浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

アローの不可能性定理 多数決 民主主義

加藤尚武『現代倫理学入門』(22)

前回の「囚人のジレンマ」に続き、「アローの不可能性定理」が取り上げられているので、これを理解しようと思ったのだが、なかなか難しい。今後ゆっくりと勉強することにして、思いついたことをメモしておこう。

 

アローの不可能性定理とは何か。(以下の引用で、(w)は、wikipediaである)

社会選択理論において、アローの不可能性定理とは、投票ルールをはじめとする集合的意思決定ルールの設計の困難さに関する定理である。(w、アローの不可能性定理)

私たちの社会で、「民主的に」物事を決めるにはどうした良いか。独裁者が一方的にルール(法)を決め、それを押しつけられてはかなわない。家族でレストランに行くことになったが、私はフランス料理が食べたいが、父は焼き肉が良いというし、母は中華が良いという。どういうふうに決めたらよいのだろうか。…これは「集合的意思決定ルール」をどうしたらよいのだろうかという話である。

自分の希望を頑として主張し、聞く耳を持たなければ、話はまとまらない。そこで各自、「優先順位」をつけることにした。

  • 私…①フランス料理、②焼肉料理、③中華料理
  • 父…①焼肉料理、②中華料理、③フランス料理
  • 母…①中華料理、②フランス料理、③焼肉料理

フランス料理のほうが焼肉料理よりも良いという人が2人、焼肉料理のほうが中華料理よりも良いという人が2人、中華料理のほうがフランス料理よりも良いという人が2人である。決まらない! これを「コンドルセパラドックス」(投票のパラドックス)と呼ぶ。このパラドックスは、各個人の選択から、社会的な意思決定を導き出すことが困難なことを示すのに 用いられる。(児玉、https://plaza.umin.ac.jp/kodama/ethics/wordbook/voting.html

この例では、現実的な解として、今回は母の希望をきく、次回は私の希望…というのもある。アローが不可能だと言っても、現実にはうまくいく。

 

社会的な意思決定を論ずる「社会選択理論」とは、

社会選択理論は、個人の持つ多様な選好を基に、個人の集合体としての社会の選好の集計方法、社会による選択ルールの決め方、そして社会が望ましい決定を行なうようなメカニズムの設計方法のあり方を解明する理論体系である。経済学者と政治学者の両方により研究され、資源配分ルールや投票ルールの評価や設計は一貫して主要な課題となっている。(w、社会選択理論)

社会が望ましい決定を行なうようなメカニズム」がどのようなものであるべきか(お互いに納得できるようにレストランを選ぶにはどうしたらよいか)が問題なのである。これを忘れてはならない。

 

こうした集合的決定の研究、とりわけコンドルセパラドックスの発見を受け継いで確立されたのがケネス・アローの一般可能性定理である。一般可能性定理は多数決投票に限らずあらゆる決定の方法が、決定が受け入れられるのに必要と考えられる最小限の条件すら満たし得ないことを示した。この集合的決定の困難を証明したアローの定理は様々な方面に衝撃を与え、一連の重要な理論的研究を生み出した。これにより社会選択理論が一つの新しい学問分野として確立されたわけである。(w、社会選択理論)

別項目では、以下の説明がある。

アローの定理とは、3つ以上の選択肢があるとき、上述した社会選好に関する2つの公理[完備性、推移性]と民主制のための4つの条件[定義域の非限定性、全会一致性、無関係な選択対象からの独立性、非独裁性]をすべて満たす社会厚生関数は存在しないことをしめした定理である。…この否定的結論は「社会的決定の合理性と民主制の両立は困難である」とか「民主主義は不可能である」といった主張に単純化されて理解されることもあった。 定理の内容が正しく理解されたにせよそうでなかったにせよ、 この定理が「一般意思」「社会的善」「公共善」「人民の意思」といった主張に疑いを投げかけたことはまちがいない。(w、アローの不可能性定理)

「社会選好に関する2公理と民主制のための4条件をすべて満たす社会厚生関数は存在しない」というアローの定理の証明を理解することは、難しい。専門家はこれをきちんと理解して議論しているのだろうが、こういうところに私のような素人との大きな落差を感じる。

それで、どうなの? …「証明は信用するから、前提と結論を教えてくれ」、「あなたは、社会が望ましい決定を行なうようなメカニズムはどのようなものと考えているのですか」、「あなたの考える望ましい決定とは何ですか」、「現在の法制度とその運用に、その望ましさとの乖離があるならば、それは何故ですか。どうすればいいと考えますか」……。

 

新古典派経済学は、基本的に方法論的個人主義[社会構造やその変化を、個人の意思決定の集積として説明し理解する考え方]に立っている。ミクロ経済学の典型であるArrow-Debreuの理論では、個人は自己の効用関数をもち、予算制約下に自己の効用を最大化すると仮定されている。経済学のこの立場は、分析方法としては合理的選択理論とも呼ばれている。この方法は、近年(1950年代以降)、政治学の方法としても取り入れられている。(w、方法論的個人主義

政治現象を自己の利益・効用を最大化しようと行動するアクターの相互作用の総体として捉えるのが、政治学における合理的選択論である。1950年代より経済学的アプローチを政治現象の分析に取り入れる形でスタートした。政治学における合理的選択理論とは統一された一つの理論を指すわけではなく、方法論的個人主義個人の合理性を仮定するかなり幅広いアプローチを総称した用語である。従っていくつかの分野が合理的選択理論に分類される。その代表的なものは公共選択論実証政治理論である。(w、合理的選択理論)

 経済学では「厚生経済学」、政治学では「公共選択論や実証政治理論」、これらの専門的内容に立ち入ることなく、「社会人の教養」程度には知っておきたいと思っているのだが、なかなか……。

 

合理的選択理論に対しては、

  1. 個人の効用関数は、社会(周囲の人たち)による影響と形成を受けている(方法論的全体主義
  2. 人間の選好や効用は不合理なものである
  3. 最適化しようとしているが、合理性の限界に阻まれている

という3種類の批判がある。(w、方法論的個人主義

 これは至極まっとうな批判のように思える。「公共選択論」や「実証政治理論」が、これらにどう応答しているのかは興味のあるところである。

 

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加藤は、次のように述べている。

囚人のジレンマもアローの不可能性定理も、民主主義は最善の制度だと信じ込んでいる人には、水をかける効果がある。当事者の判断が当事者の最大利益に一致することは少ない。第三者の判断が介入した方が良い。民主的決定が道徳的である保証はない。道徳的決定が民主主義的に支持される可能性は存在する。当事者のエゴイズムに判断を任せると、当事者が最悪の結論を出す危険がある時には、第三者に判断を任せてしまった方が良い。

「民主主義」をどう理解しているかにもよるが、「民主主義を最善の制度だと信じ込んでいる人」などいるのだろうか。「民主主義がどういうものかよく分からないが、独裁者に支配されるのはイヤだ。」といった程度の理解が大部分ではなかろうか。

加藤は、何をもって「当事者の判断が当事者の最大利益に一致することは少ない」と言っているのか分からない。「当事者の最大利益」が何を意味しているのか分からないし、「少ない」というのは、過度の(根拠なき)一般化ではなかろうか。

「当事者のエゴイズムに判断を任せると、当事者が最悪の結論を出す危険がある時には、第三者に判断を任せてしまった方が良い」と言うが、誰が「最悪の結論」だと判断するのか、第三者とは誰のことか。こんな曖昧なことを言っていてはルールは作れない。また、現実の社会生活のほとんどすべては、法(ルール)の支配下にある。その既存の法(ルール)のどこが何故問題なのかを言わないことには、状況は良くならないだろう。

加藤は、こんなことも言っている。

二つの小さな国が争っている時、公平な判断力を持つ大きな国が仲介役を買って出て、お互いの最大利益に到達するように干渉した方がいい。問題は、地球全体を巻き込むような紛争が起こったときに、仲裁役がどこにもいなくなるということである。一般的に言うと、当事者の外部が存在しないときに、必然的に当事者同士の決定で最善の結果を追求しなくてはならなくなる。地球全体を巻き込む問題には環境問題がある。人類規模の問題は、人類の当事者主義でなければ決定できない。

「公平な判断力」とは何か。「大きな国」とはどんな国か(アメリカ?、ロシア?、中国?、日本?)。「お互いの最大利益」とは何か。「干渉した方がいい」と言うが、「内政不干渉の原則」をどう考えるのか。「地球全体を巻き込むような紛争が起こったときに、仲裁役がどこにもいなくなる。当事者の外部が存在しないとき…」と言うが、国連安保理国際法などをどう考えているのか。「当事者の外部が存在しないときに、必然的に当事者同士の決定で最善の結果を追求しなくてはならなくなる」と言うが、「当事者同士の決定(交渉?)で最善の結果」が出るとでも考えているのだろうか。

当事者の外部が存在しないというなら、外部を作り出すことが必要だろう。外部とは、超国家機関、国際法であるが、現実には「国連」が存在するのであるから、その機能を果たすようにすることが大切だろうし、当該問題に係る「国際法」が存在しないというなら作ればよいのである。既存の国家の枠組みでだけ考えていては前に進めない。

 

実際問題として、どのような条件が満たされれば、社会的な意思決定が可能になるのか。例えば会社で社員旅行をするときに行き先を投票で決めるとする。投票と言う意思決定システムが有効に働く条件は、こうである。

  1. (決定方式に対する全員一致の支持)すべての社員が旅行の行き先は多数決制の投票で決定するということに同意している。
  2. (勝利への合理的な見通し)誰もが自分が多数派になって期待通りの結果になる可能性があると信じている。
  3. (敗北しても決定に従う)敗北した場合にも旅行に参加する。

実際に行われる多数の人々の選好の集約は不完全なものでしかないのだが、右のような条件が成り立つ場合には、実際に社会的な意思決定が可能になる。

 よく分からないところである(いまどき、社員旅行をする優雅な会社はないだろうが、そこは問題ではない。新年会や忘年会を考えれば良い)。先ほどのwikipediaの説明では、「一般可能性定理は、多数決投票に限らず、あらゆる決定の方法が、決定が受け入れられるのに必要と考えられる最小限の条件すら満たし得ないことを示した」とあった。この説明と、加藤のこの「…実際に社会的な意思決定が可能になる」という説明に齟齬はないのだろうか。

「社会的な望ましさ」とか「民主制」とかに拘泥しなければ、加藤の言うように「社会的な意思決定」は可能になるように思われる。そして現実には、そんなことを深く考えもせず、「多数決」あるいは「上司の好み」で決められるのだろう。それで大きな問題を生じることはないが、シリアスな問題になればそういうわけにはいかない。

 

アローの不可能性定理が発見されて以後、政治・経済・倫理の研究者たちは、数学的に見て完全な集計方法が存在しないので、現実の社会的な決定がなるべく理論的にみて不合理でない近似となるにはどうしたらいいかという問題を追究してきた。例えば、候補者(選択肢)が3つ以上になると理論的なトラブルが発生するから、社会的な決定の際には、選択肢を2つに絞ったほうが安全なのである。…二大政党の対立という形で、社会的な決定の選択肢が自然に2つになることは歓迎すべきことと言えるだろう。単純投票で決定するのは、なるべく選択肢が2つの場合がよい。

アローの不可能性定理から、選択肢を2つに絞ることに話をもっていき、二大政党が望ましいとは、いかにも短絡的な発想に思われる。最初に書いたように、「社会が望ましい決定を行なうようなメカニズム」がどうあるべきかが問題なのである。検討事項は無数にあるだろう。

 

民主主義社会とは、民主主義が最善であるという神話が支配する社会である。ところが、単純多数決が最善の決定方法であると言える場合は、とても少ない。民主主義は、本当に選択問題が混乱したときに、事態を平和的に収拾するための決め手を持たない。また、多数決による民主的な決定が、選挙民の最大の利益を反映しているという理論的な保証がない。その理由の一つは、投票の場合に選好の強さの違いを認めていないからである。

「民主主義が最善であるという神話」という言い方には、(実際にはそう思っていないにせよ)民主主義に対する否定的態度が感じられる。また多数決が民主主義と同義であるかの如き言い回しである。選択問題が混乱するとはどういう意味か。選挙民の最大の利益とは何か。…「多数決」が問題含みだということが分っているのだったら、「どうしたら良いのか」を考えるべきであって、「民主主義」を意味不明に定義して非難してもはじまらないだろう。

 

民主主義は、歴史的にふりかえって見れば、少数者(国王)が多数者(市民)の利益を侵害する可能性のある状況では、その侵害を防ぐのに有効な方法だった。しかし、地域紛争のように多数者が少数者の利益を侵害する可能性、資源枯渇、環境汚染のように現在の世代が未来の世代の利益を侵害する可能性に対しては、有効な方法とは言えない。

「民主主義」については、次の説明が一般的な理解であろう。

人民が権力を所有し行使する政治形態。古代ギリシャに始まり、17、18世紀の市民革命を経て成立した近代国家の主要な政治原理および政治形態となった。近代民主主義においては、国民主権基本的人権・法の支配・権力の分立などが重要とされる。現代では政治形態だけでなく、広く一般に、人間の自由と平等を尊重する立場をいう。(デジタル大辞泉

見てきたように、加藤の説明とは随分ギャップがあるように感じられる。

アローの不可能性定理 → 多数決はダメ → 多数決=民主主義 → 民主主義は神話だ。

これが、加藤の論旨であるように私は受け止めた。

 

私は、アローの不可能性定理を取り上げるのなら、「方法論的個人主義」への言及がなければならないと思う。個人の選択(効用)を集計して、社会の選択(効用)を導くという、(単純で、粗雑な?)手続きに疑念を抱かないのであろうか。

 

本記事の真ん中あたりに紹介した「合理的選択理論」に対する批判を再掲しよう。

合理的選択理論に対しては、

  1. 個人の効用関数は、社会(周囲の人たち)による影響と形成を受けている(方法論的全体主義
  2. 人間の選好や効用は不合理なものである
  3. 最適化しようとしているが、合理性の限界に阻まれている

という3種類の批判がある。(w、方法論的個人主義

 これらの批判に対する説得力ある議論がなされない、そして「望ましい社会」の理念とそこに至る方法が語られない議論というものには、魅力を感じられない。