気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

心と遺伝子 ニワトリとタマゴ

木下清一郎『心の起源』(4)

二つの立場

ここで私たちは二つの立場に分かれざるを得ない。

その一つは、生命発生以来の歴史が示す通り、細胞、個体といった生命形態を通じて、遺伝子の支配はすべてに優先するものであって、個体の中に現れた心の働きも、その例外ではないとする立場である。最近ではこの傾向の考え方がむしろ主流と言えよう。ことに自然科学としての生物学の立場からはそうである。すでにこの立場を明らかにしている自然科学者もあり、説得力のある評論も発表されている(例えば、クリック『DNAに魂はあるか』)。

この立場は、「遺伝子つまり物質が心を規定する」あるいは「心(精神)とは、物質の働きである」ということを主張するもののように思える。自然科学者は観念論者ではないだろうから、この立場をとることに不思議はない。なお、ここで「遺伝子の支配はすべてに優先する」というのは、誤解を招く言い方である。「支配」などという言葉を使うのは自然科学者らしくない。

もう一つは、心の働きは何らかの理由から生物体というかたちの生命を超えて、遺伝子に従属する生物世界とは別個の、まったく独自の系列を創立したかもしれないとする立場である。この立場からすれば、心は遺伝子支配を脱して、生物世界を超えた別の世界を作っており、その世界は生物世界を超えた次元の原理で動くことになる。後に詳しく述べるように、この考え方には自然科学の立場からすると、大きな難点があることは否めない。しかし、逆に言えば、自然科学に不可避的に付きまとっていた制約から自由になり、新しい突破口を開く可能性を秘めているということにもなる。心と遺伝子との関係について、これから考えていこうとする背景には、このように対立した二つの立場がある。

この立場は、「心は、生物世界つまり物質世界を超えた別の世界を作っている」あるいは「心(精神)とは、物質を超えた次元にある」ということを主張するもののように思える。自然科学がこのような観念論に与することはないだろう。

しかし、このように観念論と唯物論に図式化したところで何にもならない。物(物質)⇔心(精神)の相互関連の解明こそが肝要であり、それは古代からの哲学の課題であった。しかし、哲学者は言葉をもてあそぶ癖があるようなので、本書のように生物学の立場からどのように主張されるのかは興味深いところである。

 

第3節は、「心は遺伝子に隷属するか」である。

心のいとなみを考えようとするとき、2つの立場があった。

  1. 心とは遺伝子の活動の産物であって、遺伝子の支配下に置かれている。
  2. 心とは何らかの契機を経て遺伝子の支配から脱却し、別次元の世界をなしている。 

 

自然科学の立場

自然科学に依拠する限り、第一の立場は導き出せても、第二の立場は導き出せないか、少なくとも甚だしく困難である。というのは、自然科学とは生じた結果とその原因との間に成り立つ因果関係を、客観的に明らかにすることをその目的としており、従って、心の働きは生命現象の一つに還元せざるを得ないし、その生命現象は物質のあいだの反応に還元せざるを得ない。さらにその先を掘り下げていくとすれば、化学の知識を借りて、物質の反応を分子や原子の性質に還元するよりなく、もっと推し進めるならば物理学の知識を借りて、原子の性質を素粒子とエネルギーの法則にまで還元していくほか道はないのである。こうして心は機械になり、人は物質になる。

この文章はおかしな感じがする。…実験と観察に依拠する自然科学の方法論がある。素粒子とエネルギーの法則に還元していくというのもわかる。しかし、このことから「心の働きは生命現象の一つに還元せざるを得ない」と言うのはおかしい。「心の働きを、生命現象[物理現象]の一つに還元して、理解してみる」というべきだろう。また「その生命現象は物質のあいだの反応に還元せざるを得ない」というのは、「生命現象」という言葉に、「心」を含めているのかどうか明確ではない。「生命現象」という言葉を、「物理現象」に、また「心」に置き換えてみれば、「還元せざるを得ない」という言い方はおかしな感じがする。

「こうして心は機械になり、人は物質になる」は、全くおかしい。「心の働きを、素粒子とエネルギーの法則に還元して理解」したところで、心は機械[物質]になるわけではない。

 

心のいとなみを遺伝子の産物であるとみなす見方が、自然科学から出てくるのは、こうしてみれば当然のことになる。しかし、ここで考え直しておかねばならないことがある。もともと自然科学には、心を脇に置いたまま考えを進めねばならないという宿命があった。自然科学では観察は客観的でなくてはならない。すると、心はどこにも入るところはなくなり(と言っては言い過ぎならば、かなり不自由な心しか入れないことになり)、因果関係をたどることが許されるだけで、心の大部分は抜け落ちたままにならざるを得ない。

「心のいとなみを遺伝子[物質]の産物であるとみなす見方が、自然科学から出てくる」というのは、適切な言い方ではないだろう。自然科学の方法論から、「心の働きを、生命現象[物理現象]の一つに還元して、理解してみる」と言うべきである。なお、「心のいとなみを遺伝子[物質]の産物であるとみなす」というのは、「心のいとなみは、遺伝子[物質]の産物である」というのと同じではない。

 

因果関係(因果律)が心の働きから独立して存在するのか。それとも因果律とは心の働きから生ずるものであるのかという議論を始めると袋小路に入ってしまうので、その議論は後回しにして、今はひとまず右のような立場をとって話を進めたい。

もし、自然科学の立場に固執して、心をいったん脇に置かねばならないという制約を負い続けるとするならば、この道はどこまで進んでいこうとも、十全の姿を備えた心に至ることはないであろう。すると、私たちは生物学から出発することを諦めねばならないのであろうか。はじめに予想した通り、自然科学と心との間にある自己矛盾が、ここで早速あらわになってしまったと言えよう。こういう破目から脱出するには、どうすれば良いのだろうか。

 

ニワトリとタマゴの問題

心と遺伝子との関係がこういう破目に陥ったのは、命題の立て方に問題があったからではなかろうか。生物学自身の中にも、心の場合とは少し事情は違うが、似たような問題がある。「タマゴが先か、ニワトリが先か」という有名な命題がそれである。もし、個体の発生の立場に固執した議論をし始めると、この問題は循環して際限がなくなる。これが「個体発生学」という立場の限界であろう。しかし、そこに歴史的な時間という要素を入れてみると、じつはタマゴでもニワトリでもないものから、両方ともに生まれてきていることが分かってくる。これが「系統発生学」の視点というものである。

系統発生学の視点は個体発生学の視点よりも一つ高い次元にあるために、低い次元での矛盾と対立が解消したと言ってよいであろう。つまり先ほどのタマゴとニワトリの問題が、どこまでいっても解けない問題と思われたのは、タマゴとニワトリが属している次元を超越しなければ解けないはずの問題を、低い次元のままに追い求めてしまったところに原因があったと見ることができる。

タマゴとニワトリの二項を対決させれば循環して際限がなくなったように、遺伝子と心の二項を立てて対決させても、際限のない循環に陥るばかりである。遺伝子が心を生み出したとも言えるが、心が遺伝子を生み出した、つまり心は遺伝子を超えているとも言える。結局、この循環からは何も得るところはない。それよりもタマゴとニワトリに先立つものを求めていったように、遺伝子と心の関わりにおいても、時間と階層の要素を入れて考える方が、何かを見つけられそうに思う。

 

①遺伝子[物質]が心[精神]を生み出す。②心[精神]が遺伝子[物質]を生み出す(この主張は理解が難しいが、ここでは詮索しないでおこう)。この①と②の循環は、ニワトリとタマゴの循環と同じ話だろうか。同じではなくても類似の問題として参考にはなるかもしれない。

ニワトリとタマゴに関しては、「タマゴでもニワトリでもないものから、両方ともに生まれてきた」という解決がある(系統発生学)。それは、「個体発生学」の次元よりも、次元を一つ上げた(あるいは「時間」という次元(観点、要素)を導入した)解決法である。では、遺伝子[物質]と心[精神]に、どういう次元(観点、要素)を導入したら良いのか。木下の言うように「時間と階層」の要素を入れればよいのだろうか。

f:id:shoyo3:20170212212104j:plain

http://www.kaminoge-design.tamabi.ac.jp/graduate_works/2009/4img/20580011.jpg

 

見せかけの循環

今は次のことだけふれておこう。心とは個体あっての心であると言って良いであろう。ここには二つのものが併存している。つまり、心を宿す器としての個体と、個体の中に宿っている心である。そのいずれも歴史的に成立した存在であることを忘れてはなるまい。まず個体についてみれば、こちらは遺伝子の出現を出発点とし、細胞、個体へと連なる生物世界の系列をなしていることは明らかである。つまり、個体が遺伝子の産物であることは間違いないところであろうが、それなら心がつくる世界についてはどうであろうか。(P21)

ここで次のように問うてみたい。心の世界とは、遺伝子を頂点とする生物世界とは別の系列をなす世界(あるいは「入れ子」の関係で作られた世界と言っても良い)となっていはしまいか、ということである。言い換えると、心と遺伝子のとの関係を探るのに、タマゴとニワトリの関係におけるように、見せかけの循環に惑わされてはいないか、それが今から検討していこうとしている事柄である。(P21)

もちろん、その成否はまだまったくの未知数ではあるが、その可能性を確かめてみるだけの価値はあると思う。先に私たちが混乱に直面せねばならなくなった原因は、もとはと言えば次元を異にしている遺伝子と心とを、一足飛びに結びつけたことにあったのかもしれないからである。(P21)

心の起源を求めて、私たちはこれからその歴史的な由来を一段ずつ解きほぐしていこうとしている。心の問題に入るのはそれよりほかに道はないし、もしかするとそこに遺伝子と心の対立を解消できる手掛かりを見つけられるかもしれない。これは言ってみれば系統発生学の次元に相当する「心の発生学」の視点とでも名付けたらよいであろうか。心が果たして遺伝子の奴隷であるかどうかは、系統的という視点で問題をよく見極めてから、ゆっくり結論を出してもよいではないか。(P22)

 

「個体は、遺伝子[物質]の出現を出発点とし、細胞、個体へと連なる生物世界の系列をなしている」というのはわかる。しかし、だからといって「個体が遺伝子の産物である」というのには違和感がある。なぜ「遺伝子」に特権的な地位を与えなければならないのか。

「心が果たして遺伝子の奴隷であるかどうかは、系統的という視点で問題をよく見極めてから、ゆっくり結論を出してもよいではないか」というのは、「乞うご期待」というところか。