浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

退廃芸術 内なるファシズム

末永照和(監修)『20世紀の美術』(7)

前回、バウハウス(国立の美術工芸学校)をとりあげたが、その最後に「1933年、バウハウスナチス政権によって弾圧を受け、解散させられた」という記述があった。

ナチス=悪」との先入観を捨てて考えてみよう。いったん「ナチス=悪」としてしまえば、ナチスの言動はすべて悪となり、ナチスを支持する者との対話が成り立たなくなる。こういう例は数多い。また先入観を捨てれば、見えないものも見えてくる可能性がある。

 

ナチスと芸術とのかかわりについて、栗栖は次のように書いている。

1930年代にヨーロッパで隆盛していた抽象美術や表現主義バウハウスなどを「退廃芸術」と称し弾圧したナチス・ドイツは、新しいドイツを実現するために「血と土」「アーリア人第一主義」「反ユダヤ主義」のイデオロギーを体現する純正ドイツ芸術を民衆に推奨した。「退廃芸術」を国民に知らしめる展覧会を各地で開催すると同時に、これらナチス芸術の展覧会も巡回し、37年にミュンヘン古代ギリシャ風建築である「ドイツ芸術の家(ハウス・デア・ドイチェン・クンスト)」が完成すると、44年まで毎年「大ドイツ芸術」展を開催することになる。展示作品は牧歌的な風景画、大家族や農村の労働を描いた風俗画、優美で健康的な裸体画、記念碑的な巨大彫刻などで、前時代的な古典主義的写実ばかりであった。(栗栖智美、http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E8%8A%B8%E8%A1%93

ナチス国家社会主義ドイツ労働者党)は、なぜ抽象美術や表現主義バウハウスなどを「退廃芸術」と称し弾圧したのか。「ナチス=悪」との先入観の下では、ナチスが否定したものは肯定され、抽象美術や表現主義バウハウスは素晴らしい近代芸術だとされてしまう。芸術的価値については政治判断ではなく、評価の基準を明確にして、評価すべきだろう。恐らくナチスもそれなりの評価基準を持っていたわけで、それを考えてみよう。

ここで、表現主義の2作品と新即物主義の1作品を見てみよう。

 

キルヒナー(Ernst Ludwig Kirchner、1880-1938)のBerlin Street Scene (1913)

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https://artinvestment.ru/content/download/articles/20081016_ernst_ludwig_kirchner_berlin_street_scene.jpg

 

ノルデ(Emil Nolde、1867-1956)のDance around the Golden Calf (1910)

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http://www.centroarte.com/images/nolde/nolde50.jpg

 

ディックス(Otto Dix1891-1969)のGross Stadt (Metropolis), 1928

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https://www.facinghistory.org/sites/default/files/Ch04_Image05_large.jpg

 

キルヒナーについては、本書で次のような解説がある。

キルヒナーは街頭にあらわれる流行モードの娼婦たちの光景を好んで描いた。「ベルリンの街頭風景」は、大戦前夜のベルリンの盛り場をあてもなく散策する虚飾の人間たちの光景である。派手な飾り物の帽子とコートに身を包む女たちと正装した男たちの群れ、風刺性も込めた人物たちの垂直性や色彩の対比の鮮烈さには、彼の造形的な神経が確かめられる。

ノルデやディックスの作品も「虚飾の人間たちの光景」と言えるだろう。

 

どうだろうか。これらが素晴らしい絵画だと思えるだろうか。技術的にも、コンテンツにおいても「退廃芸術」と言われても不思議はないのではないか。確かに「虚飾の人間たちの光景」と言えるかもしれないが、それは「芸術」とは関係ない風刺画(政治的主張)なのではないか。かく言うときの評価基準は何か。

当時のドイツにおいては、かかる絵画に対して、肯定的評価を下す人たちは、少なかったのではないかと想像する。ふだん絵画に接することのない人たちや、「具体的で・わかりやすい絵画」を見てきた人たちは、このような「異質な・心地よくない絵画」に高い評価を与えるとは思えないのだがどうだろうか。

現代の私たちの目からみれば、上掲の絵はとりたてて「退廃」と言うほどのものではないと思われるが、例えば次のような絵はどうだろう。

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http://www.cinra.net/uploads/img/news/2016/20161122-inoueyosuke.jpg

 

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http://40.media.tumblr.com/a52241d57c2f33680ac280bdbde0297a/tumblr_n5cex6bqvr1sc0skko1_500.jpg

 

退廃」とは何か。

「退廃」という概念は、道徳的に堕落していることを指すもので、古くは18世紀より規範に外れた詩や絵画などを批判するために使われていた用語であった。この概念を近代社会や近代芸術全般を批判するために大々的に提起し有名にしたのは、ブダペスト出身の内科医で作家、評論家、シオニスト[ユダヤ民族主義者]でもあったマックス・ノルダウの1892年の著書『退廃』であった。ノルダウによれば、芸術家は過密する都市や工業化など近代生活による犠牲者であり、こうした生活によって脳の中枢が冒された病人とされた。…ノルダウは「世紀末芸術」や「世紀末」的文化状況の「倫理的堕落」に対して幾分俗物的な立場からの批判を行った。彼にすれば、音楽、詩、文学、視覚芸術などあらゆる形式の近代芸術には、精神的不調と堕落の症状が現れていると見えた。近代芸術家たちは身体の疲労と神経の興奮の両方に苦しめられているため、すべての近代芸術は規律や風紀を欠き、首尾一貫した内容がなくなっているとした。ノルダウは特に印象派絵画、フランス文学象徴主義、イギリス文学の唯美主義に攻撃を集中した象徴主義の中の神秘主義思想は精神病理学的な産物であり、印象派画家のペインタリネス(絵画表面のありよう)は視覚皮質の病気の兆候とされた。…この理論は、ヴァイマル共和政の時代になって民族主義的美術家たちや右翼、そして国家社会主義者(ナチス)らによって大きく取り上げられ、ドイツ芸術における人種的純粋さを取り戻すための議論の基礎、近代化や敗戦後のデカダンスの影響で文化も堕落したという主張の基礎となった。(Wikipedia)

ノルダウは、全くナンセンスな主張をしているのだろうか。このような絵を描く人間は「脳の中枢が冒された病人」であって、「精神的不調と堕落の症状が現れている」と思う人も少なくないのではないか。

 

ではナチスは、退廃芸術に対するに、いかなる芸術を称揚したのか。

退廃芸術とは、ナチスが近代美術を、道徳的・人種的に堕落したもので、ドイツの社会や民族感情を害するものであるとして禁止するために打ち出した芸術観である。ナチスは「退廃した」近代美術に代わり、ロマン主義写実主義に即した英雄的で健康的な芸術、より分かりやすく因習的なスタイルの芸術を「大ドイツ芸術展」などを通じて公認芸術として賞賛した。これらの公認芸術を通してドイツ民族を賛美し、危機にある民族のモラルを国民に改めて示そうとした。一方近代美術は、ユダヤ人やスラブ人など「東方の人種的に劣った血統」の芸術家たちが、都市生活の悪影響による病気のため古典的な美の規範から逸脱し、ありのままの自然や事実をゆがめて作った有害ながらくたと非難された。近代芸術家らは芸術院や教職など公式な立場から追放された上に制作活動を禁じられ、ドイツ全国の美術館から作品が押収されて「退廃芸術展」など全国の展覧会で晒し者にされ、多くの芸術家がドイツ国外に逃れた。一方公認芸術は、「人種的に純粋な」芸術家たちが作る、人種的に純粋な「北方人種」的な芸術であり、人間観や社会観や描写のスタイルに歪曲や腐敗のない健康な芸術とされたが、その実態は農村の大家族や生活風景、北方人種的な裸体像が主流の、19世紀の因習的な絵画・彫刻の焼き直しにすぎなかった。皮肉なことに、近代芸術を身体的・精神的な病気の表れである「退廃」だと論じる理論を構築した人物は、マックス・ノルダウというユダヤ人知識人であった。この理論はノルダウ以降も右翼や一部美術家を中心に盛んに取り上げられ、後にナチスも、第一次世界大戦後の文化の堕落を論じたり、人種主義的な主張を補強するために使用している。(Wikipedia)

ナチスは、病める芸術に対し、健康的な芸術を、そして自然や事実を歪めた抽象的な芸術に対し、ありのままの自然や事実を描いたわかりやすい芸術を、公認芸術としたのであった。近代絵画を「快く」思えない多くの人にとって、ナチスの主張は受け入れられやすかったのではなかろうか。

ナチスが「腐敗のない健康な芸術」としたのは、確かに「その実態は農村の大家族や生活風景、北方人種的な裸体像が主流の、19世紀の因習的な絵画・彫刻の焼き直しにすぎなかった」のかもしれない(大ドイツ芸術展に出品された作品を見ても、魅力的なものはない)が、いまはそのことを問わないことにしよう。

 

私がいまここに問題にしているのは、「退廃芸術」である。誰が、何をもって「退廃」と判断するのか。

下から2番目の絵は、井上洋介のものである。井上洋介(1931-2016)とは、絵本作家、イラストレーター。武蔵野美術学校(現武蔵野美大)西洋画科卒。

井上洋介さんというと、「絵本作家」と考える人が少なくない。人気絵本シリーズ『くまの子ウーフ』の挿絵が広く知られているためだ。けれど、今年初め、愛知県の刈谷市美術館で開催された展覧会「井上洋介図鑑展」は、その認識を根本から覆した。絵本の原画、漫画、油彩、版画、鉛筆画、舞台美術と、幅広い画業を裏付ける展示が、来場者を驚かせたのだ。…東京都出身。「毎日が空襲で、どんどん人が死んでいく」戦争のさなかに少年時代を送った。楽しみだったのは、家にある美術雑誌をめくる時間だ。「戦前に発行されたものには、静物や婦人像、何の変哲もない風景を描いた絵が載っていた。人々がこんなに楽しく生きていた時代が日本にもあったのか、とほっとした」…「古くさい絵なんか描くもんかと。俺は『前衛』だと強い意識を持っていた」と振り返る。常に心にあったのは「自分の絵」を描くという確固たる意志。戦後、抽象絵画ポップアートなど多彩な表現が流れ込んできたが「流行に合わせて変わるのは絵描きじゃない」と興味は引かれなかった。ジャンルは横断しても、テーマは一貫している。それは、戦争の悲惨な記憶、そして不条理にさらされる人間の姿。1945年3月10日の東京大空襲の日、焼け出され、行く当てもなく行列をつくって歩く人たちを見た。「爆弾って落ちるとき、いやーな音を立てるんだ。落ちた後は、でっかい穴が空いてね」…エロ、グロ、ナンセンスと評される独自の世界。笑わせた後に考えさせるのが井上流だ。「ナンセンスって、笑いでもあるし、風刺でもある。笑いがないと人間の呼吸が伝わらない」。1995年、「从(ひとひと)展」に出品した油彩「室内図」の画面中央には巨大な穴があいている。(2014/4/19 東京新聞 宮川まどか)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/doyou/CK2014041902000222.html

室内図

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http://livedoor.blogimg.jp/tokinowasuremono/imgs/d/6/d6b18e18.jpg

 

最初のグロテスクな絵を見て、顔をしかめた者も、この記事を読んで、井上洋介の絵は「芸術だ」となるのではなかろうか。それは、抽象美術や表現主義などを見て、顔をしかめた者が、後世の(権威者の)評価により「芸術だ」と言うのと同じである。

 

もし、国公立の学校に、エロ・グロ・ナンセンスの絵を描き続ける教師がいたら、許容できるか。退廃芸術家として排除するか。この問いは、「絵画」に限定されない。ただちに「思想」に拡大しうる。「似非科学者」や「御用学者」にも拡大しうる。

 

私はエロ・グロ・ナンセンスを見たくないのだが、さて、絵画は、何を描くものなのか?