る時、外界は姿を消して何やらさまざまな音刺激で満たされた脳感覚だけが世界のすべてになってゆく――このことがどうにも私を不安にするのである。

岡田が、「己のすべてを賭けて」音楽を聴くというなら、それはそれでいいだろう。私はそれを否定しようとは思わないし、そこに危惧を覚えることもない。しかし、「サウンド型聴取」を、「パブロフ的刺激と反応」というのは、あまりにも偏狭な見方であるように思う。「目を閉じてサウンドに聴き入る時、外界は姿を消して何やらさまざまな音刺激で満たされた脳感覚だけが世界のすべてになってゆく」ことが、岡田を不安にするなら聴かなければよいだろう。牛乳アレルギーのある人には、(治療をすすめることはあっても)牛乳を無理に飲ませることはしない。…岡田の言い方を聞いていると、サウンドは何か「麻薬」のようなものであるようだ。…私がここでサウンドというとき、どのようなものをイメージしているかというと、「残したい日本の音風景」のようなものである。(ジョン・ケージとサウンドスケープ(音風景)参照)

 

今日の有線放送のはしりに、いわゆるミューザック*3がある。1940年代にこの会社は、世界で初めてBGMの販売を開始し、莫大な利益をあげた。ジャック・アタリによれば、その責任者の一人は、次のように言ったという。「[レストランでは]朝食用番組として、金管楽器の少ない新曲を、そして昼食用には、弦楽器の演奏のついた歌を主とした番組を組む」。「[工場や事務所では]仕事の疲労具合に合わせて曲の雰囲気を変えていかなければならない。社員が着く朝には、普通爽快な気分に合わせて、音楽も静かなものが選ばれる。10時半頃には、ちょっと疲れが出始めるので、刺激となるような音楽を流す。午後の半ばごろには、再び疲れを感じ始めるだろうから、リズムがあり、午前中の曲より速いテンポの曲で眼を醒まさせる」。

近年いわゆるヒーリング・ミュージックが大流行だ。CDショップなどに行くと、クラシックのコーナーにさえ、「元気を出したいときはコレ」、「静かな気持ちになりたいときはコレ」などという説明つきで、「ヒーリング向きの」CDが並べられていたりする。こうした音楽のサプリメント化の遠いルーツが、このミューザックである。しかしアタリがいみじくも言っているように、決して「こうした音楽は無罪ではない」。それは「人間の全体的沈黙の告知」であり、「自立し得る音楽作品の終焉の告知」かもしれないのである。

ジャック・アタリがどういう人物か知らないが、ミューザック/BGM/環境音楽が、「人間の全体的沈黙の告知」であり、「自立し得る音楽作品の終焉の告知」などとは到底思えない。例えば、次のような曲を聴いてもこんなことを言えるだろうか。

www.youtube.com

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https://www.youtube.com/watch?v=Oh3BKFNUB1Y

 

安原伸一朗によるとナチス・ドイツもまた、アウシュビッツにおける囚人支配に際して、音楽が有効であることをよく知っていた。例えば彼らは、収容所外で囚人が労働をするため出入りをするとき、看守が人数を数えやすいようにと、行進曲を演奏したりしたという。安原が言うように、これは「人々を交流させるどころか、人々を断絶させ、人々から思想や感情といった内面を奪うための、道具としての音楽」である。「動きに画一性が与えられ、彼らからは意識や思考が奪い去られ、身体が無意識的に動かされる」音楽。にもかかわらず、アウシュビッツという極限状態の中での音楽が、支配者側の目論見から外れて、胸を衝く「意味」をほとばしらせる逆説を考察した安原の論考は極めて示唆に富んだものなのだが、残念ながらここではそれに立ち入る余裕はない。ひとまず確認しておかねばならないことは、それがミューザックであれ、アウシュビッツのBGMであれ、サプリ化されたヒーリング・ミュージックであれ、19世紀に民主化の夢と共に生まれた「考えないでいい音楽」が孕んでいた逆説がいよいよ白日の下に明らかになったのが、20世紀だということである。

ミューザック/BGM/環境音楽が、ナチス・ドイツのアウシュビッツにおける囚人支配の音楽と同等であるかの如く、またそれが「考えないでいい音楽」であり、民主主義の思想とともに生まれたかのような書きっぷりである。万一、「危険性」を孕むものだとしても、もっと突っ込んだ説明がないと説得力がない。…カフェやレストランや空港やホテルやデパートなどに流れるBGMによって、「思想や感情といった内面」が奪われているのだろうか。

 

時として私は奇怪な夢想をすることがある。そのうち脳波と情感の生理的メカニズムについての研究が進んで、どんな「感動」も思うままに電気刺激で再生が可能になる悪夢である。いろいろなソフトが開発され、例えば私が「30年前のあのスカラ座公演の感動をもう一度」などとリクエストすると、何やら頭にヘッドギアのようなものを取りつけられ、そこから微弱な電流を流される。すると脳内に「あの」感覚がまざまざと再びこみあげてくる。音楽なしでどんな感動も自由に再体験できるようになるのだ。しかし私は被験者になりたくはない。パブロフの犬になるのは嫌だ! こう叫んで目が覚める。人が空想したことことがすべて物質化され、現実となる世界を描いたタルコフスキーのSF映画『惑星ソラリス』の音楽版のような夢……。

これは岡田の夢想でしかない。

右に述べたヒーリング・ミュージックの流行などに、どうにも危なっかしいものを感じてしまうのは、こうしたことと無関係ではない。少なくとも私にとって「音楽を聴く」とは、意味を探すこと、つまり他者を探すことなのだ。第5章でも述べるが、サウンドがきれいだとか、快適な気分になるとか、そういったことは、私にはあまり重要ではない。…「意味がある」とは「言葉である」ということだろう。それは他者とのコミュニケーションの存在を前提にしている。他者がいなければ意味はない/他者がいるからこそ意味は生まれる。また音楽が言葉であるからこそ、それについて言葉で語り合う場も生まれよう。音楽を分かり合う/分かち合うということができるのである。そして「分かる」からこそ、「分け合おうと思う」からこそ、身体が動く。スイングが、人と人との共振が生まれるのである。思うに言語性こそはヒューマンなコミュニケーションとしての音楽の生命線である。

これは岡田の当初からの主張であるが、私は「そういう考えもあるね」といった程度に受けとめている。岡田の説明で分からないのは、「意味」や「言葉」で何をイメージしているのかということである。具体例(この曲にはこういう意味がある)を挙げてくれると分かりやすいのだが…(具体例があったかな?)。

 

余談だが、恩田陸『蜜蜂と遠雷』(第156回直木賞)は、(読んでないのだが)恐らく、「音楽を語っている」のだろう。恩田は「音」を、例えば次のように表現しているという。

突然、ふうっと気温が下がった。それまで客席を照らし出していた茜色の光は消え、肌寒いフランスへと運ばれたのである。空は俄に暗くなり、湿った風が吹き始めたと思ったら、ポツポツと雨が降り始めた。(中略) 子供たちは雨を避けて走り出す。犬も一緒だ。ああ、雨が降っている。[ドビュッシー「版画-第3曲 雨の庭」の表現](ひだまりさん、(http://katharin.blog.fc2.com/blog-entry-306.html より)

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 また、架空の委嘱作品(菱沼忠明「春と修羅」)もあるという。春と修羅とは、

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*1:連弾…一台のピアノを複数人(大抵は二人)で弾く演奏法。

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*2:リート…ハイドンモーツァルトなど古典派以降の音楽家によって作曲された歌曲。

*3:ミューザックの歴史は1930年代から始まりました。無音状態よりもBGMを流した方が作業効率が高まる、という科学的根拠を基にアメリカのmuzak社が開発した音楽がそもそもの起源です。工場での作業や、デパートにおける客の購買意識、さらにはレストランでメニューを選ぶ客の心理状態に悪い影響を与えず、行動の邪魔をしない音楽の総称です。(http://vocalinfo.net/?p=19827