気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

毛な疑い? 関連する対抗仮説型の文脈主義とは

伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(9)

伊勢田は、本書の「序」で、次のように述べていた。

懐疑主義という言葉はいろいろな文脈で使われる。懐疑と言えばもちろん「疑う」ことだから、懐疑主義というのは平たく言えば「疑うという立場」である。昨今の風潮に目を向けると、一方ではCT(クリティカルシンキング)の本が(本書も含めて)わらわらと出版されて、「疑う」ことの重要性が強調されている。しかし他方、哲学者が伝統的に扱ってきたような疑い、例えば「世界は本当に存在するのだろうか」とか「善や悪は本当に存在するのだろうか」といった疑いに対しては、「哲学者って変な人たちですね」とか「そんな不毛な問題について考えるのは時間の無駄だ」とかいった冷たい反応が返ってくる。最近では哲学者の間でも懐疑主義を哲学の中心的課題として考えることに対する異論が出てきている。同じ「疑う」という営みなのにこの扱いの差は何なのだろうか、という気もするが、そうした差別扱いにも根拠はあると思う。

「わらわらと」というのはあまり聞いたことの無い言葉だが、次のような意味らしい。

見ることはあるけれど、自分では使ったことがないことばだ。『日本国語大辞典(第二版)』(小学館)を調べてみると、13世紀後半の用例が示してあり、「乱れたさま、破れ乱れたさまを表わす語」と説明されている。現代語の例として、「わらわらと集まって来て」(石川淳『焼跡のイエス』)、「わらわらと走りだした」(幸田文『父─その死』)を挙げて「急いで行動するさま、統制がとれていないさまを表わす語」と説明している。これまでに見た例から、たくさんといった意味は理解したが、乱れている、統制がとれていないという意味は汲み取っていなかった。最近読んだ村山由佳著『青のフェルマータ』に、「白くて小さい軍隊ガニの大群がわらわらと散って逃げる」という例があった。「たくさん」の意味は「大群」がカバーしているので、「わらわらと」は乱れているさま、統制がとれていないさまを表すと理解できる。自分では使わない語の意味を説明するのは難しい。(小矢野哲夫、新・ことばの路地裏)

http://www001.upp.so-net.ne.jp/ketoba/shin-kotobanorojiura1.htm

 

マスコミの言うことを鵜呑みにしない、「偉い人」の言うことを鵜呑みにしない、これは言い換えれば、本当か?と疑うことである。それはよい。でも、どこまで疑えばよいのか。疑いだせばきりがない。「不毛な」疑いになるのではないか。

では、不毛でない疑い(「不毛」の反対だから「毛な疑い」?)というのはどういう疑いなのだろうか。多くの人はこの区別を勘でやっていると思われるが、本書ではこの問題について哲学の観点から解答を探す。言い換えると、本書は、様々な文脈で出てくる懐疑主義というものに対して、どういう条件のときには懐疑主義が適切で、どういうときには不適切か、ということについての哲学的・統一的な説明を与えることを目論む。「ほどよい懐疑主義」は、この問題に対する私なりの答えである。

 

私たちは、不確かなもの(疑いのあるもの)については判断を保留するのだが、この態度を徹底すると、「疑いの泥沼」にはまる。この世のすべては、デーモンが私たちをたぶらかしているのかもしれない、というわけである。(懐疑主義 デーモン仮説 水槽脳仮説 猿の尻笑い 参照)

デーモン仮説…我々の目に見えるもの、我々が考えることも、すべて神のような強力な力を持つ悪魔(デーモン)が我々をたぶらかしているだけなのかもしれない。目の前にリンゴがあるという視覚的な体験も、そのリンゴに触るという触覚的な体験も、そのリンゴをかじるとリンゴの歯ごたえがあり、リンゴの味がするという体験も、リンゴを食べるために手を動かしているという感覚も、すべてデーモンが巧妙に仕組んだ幻覚*1かもしれない。…こう考えると、絶対確実に真だといえるものなど、この世には存在しないように思えてくる。これがデーモン仮説である。

 この「疑いの泥沼」を抜け出す/落ち込まないようにするにはどうすれば良いか。伊勢田が示すのは「文脈主義」の考え方 である。

科学的事実をはじめ、議論の前提として挙げられる「証拠」の大半は、感覚を通して得られる。科学の証拠も突き詰めれば実験や観察の結果を見たり聞いたりして得られる。…哲学では「感覚を通して得られる」と言う意味で「経験的」と言う言葉を使うので、いま述べたことは、「議論の前提の大半は経験的である」と言い換えても良い。これに当てはまらないのは、既に取り上げた論理についての知識や、第4章で取り上げる価値についての判断くらいなものである。

デーモン仮説はすべての感覚にあてはめることができるので、経験的な証拠(つまりはほとんどあらゆる前提)は、方法的懐疑に従う限りすべてお払い箱になってしまう。前提と推論の両方が妥当でないと議論は妥当にはならないから、妥当な前提というものがそもそも存在しないなら、CTで妥当と認められる議論など存在しえないことになる。つまるところ、方法的懐疑を放置しておくと、CTで生産的な作業をするのはほとんど不可能になる。

 

方法的懐疑は強力である。その対処方法を知っておかないと、場合によっては(悪意ある者がいると)、話し合い(議論、対話)が不可能になってしまう。

かといって、日常生活では不確かな知識を使って当然、という態度だと、今度はCTをやる必要がなくなってしまう。結局、生産的にCTをやるために必要なのは、両極端を避けるための思考法である。…我々は、日常において決定を下す際にも、問題が重要になればなるほど我々はより確実な情報を求めるようになる。つまり、我々の生活は、一方の端に知識の確実さを全く求めない場面があり、他方の端に知識の絶対的な確実さを求める場面があって、その両方の間にさまざまなレベルでの確実さを必要とする場面が存在する。というような、一種のスペクトラムを成していると考えることができる。そして、必要とされる確実さが高くなればなるほど、使われる手法もデカルトの方法的懐疑に近くなるだろう。これこそ、序でいった「ほどよい懐疑主義」である。

 「両極端を避ける」ということで、伊勢田は、まず「誤った二分法」*2を避けるという話をしているが、これは省略する。(不平等論(6)誤った二分法 乱暴に考えないこと 参照)

「ほどよい懐疑主義」、言われてみればもっともである。とりわけ話し合いの場では、必要な心得だろう。

 

さて、誤った二分法を避けるべきだということ、そして問題の重要度に応じて要求される知識の確実さの度合いを変えるべきだということを認めたとしよう。では、要求される確実さの度合いを変えるには具体的にはどうしたいいのだろうか

「ほどよい懐疑主義」が同意されたとしても、具体的にどのように懐疑すればよいのか明らかになったわけではない。ただ単に「中庸をとれば良い」というものではない。ここで「要求される確実さの度合いを変えるには具体的にはどうしたいいのだろうか」という問いを立てなければならない。これは一種の能力だろう。

おそらく「ほどよい懐疑主義」を身につけるためには、自分にとって関心のあるいくつかの具体的問題を真剣に考える必要があるのだろうが、ここでは伊勢田の論述に従い、みていくことにしよう。

この手法については様々な議論があり、認識論においてはそうしたさまざまな立場が「文脈主義」と言う名前で一括されている。文脈主義とは、あることを知っているかどうか、ある主張が妥当かどうか、といったことについての判定は、その判定を下す文脈(何のために判定するのか、判定が間違っていた時はどうなるのか等)によって変わりうる、という立場である。言い換えれば、同じ人の同じ主張が、判定を下す側の文脈で妥当とも妥当でもないとも判断できる、と言う可能性を認めるのが文脈主義である。

文脈主義の一つのタイプは、「関連する対抗仮説」型と呼ばれるものである。このタイプの推論においては、まずある問題についての対立する主張(対抗仮説)がいくつかある時に、まじめに取り上げる仮説とまじめには取り上げない仮説がより分けられる。そして、まじめに取り上げる仮説(これを関連する対抗仮説と呼ぶ)の中で、自分の主張が他の仮説と比べて最も優れているということを示せれば、その主張が妥当だとみなすのに十分だ、というのが「関連する対抗仮説」型の文脈主義である。

「まじめに取り上げる仮説」と「まじめには取り上げない仮説」というのは、面白い(わかりやすい)言い方だ。

まじめにとりあげない仮説」というのはどういうものなのかを、デーモン仮説を例に考えてみよう。デカルトはデーモン仮説が正しい可能性を排除できない限り、目の前に紙切れがあると知っているとはいえない、と考えて、デーモン仮説が間違っていることを示そうと苦労した。しかし、たいていの文脈において、デーモン仮説が正しいか間違っているかはどうでもよい。例えば「今日夕立が降った」と言う主張の正しさを判定する場合、「夕立が降った」という経験をしたこの世界が本当に存在するか、それともデーモンが見せている世界の一部として存在するに過ぎないかは大した違いではない。夕立でびしょぬれになっていやな思いをするのも洗濯物を乾かし直さないといけないのも、現実世界だろうとデーモン世界だろうと変わらない。つまり、デーモン仮説は関連する対抗仮説とはならないのである。これに対して、「地面が濡れているのは水を撒いたためで、本当は夕立は降らなかった」という対抗仮説は、この文脈において、「夕立が降った」と主張するためには排除しなくてはならない可能性である。デーモン仮説と逆に、「水を撒いた」仮説は関連する対抗仮説なのである。そして「関連する対抗仮説型」の文脈主義によれば、関連する仮説が正しい可能性さえすべて排除すれば、その主張は妥当なものとして認められる。

確かに「たいていの文脈において、デーモン仮説が正しいか間違っているかはどうでもよい」と思われる。同様に、「たいていの文脈において、神仏(宗教)が正しいか間違っているかはどうでもよい」と思われる。

ここで「たいていの文脈」とは、「日常生活においては」と考えてよいだろう。(デーモン仮説を問題にするのは、認識や意識や存在について考える場合である)。

 

科学の実験においても関連する対抗仮説を排除することが重視される。例えばある薬がある病気を治癒する効果があると示すためには、その薬を投与した患者の大半が治ったという実験をしただけでは不十分である。その薬を投与しなくても大半が治ったのではないか、という疑いを(対抗仮説)を排除するためには、その薬を投与されなかった患者のグループと比較する必要があるし、薬を投与されたこと自体によって患者が治った気になってしまったのではないか(プラシーボ効果という)という疑い(対抗仮説)を排除するには、効き目がないことが分っている薬を(効き目があると信じ込ませて)投与したグループと比較する必要がある。しかし、この世界がデーモンの見せている幻かどうかは対抗仮説としては全く問題にならないし、実際、仮にデーモン仮説が正しくても、その幻の世界の中でその薬の効果がないなら患者が死ぬことには変わりがない。

プラシーボ効果については、かなりの人が知っていると思うが、次の解説記事をあげておこう。

プラシーボ(Placebo)の語源はラテン語の「I shall please」(私は喜ばせるでしょう。)に由来しているそうです。そこから患者さんを喜ばせることを目的とした、薬理作用のない薬のことを指すようになったのです。通常、医学の世界では乳糖や澱粉、生理食塩水が使われます。従って、プラシーボ効果(反応)は、このような薬理作用のないものによりもたらされる症状や効果のことをいいます。それはいい場合と(治療効果)、悪い場合(副作用)の両面があります。「これは痛みによく効くよ。」といわれて、乳糖を飲んで、痛みがなくなったり、逆に吐き気がでたりすることがあります。この場合、プラシーボにあたるのが乳糖であり、プラシーボ効果にあたるのが、鎮痛効果であり(治療効果)、吐き気(副作用)であるわけです。プラシーボ効果がどうして起こるかについては、次のようなことが考えられています。

1)暗示効果、2)条件付け、3)自然治癒力、4)その他

プラセボ効果とは、ニセの薬(全く効果のないとされている薬)でも、「これは効くぞ。」と思ってのめば、効いてしまうことです。薬に限らず、いろいろな治療法、健康法にも当てはまることです。言葉を変えれば、プラセボ効果とは心理療法みたいなものといえるかもしれません。…「病は気から」といいますが、多くの病気は身体的な要因と心理的な要因とが複雑に絡み合ってその人の症状を形成します。有効な薬がまだ少なかった昔、名医はきっとこのプラセボ効果をうまく使って患者さんを治療したのではないかと思います。あの人は名医だといううわさが広まれば、「あの人にかかればきっと良くなる。」という心理が働いて、本来の薬の効果以上の効果が現われるでしょう。

http://www.page.sannet.ne.jp/onai/Healthinfo/Pracebo.html

 プラシーボ効果は、薬に限ったものではない。ほとんどの健康食品や健康器具も同様であると思われる。確実に効果が検証されているならば、医薬品や医療器具として認定されるだろう。

私は、「宗教」の一側面は、苦痛に対する心理療法にあるのではないかと考えている。本当に薬理作用のある薬が望まれるのだが…。

 

本書に戻り、「主張の妥当性の判断についての文脈主義」について、再度引用する。

ある主張が妥当かどうか、といったことについての判定は、その判定を下す文脈(何のために判定するのか、判定が間違っていた時はどうなるのか等)によって変わりうる。

この説明を念頭におき、次のニュースを読んでみよう。

米空軍が2010年度以降の6年間に、日本の大学研究者ら少なくとも延べ128人に総額8億円超の研究資金などを提供していたことが、毎日新聞の調査で分かった。また、10~16年度に京都大と大阪大の教授ら11人が米空軍と海軍から計約2億円の研究費を受けたことも、両大学への情報公開請求で判明した。米軍からの資金受領に法的問題はないが、科学者の代表機関・日本学術会議は1967年、研究者や学会が米軍から資金提供を受けていたことをきっかけに、軍事研究を禁じる声明を出した。今回、資金受領が判明した教授らは「研究は平和目的で軍事研究には当たらない」と説明しているが、研究成果を米軍が軍事応用する可能性がある。米空軍が毎日新聞に開示した資料によると、10~15年度(米会計年度)に日本国内の研究者延べ128人に研究費として約7億5000万円を提供していた。さらに国際会議の費用と研究者の米国出張旅費でも計125件、計5000万円以上を支援した。研究者や大学名、個別の研究内容は明らかにしなかった。提供理由について、米空軍のダリル・メイヤー報道官は「米国だけでは手に入らない貴重な知見が得られるため」としている。…山崎正勝・東京工業大名誉教授(科学史)の話:日本学術会議の声明に反するのは明らかで、日本の研究者が米軍の軍備増強に加担すべきではない研究費は資金源と共にどういう文脈で出ているかが問われる。米軍資金による研究成果は民生利用できるとしても軍が使うことが前提であり、軍事研究そのものだこれだけ多くの研究者が受け取っているのは問題で、学術界や国民的な議論が必要だ。(毎日新聞2017年2月8日)

http://mainichi.jp/articles/20170208/k00/00m/040/193000c?fm=mnm

山崎正勝の主張の妥当性をどう判断すべきか。伊勢田の言う「ほどよい懐疑主義」で判断できるか。山崎の主張が妥当かどうかを判定する文脈とはどのようなものであるか。

「ほどよい懐疑主義」は、自然科学的な主張に対してのみ適用可能なのだろうか。

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http://armytechnology.armylive.dodlive.mil/files/2012/10/Lab_4-1024x681.jpg

*1:デカルトは、論理的に「デーモンが仕組んだ幻覚」を省察したのだろうが、感性的に「人生は夢幻(ゆめまぼろし)」と観ずる人は多いように思われる。「何事も 夢まぼろしと 思い知る 身には憂いも 喜びもなし」(足利義政)。

*2:誤った二分法…複雑な状況をAかBかと言うかたちで単純化して、AではないからBだ、と結論する過ち。人間をすべて敵と味方に二分して、「お前は味方ではないから敵だ」というような判断をするのはこれにあたる。